一歩、二歩、頭のどこかで歩数を数える。あと二十一歩で職員室、その四歩 手前に校長室。もうすぐで階段だから、人と当たらないように予め窓側に寄っ ておいたほうがいい。もっとも、以前と違って、人とぶつかっても問題はない。 歩数は調節できるようになった…‥。 八月に事故に遭ったあと、彼は医者に「奇跡的」と言われるほどの回復をみせ た。手も足も元通り動くようになった。手術の跡は残っているけれども、執刀 医の腕が良かったのか、それはほとんど目立たない。言葉も話せるし、今は発 音にも問題はない。記憶障害もすぐに治った。 ただ、視力だけが戻らなかった。 彼は、術後はじめて包帯を取ったとき、いくら目をこらしても、世界を覆う 靄が残ることに焦った。他の身体機能が回復していくなか、その靄だけが一層 深くなり、いつしか、それは決して晴れないものと悟った。当初、楽観的だっ た医者も、あとひと月もつかどうかだと言うようになった。 そのひと月が、ふた月になり、み月になり、きっと「幸運にも」、彼はまだ 光を失っていない。当然やめなければならないと思っていた学校にも、先生達 の御厚意により、まだ通えている。このまま三月まで出席さえしていれば、卒 業できるよう取り計らってくれるそうだ。 目が見えるのが残りひと月とわかってから、彼は感覚だけで、学校の中を歩 き回れるよう訓練をはじめた。今では人と話しながら歩いていても、歩数を無 意識のうちに数えていて、大抵の部屋は間違うこともない。 最初は目をつむって訓練していたけれども、今はその必要もないほど視力が 落ちた。窓の位置、動く人影は今でもわかるけれども、ドアと壁の境界は、も う、ぼんやりとしか判別できない。でも、なまじ見えるから、壁に手を付けて 歩いたりはしない。そのため、今日も彼は影にいた男に気付かず、その背に触 れてしまった。 「あっ」 彼は声を揚げて手を引っ込めた。物影から黒い学生服を見分けるのは難しい。 最近は少なくなったけれども、まだ週に二、三度はこのようなことがある。 「いいよ。悪ィな」 そんなとき一度でも彼のことを見知った人間は、なぜか、謝ってくれる。も ちろん最初は気味悪がられたり、声を荒げられたりする。でも、愛想よく笑っ ていれば、誰かが男にそっと彼のことを教えて、事態は円く納まる。彼は経験 からそう学んだ。 廊下は突きあたりから右に折れ、少し行くと中途半端に窪んだ壁があり、廊 下はまた左へ伸びる。その辺りに窓はなく、理科準備室からはみ出てきた大き な棚が道を狭めている。校舎を建て増すときの都合で、このような不格好になっ たそうだが、彼は視力を失ってはじめて、その窪んだ壁に見えない扉があるこ とに気付いた。 彼は、はじめてその扉を開けたとき、この世にはもう一つの世界があること を知った。扉に隣接するのは夏の木陰のように薄暗い教室で、いつも窓から無 色の光が差し込んでいる。 「だめだな、僕は。歩いている途中、また人に触れてしまったよ」 そこには女の子がいつも一人っきりで座っている。少女の格好は、クリーム 色のブラウスに赤いスカート。髮はいわゆるおかっぱ頭で、ブラシを掛けてい ないのか、いつもどこかがほつれている。 「どうせ見えないなら家でじっとしていればいいのに。無駄な意地を張って 人に迷惑ばかりかけるんだ」 少女は彼の方を向いて何も言わずに微笑んでいる。 「そうだね。やっぱりだめだな、僕は。また、弱音ばかり吐いている」 彼は扉のそばに立ったまま、少女の目線を辿って窓の外を見た。白い体育館 の壁の向こうに、空が、やはり白く輝いているように見える。ずっと黙ってい るとボイラーの機械音ような、蝉の声のような音が遠くから聞こえてくる。 「そうだ。そろそろ授業だからもう行かないと」 少女の不思議な表情が、それでもクッキリと読みとれる世界。その扉を閉じ ると、また、あの朦朧とした世界が広がる。 授業中の彼は、教科書も読むこともできず、ノートを取ってもしかたがない から、先生達の御厚意に背かぬよう、ただ前を向いて座っている。朗読の順番 も、まるで花の飾られた机のように、彼の席だけを飛ばして行く。彼は、先 生と目を合わさないようにしながら、黒板をチョークが叩く音、ノートの上を 鉛筆が走る音を聞いている。そして、あの世界がちょっかいを出してくるのを 待っている。 案の定、おかっぱ頭の少女がどこからともなく黒板の前に現れた。少女は椅 子の上に乗って、先生達が書いた板書の上をなぞっていく。 少女が線を引くと、そこから黒板が割けて星空が現れる。少女が文字をつな いでいくと、方程式が星座に変わる。グラフの座標軸を取り払うと曲線をつたっ て流れ星が落ちる。やがて夜空の黒板には、彼がこれまで見たことのないほど の星がひしめいていた。 少女は台に乗り背伸びをして星座を描く。その傍らで、彼は街を描いていた のだけれども、ふと彼女が今年の夏は花火大会に行けないと言ったことに思い 当たった。 「そうだ。僕が花火を見せてあげるよ」 黒板の下から線を引いていくと、黒板に火薬仕掛けの花が咲く。でも、彼が 描く線は少女の線ほど輝いていないように思うから、別の花を咲かせてみる。 少女が喜んでいると思うから、色々な花を咲かせてみる。 そうして、彼は、気付かず、少女の描いた星座を消していく。 最後に夜空を焦がす真っ赤な大輪が咲いたあと、彼は夜空を見ながら、花火 の煙が星を隠していると思った。 その煙は、なぜか、彼の左手の黒板消しから出ている。彼が必死にそれを止 めようと黒板消しを振ると、余計に煙が立ってしまった。少女を見ると、先ほ どからの咳がひどくなって、咽から嫌な音を発している。彼が心配になって近 付くと、少女はかがみこんでしまった。その手の平には赤いものが付いている。 彼は思い出す。宙に浮いた体。白い空。アスファルトに散った血しぶきはま るで赤い花火のよう。花火のあとの長く深い闇。そして彼女は、 「死んでしまった……」 そう口に出しかけて、慌てて彼は現実に引き戻された。現実では先生の説明 が長々と続いている。彼が何かを言おうとしたことは誰にも気付かれなかった ようだ。 彼は少しホッとした。この学校にいる人達はどうやら彼以外に誰もこの世界 を見ることはできないようだから、変なことを口走ったら彼は言い訳できない。 一度、彼はもう一つ世界が存在することを、冗談まじりで友人に教えたこと がある。 「いいなぁ。そういうのって二十歳までに見ないとダメって言うでしょう。 できるなら私も見てみたいな」 幼馴染みの君子は、そう言って微笑んだ。無難な受け答えだなと彼は思った。 元は同じサッカー部の「親友」辰馬は彼の心を分析した。 「そういうのって、自分の潜在意識の発露なんだよな。事故の影響で、少し 精神的に不安定になってしまって、自分の欲求やトラウマが、過去の映像を捻 じ曲げて、君にそれを現実の事象として知覚させているだけだよ」 そう、なのだろう。でも、だからどうだというのだ。そういう分析結果を知っ ていようがいまいが、彼には、その世界が知覚できるのだ。そんな分析をされ ても、少なくとも彼には何の得もない。ただ、辰馬のような人は、この世界の ことを一生知ることはないのだろうと彼は思った。 でも、辰馬は何も悪くない。そんな話をした自分が馬鹿なのだと彼は後悔し ている。この世界のことは、この世界を訪れた人にしかわからないのだし、そ の人とは、きっとこの世界でも出会えるのだから。 放課後、いつもは辰馬と君子と彼の三人で帰る。彼は事故後しばらくは放課 後に病院に通っていたけれども、それも週末に一度行くだけでよくなった。辰 馬は、高校三年の冬ともなれば部活動にうつつを抜かすはずもなく、たまに補 習を受けに行くことがあるぐらいだ。君子は、すでに推薦入学を決め、今は最 後の高校生活を謳歌している。 「ねぇ、三丁目においしいケーキ屋さんを見付けたんだけど、今日はそこに 寄ってかない」と君子が言った。 「いいねぇ」と受験生にあるまじきことを辰馬が言う。 三人いっしょに帰ると言っても、その行程のほとんどはバスで、辰馬とは降 りる駅も違う。彼は、事故前までは一人、自転車で通学していたが、目の見え ない今となっては、バスを使うしかない。 君子は、同じ団地に住み、保護者さながらに彼を家にまで送り届けてくれる。 もちろん、腕を組んだり手を引いたりは、言えばやってくれるのだろうけれど も、しない。親切に信号や車の状況を彼に教えてくれる。つまり、彼女は自分 がいかに優しい女の子であるかを世の中に顕示し、それ以上に健気な自分に自 己陶酔したいわけだ……なんてことを信じて親切を疎ましがるほど彼の被害者 妄想は強くない。 ただ、今日は辰馬の誕生日。だから、彼は嘘をつく。 「ゴメン、今日は病院で検査があるんだ。病院で親と待ち合わせてるから俺 は一人で帰るよ。ケーキは二人で行ってこいよ。でも、何なら土産に家に届け てくれてもいいぞ。オット、日が暮れる前には帰りたいから、次のバスには乗 らないと」 そう言って彼は、少ない荷物を手早くカバンに詰めた。 「う、うん。じゃあ、気を、付けてね」 君子は、最近、彼と話をするとき、ときどきまるで痛い腫れ物にでも触れる かのように、おずおずとしている。 二人を背にして、彼は足早に去る。頭の中の万歩計が、いつものように歩数 を刻む。 いつもと反対側のバス停で、ガードレールにもたれてバスを待つ。早足で門 を出た手前、待っている時間が気まずい。彼はバスの来る方向をずっと見てい る。遠くに焦点を合わせようとすると、目の疲れるのが早い。だから、彼は特 に視点を定めず、ぼんやりとその方角を眺めている。 すると、曲り角の赤い反射鏡に沿って、少女が珍しく元気に駈けて行くのが 見えた。彼は、いっしょに駆けて行きたいのだけれども、行けない。目の悪い 彼が走っては危ない。バスを待っているから行けない。それは事実だ。でも、 理由はそれだけではない。なぜだか、悲しまなければならない気がして、駈け るような真似ができないのだ。 彼が付いて行きたくてウズウズしていると、少女はぬかるみに足を取られて、 長い花茎の間にうつ伏せになって倒れた。最初、反射鏡と見えたのは赤い彼岸 花だったようだ。彼が少女に近付こうとすると、黒衣の女が立ち塞がった。黒 衣の女は、泣いている少女の周りの花茎を折りながら言った。 「なんてキレイな赤い花。でも、知ってる?彼岸花には毒があるのよ」 彼は「やっぱりそうか」と思った。いや、そう思ったのはずっと後のことだっ たかもしれない。 その女は抱えていた花束に、折った花を加えた。その毒の花で聖なる土地 を飾るつもりなのだ。 彼は公園前でバスを降りた。ここで降りたのは、用もないのに病院に行くの は馬鹿馬鹿しいし、この路線で彼が歩き慣れた場所といえば、病院と公園のほ かなかったからだ。 ベンチに座って「我ながら馬鹿なことをやっているな」と彼は思った。それ でも、今すぐ帰りのバスに乗って、辰馬と君子に鉢合わせになるのは、いかに もマがヌケているから、しばらく公園をぶらつくことにした。 街をはずれたところにある公園、まして季節が冬ともなれば、ほとんど人が いない。静かだ。犬を連れて走る人の息どころか犬の息まで聞こえてくる。 さらに耳を澄ますと茂みの方から人の声が聞こえてきた。人間、ある部分が ダメになれば、かわりに別の部分がそれを補うように発達するという。そうい えば、彼の場合、目が見えなくなっていくほど、耳がどんどん冴えてきたよう な気がする。彼は近くのベンチに座ってそっと耳をそばだてる。 じっと座っているのが、とてもつまらなかったので、彼は少女と二人で御堂 から逃げ出した。裏木戸から外に忍び出て、小川に沿って薄暗い竹林を進む。 「待って。何か聞こえる」 竹の葉が風に擦れる音、急に走って早くなった少女の息、そして、その他に、 「ほら、人の声が聞こえるじゃないか」 少女は首を振った。でも彼には確かに聞こえている。 「行ってみよう」 足音を殺し、息を殺し、物音を立てないように注意して、彼は少女を声のす る方へと誘う。 彼は、彼が「これからも社会の役に立つ」ことを教えようとする、とても親 切な教師の勧めで、一度だけ、障害者の集まりに顔を出したことがある。その 日は、生来の聴覚障害を克服して立派に社会で働いているという男性が話をし ていた。でも、彼には、その男性の発音が、とても社会で「立派に」通用する ほどのものではないように聞こえた。生まれたときから訓練して、そこまでし かできないのかと彼は思った。それでも彼は、耳は聞こえない方が幸せだと、 ときどき思うことがある。最近、彼の耳に届くのは、聞いても役にたたない話 か、聞きたくもない話ばかりだから。 薄暗い竹林は一段高くなってから途切れていた。その向こうは彼岸花に囲ま れた太陽の差す明るい窪地。確かにそこに人はいた。重なり合う二つ影。幼な 心に強すぎる刺激。胸の動悸を抑えつつ彼は、横目で少女を見る。少女はこれ 以上なく目を見開いて、興味津々息を飲んでいる。女の子と二人で、こんな景 色を見るのはとてもいけない気がするけれども、彼も目が離せない。服装から 男女であることはわかるけれども、二つの顔は重なってよく見えない。 でも、彼は気付いてしまった。その一方を彼はよく知っている。あの黒衣の 女だ。では、一体、男の方は誰なのだ。 彼は少女の袖を引きながら小さな声で告げた。 「ダメだよ。やっぱり、覗くのはいけないことだよ」 そのとき、彼にあったのは、恥ずかしさに似た罪悪感でも、幼な心に宿る正 義感でもなかった。ただ、背筋が寒かった。女の紅い口唇が怖かった。 彼は少女の手を、幾分、乱暴に引いて竹林を出た。少女はまだ興奮覚めやら ぬといったふうで「スゴイ、スゴイ、初めて見た」と言って、はしゃいでいる。 「あれぐらいドラマでやってるじゃないか」 そう言いながら、彼は棒で、赤い花の細い花弁を散らしていた。 「でも、実物は違うよ。スゴイ、スゴイ」と少女が言う。 「そうかなあ、そうかなあ」と言って、彼はさらに棒を振るう。赤い花弁が 飛び散る。彼は、さらにさらに棒を振るう。 花がかわいそうだと言って、少女は落ちた花弁を一枚拾った。その端を両手 で引くと、それは糸のように伸びていく。彼女はその一端を彼の小指に括り、 もう一端を自分の小指に括り付けた。少女は声を出さずに微笑んで、ずっとそ のまま遠くへ糸を引き伸ばしていく。永遠に切れない赤い糸。それは二つの子 供心のせいいっぱいの告白。でも、 「彼岸花には毒があるんだ」 気付くと少女の姿はなく、先程までいた冬の公園でもない。 暑い。残暑というにはあまりにも暑い。ここはさっきと同じ場所、彼岸花が 咲いている。 でも、少女は?少女はここにはいない。あたり前だ。今年の夏は彼女はいな い。夏はまだ終っていない。 今年は去年よりも彼岸花が多い。 黒衣の女が彼に教える。 「彼岸花はその年に死んだ人の血を吸って大きくなるの」 花が多いなんてものではない。一面、赤い花。彼岸花の畑のようだ。しかも 花茎は彼の背ほどに高く、ともすると花弁が彼の頬をなでる。 彼は、頼りなくも細い枯れ枝で茎を薙ぎ倒していく。 「うわっ」 折れた茎から彼の目をめがけて毒の汁が飛ぶ。見ると折れた部分から、赤く ドロドロとした液体が流れている。それは地面をつたって今にも彼の靴の中に 入り込もうとしている。 彼は細い枝を振り回しながら、ぬかるみの中を走る。 ダンッ。 彼は何かにぶつかって倒れた。 倒れた彼は何かを掴んだ。そっと拳を上げて見る。手首をつたって泥が落ち る。握られた手を開くとつぶれた花、鮮やかな赤い花があった。花はどんどん 崩れていく。細い花びらが一枚一枚散っていき、泥といっしょに冷たい線を手 首に描く。 彼は視線を前に移す。彼岸花に囲まれた黒衣の女が、細く紅い口唇を曲げて、 笑っている。 「なんで、あなたは笑っている」 その言葉が出ない。出してはいけない。 彼は、少女の手を引いて逃げ出す。いや、今年の夏は少女はいない。握って いるのは、 「赤い花だ」 夏の夜空に大輪の花火が咲き誇る。 去年までの夏はいつも隣に少女がいた。今年は彼一人だ。 「一人っきりじゃないでしょう」 後ろから声を掛けたのは黒衣の女。女は二人連れで来ている。 黒衣の女の隣にいる男は誰だ。彼は男の肩を掴む。 振り向いたのは二つの男の影、彼は影に向かって拳を揮う。所詮、影だから 当たらない。二つ影が彼のことを笑っている。 彼はその場から走り出す。 「逃げ出したわけじゃない。急いでいるだけだ」 彼は自転車に乗っている。 それにしても咽が渇く。暑い。あたり前だ。今年の夏はまだ終っていない。 それどころか夏はまだはじまったばかりだ。最後の夏、自転車をこぐ足にも 力が入る。 空がまぶしい。赤い反射鏡が一瞬、日の光を照り返す。曲り角で急ブレーキ、 後輪が流れる。突然現われた黒塗りの車、中では紅い口唇が笑っている。 ダンッ。 アスファルトに血の花を咲かせたのは彼自身だった。 彼はその後の深い闇の中にいて、誰かが待っていることを確信していた。待っ ていたのは、 「僕だ。僕はずっと待っていた」 ある日、みんなが帰ってしまった教室で少女と二人きりになった。少女は 「夏休みはもうここにはいない」「花火大会にはいっしょにいけない」と言っ た。彼がその理由を尋ねると、彼女は、 「私ね、死んでしまうかもしれないの」 そう答えた。 いや、そう言ったのは母だったか。 「お父さんね、死んでしまうかもしれないの」 そして、父は「死んでしまった」。だから、彼女も死んでしまうような気が して、彼は必死になって少女を諭した。 「弱音を吐いちゃだめだよ。きっと手術は成功する。成功するから、僕は君 を待ってる。ずっと待っているから帰って来るんだ」 だから、今度は彼が手術室に入ったとき、きっと彼女も彼のことを待ってく れているものと思っていた。 彼女は帰って来た。いや、帰っては来なかったのだ。なぜなら、本当の彼女 は、ずっと、もう一つの世界にいて彼を待っていたのだから。そして、本当の 彼も、これからはずっと、もう一つの世界で生きていくのだ。 彼は、彼の前から世界が消えるとき、彼自身が世界から消えてしまうのでは ないかと考えたことがある。彼がどこかで生き続けていても、誰も彼の名を話 題にすることはなくなるのだ。彼はまだ光を失っていない。それは、長く深い 闇の底に落ちても、もう誰も待っていないことを知ってしまったから、必死に 光を逃すまいとしているのかもしれない。 誰かが彼の体をゆすっている。少しの間、彼は夢を見ていたようだ。慌てて 声を揚げようとすると、彼の口は少女の手によって塞がれた。そうだ。彼らは 先程から黒い二つの影を覗いているのだ。 彼は少女の袖を引き、小声で話しかける。 「あっキスをしているよ」 女の方はよく知っている。では、一体、男の方は誰なのだ。 彼はなかなか出ない答えを咽から絞り出す。 「あ、あれは僕だ。未来の僕と君の姿だ」 そう言ってしまうと、やはり気恥ずかしくって彼の胸の鼓動は激しくなった。 気になって少女を横目に見る。少女は、何か不思議な表情をしていた。 葬儀を終えて帰るバスの中、黒ずくめの人達が世間話をして笑い合っている。 黒衣の女は、皆の手前、淋しそうな表情をしてその心を隠している。彼はとい えば、そう、彼も少女と並び、ポケットの中の秘密を気にして、そわそわして いる。 薄暗い林を抜けて、バスはゆっくりカーブを曲がる。フロントガラスから急 に光が差し込んでくる。それは白い日の光。でも空は……空は赤く輝いている。 彼は驚いて少女の顏を見る。少女の顔も火照ったように赤い。それだけではな い。バスの天井も廊下も、彼の白いワイシャツも赤く染まっていた。 長く特別な一日は、今、終ろうとしている。 蛇行する山道を走るバスの中、陽炎のようにうごめく黒衣の集団。 膨らんだポケットの中、二人の小指に結ばれた赤い花弁。 黒い山と山の間に輝く太陽。夕日に火照る彼女の顔。 それは、いつか、夏の終りに見た白昼夢。 彼は公園の林を抜けた高台の上で夕焼けを眺めていた。照明もほとんどない 林で、日が完全に落ちてしまえば、彼には何も見えなくなる。家に帰ろうと急 げば、段差から落ちて折角治った足を折ってしまうかもしれない。または、葉 の落ちた木々に、ほとんど機能していない目を貫かれるかもしれない。人の住 む街が見下ろせるこんな場所から、彼は家に帰ることさえできない。ただ、冬 の寒空の下、惨めに腹をすかして一人野宿するしかないのだ。 ピピピピピッ。 カバンの中の携帯電話が鳴った。帰りが遅いのを心配した母からの電話だっ た。彼は心配を掛けたことを詫びたあと、今居るだいたいの場所を告げた。小 さいころ花火を見に何度かいっしょに来たことがあるから、母にもこの場所は わかるはずだ。 「いい世の中だ……」 どこにいても携帯電話があれば、助けを求めることができる。道行く誰かに 事情を話せば、広い道にまで案内してくれる。校則で携帯電話の所持は禁止さ れているけれども、彼には「特別な事情があるから」それも許されている。再 婚後、関係がギスギスしていた母も今は「彼の幸せのため」に優しい。 そう、きっと彼はこれからも「幸せ」に生きてゆけるのだろう。 例えば、道に迷ったら、携帯電話を使えばいい。 例えば、誤って人にぶつかったら、愛想よく笑っていればいい。 例えば、夜道で、友人と間違えて肩を叩いた男二人にタカられても、あらぬ 方向へ拳を向ければ、どちらかが「やめようぜ」と言って逃してくれる。 例えば、幼馴染みと親友の待っている教室で、どう見たって二人が重なり合 うような距離にいても、見えないふりをして「早く帰ろうぜ」と言えば、「い つまでもいい友達」でいられる。 彼はそうして生きていく。生きていくのは簡単だ。 「ああ」 彼は枯れ芝の上に仰向けになって空を見上げた。風が、乾いた草をカサカサ と鳴らし頬を冷たく通り過ぎる。赤く滲んでいた空はすでに暗く、彼には靄で もかかっているかのように見える。 いつのころからか彼の夜に星はなかった。