白涛を劈いて四隻の船が水竜を追う。三段櫂船を基船として右翼に二隻、左翼に一隻の二段櫂船が先行する。操船指揮官の短い笛と鞭が奴隷達に櫂を漕がせ、遥か南方から連れて来られた奴隷の黒い筋肉から汗を搾る。  水竜は黒い背を海蛇のようにくねり、呼吸のためときおり醜悪な顔を海面に曝す。両体側の鰭は軽く閉じられたまま動くことは少ない。その泳ぎは速い部類に入るが、二段櫂船の全力操櫂の速度には及ばない。  右翼最前方の船が竜の隣に追い付こうとするとき、基船の前方索敵手が声を揚げた。  「水竜、潜行しました」  近付くと水竜は海中に潜り方向を変える。速度に勝る船だが、機敏な方向変換はできない。さらに三段櫂船は推進力に優れているが、旋回能力は二段櫂船に譲る。それが今回、二段櫂船が多く用いられた理由だ。無論、経済的理由もあったのだが。  「水竜、左舷へ移動中」  「全船、速度を落として待機。急旋回に注意!」  司令官の命令が、法螺の合図と旗振りで伝わる。  「水竜、浮上。速度上げます」  港に停泊し監視すること五日目にして、ようやく竜の姿を捉えたのだ。  「隊形を保って方向変換。絶対に逃がすな!」  芯のある声で四隻の船を率いる男、今はアブドバルと名乗っている。  彼の潮風に刻まれた皴や太陽に永く焼かれた浅黒い肌は四十に届くとも見える。だが、彼の場合、無駄のない筋肉と鋭い眼光から連想する二十代前半が本当の歳だ。彼が右手小指を失ったぐらいは兵士として珍しくもないが、それ以外の傷痕の数は経験した戦の多さ、過酷さを表している。彼は元、傭兵であった。  今アブドバルが身を寄せる国は異国民に対し異常なほど寛容だ。異国から流れてきた人間が市民達と肩を並べて歩く姿など彼の生国では想像もできない。さらに彼は半市民の称号を得て市民とほとんど同じ生活が保障されている。しかし、未だ三十にも達していない半市民が特別軍とはいえ司令官になるなどは異例という他ない。  そもそも今回の特別軍はバルカ家の要請に依る。バルカ家は、古くからある家系の一つだそうだが、ここ数十年の北西への新航路開発により力を付けた新興勢力と目されている。すでに他家に支配された港を避けて新しい港を拓くには、土着民と争う必要もある。軍事が重視されないこの国において、格別、彼らが主戦派として軍に影響力を強めたのは当然のことかもしれない。当時名の知れた軍国から流れてきたアブドバル達を厚遇したのも彼らだった。  バルカ家の新航路を行く船が、黒水竜と呼ばれる巨大な竜に襲われるようになったのは二、三年も前のことだ。その水竜の退治にこれまで何度も漁船団を送ったが、悉く失敗していた。  そこでバルカ家は特別軍を要請した。しかし、その要請にはどの海将も応えようとしなかった。これまでの船団も漁船とは名ばかりの軍船であったことを知っていたからだ。つまりバルカ家は軍と称することにより、それだけの覚悟を求めたのだ。  そんな中、三段櫂船一隻の船長でしかないアブドバルが名乗りを上げた。受ける人間が居らず困っていたことは確かだが、それ以上に「褒奨金は半分で良い。一週間あれば十分だ」という強気な言葉が派手好きなバルカ家当主の心を掴んだ。  たった四隻の船とはいえ、特別軍。大口を叩こうが叩くまいが、軍を率いて失敗すれば法に順って磔は免れない。  「よぉし、このまま。距離を詰めるなよ」  竜は少し速度を落としながらも直進している。まだ見えないが、この先には岸から網が仕掛けてある。もっとも網と言っても竜のためのもの、人が易々と泳ぎ抜けられるほど網目が広い。  「射手、攻撃凖備しておけ」  竜の視野が広いのか耳が良いのか、射た矢、投げた槍はくねる竜の隣に飛び込む。数を射れば潜行する。潜行した水竜に矢が届くころには、その固い背を貫く力は失われている。攻撃は牽制に過ぎない。攻撃により竜に向きを変えさせるのだ。  アブドバルの攻撃準備は準備で終ることも多い。他の海将ならば、もっと海に鉄を注ぎ、執拗に竜の舵を取ろうとする。アブドバルは作戦として徒に竜を刺激しないのだろう。第一、武器の用意にもそんな余祐はない。  この国では軍の装備は司令官が調えるもの。しかし、本来船長でしかないアブドバルにはその資金がない。借りた金で船三隻と訓練された兵士と奴隷漕手団を揃えたが、それで尽きた。それでも固定資産のないアブドバルが、それだけの借り入れができたのは、偏に経験からくる信用が故だ。  休みがちな竜をときおり矢で急かしては追い立てる。そろそろ網の位置を示す浮子も見えて来た。日もまだ高い。波はややあるが櫂を漕ぐに支障はない。風は静かだ。万事順調。だが、  「おかしい。うまく行きすぎている」  この先に仕掛けた網は以前の隊が用いた物を流用している。他の隊も同様な作戦を用いていたはずだ。それが失敗したのは運が悪かったのか。いや、この国には運が悪いぐらいで諦める繊細な人間はいない。  アブドバルに考えている暇はなかった。浮子が引かれている。竜が網に掛かったのだ。網自身に仕掛けはない。行く手を防いでいるだけにもかかわらず、竜は水面に首や尾を出し、まるで溺れているかのようだ。  「まだ近付くな。矢と投げ槍で攻撃しながら、できるだけ岸へ追い込め」  遅かった。命令が伝わる前に功を焦った右前方の船が突進を始めたのだ。奴隷達は呻き、兵士達は奇声を発する。全力操櫂による突進が始まれば容易には止まらない。  彼らの乗っている櫂漕船の攻撃は、海面から犀の角のように突き出た衝角を敵の船に向け突進し、その側面に風穴を開けるのが常道。不安定な足場からの矢や槍は誇りある海軍が頼るべきものではない。  衝角は海面のちょうど上辺りを狙うが、水竜の体のほとんどは海面下にある。功を焦ったとはいえ、アブドバルの選んだ部下である。単に突っ込むようなまねはしない。竜の前を横切るような進路から海上に挙げた首へと急旋回する。竜の喉を掻くつもりか。  帆綱の引きに帆柱が唸り、四人の操舵手は二本の櫂を渾身の力で振り上げる。船は傾き倒れんばかりだが、奴隷達の櫂はなお海を打つ。  竜は、さらに上体を起こし、迫る船を斜めに見る。まるで狙うならこの白い喉だと挑発するかのようだ。絡み付いたと見えた網は、尾に払われてすでに後方にある。  上げた首が振り降ろされる。バキバキと櫂の折れる音がする。衝角は虚しく空を刺す。固い背は、もう、船首の隣にあった。竜は網に捕られた船を過ぎるとき、尾でわざわざ船尾を二度叩いてから行った。  動けずにいたアブドバルの船の前を巨大な影が通り過ぎる。一個の生物でありながら二段櫂船ほどの長さがある影だ。  「射手、槍手、攻撃開始!操船指揮官、後方操櫂。後退しながら前方の船に旋回余地を与えよ。前船旋回後、本船も旋回し、水竜を追う。急げ!」    しばらく二隻で水竜を追っていたが、救助のため遅れた一隻を加え、今は三隻で追っている。突撃を行った船は、残る櫂を使い港に帰ったようだ。  アブドバルは水竜を追うこと三時間を過ぎ、いまや先人の失敗の理由も承知した。追い付けば竜は潜行して方向を変え、やっと船が向きを変えて追い付くとまた方向を変える。矢も槍も効かず、こちらが動かなければ、向こうも動かない。網に掛かるのはもう嫌らしく岸の方には近付かない。  それどころかすっかり沖の方まで出てしまって、地平線には海しか見えない。本来、岸近くに住む水竜が、まさかこんな沖合まで来るとはアブドバルも予想しなかった。  「あアー、この辺でやめといた方がええな」  案内役の老漁師が言った。名はタロウと言う。  「何を言うんです。もうすぐでまた追い付くじゃないですか。竜も疲れて来ているはずです」  若い司祭が反発した。どの軍でも司祭を一人随行させねばならない。この男には生来の市民であるがゆえの地図を読む権利以外の能力はない、とアブドバルは思っている。  「竜が疲れるまでは待てんよ。わしは帰りにしけにもまれて死ぬってのはごめんでな」  「はっ、目に埃でも入ったんじゃないですか。空には雲一つありませんよ」  この意見には操船指揮官も同調した。  「私もここは追うべきだと思います」  司祭は疲れているのだろう。操船指揮官自身も今は副官に笛をまかせている。しかし、漕手達は交替で漕がせているので疲れはないはず。竜が疲れているかどうかはわからないが、この天気でみすみす竜を逃がす必要はない。  その理屈はアブドバルにもわかる。わかるけれども、  「あと二十分……」  アブドバルはそう言って、ちらりとタロウが頷くのを確かめて続けた。  「二十分追跡を続けたあと、老人の意見を尊重して、一端引き上げようではないか」  アブドバルはタロウに絶大な信用を置く。かつて身を持ってそれを学んだのだ。  三年前、彼の居た隊が激戦を制した帰り、補給のため島に立ち寄った。ある漁師が故郷へと逸る軍人達を引き留めた。それがタロウである。軍人達は当然のごとくこの老漁師を嘲笑った。その中には当時一兵卒に過ぎないアブドバルの姿もあった。だが、出港した船団は嵐により沈んだ。重い鎧をつけた市民のほとんどが助からなかった。この後、一命を取り留めたアブドバルが半市民の称号を得たのは、激減した市民軍人の数を補うためでもあった。  タロウは後継ぎ二人のうち、一人を戦争に、もう一人を水竜に奪われた。それ故にその後再三の誘いにも関わらず、アブドバルの軍船に乗ろうとはしなかった。だが、今回の敵は憎き水竜だ。渋り渋りタロウは誘いを承諾した。戦争で死んだ次男が生きていれば、ちょうどアブドバルぐらいの歳だ。  海が荒れている。水位は上がり、風が音を立てる。波は防波堤に砕かれても船を揺らし、船を繋ぎ雨除けの布を広げる人間達の邪魔をする。アブドバル達が港に着くころには、降り出していた雨は、船に布を広げるや大きな水溜りを作るほどになった。港に向かうのがあと半時も遅れていれば、無事帰り着くことは難しかったろう。  作業を概ね終えたアブドバルはタロウと共に石造りの商館の前に寄り、葡萄酒で冷えた体を温めていた。港を見れば、漁船やアブドバル達の軍船のほか、停泊中の商船の数も多い。  「わしが子供の頃は港で見る船といえば釣り舟くらいのもんだったがな。今じゃ帆船だの漕櫂船だの格好ええ船で港が埋まるほどじゃ。」  タロウは雨に向かって呟いている。  「港も立派になった。これぐらいの嵐ではびくともせんようになった。漁船も大きいのが買えるようになった。暮らし向きは良うなった。良う、なったんじゃがな」  タロウのくすんだ横顔を見て、アブドバルは彼には死んだ二人の息子の他に娘が何人かいたことを思い出した。  「娘の婿は皆、商人でな。冬でも麦やら酒やら持ってきてくれる。昔は冬になると飢えとったもんだがな。最近は食い物で苦労することも無うなった。  そういやあ、竜の奴も昔は冬になればガリガリに痩せとったもんだ。でも、あの頃は竜が人を襲うようなことは無かったんじゃがな。いつのころからか人間の味を覚えやがって。今じゃ冬だろうがでっぷりしておる。あのでけぇ口に人間はちょうどええ大きさじゃし、年がら年中行き来しとるしのぉ、口にさえ合えば一年中食いっぱぐれん。  案外、港がこんな風にならず船も少ないままだったら、竜が人を襲うことは無かったのかもしれんな」  「竜は滅びゆく動物です。この辺りでも奴が最後の一匹だと聞きます。その一匹が人と共存する道もあったのでしょう。ですが、こういう時代の流れの中、その巨体ゆえか嗜好ゆえか、人と争う道を選んだのです」  アブドバルはそう言って立ち上がり、荒れる海を見据えて、低い声で呟いた。  「いや、選んだのではない。争わねばならぬのも、その結果滅びねばならぬことも、今に竜として生を受けたものの宿命、避けられない宿命なのだ」  嵐は夜のうちに去った。朝、西の空で輝き競う星座達を遮るのは曙光の他にない。  早く目覚めたアブドバルは穏かな海の前に一人の男を見た。アブドバルも背は高い方だが、その男は彼より頭一つ大きく、隆々たる筋肉は動かずともその剽悍さを表す。アブドバルはその男を知っている。かつて長かった黒髪は剃られて地肌をさらし、後ろから射す日に光っている。  「早いな。アラトス」  アラトスと呼ばれた禿げ頭が口の端を歪ませる。  「フフッ、おはようございます。アブドバル司令官殿」  「フッ、お前が言うなよ。二人きりなんだ。いつも通りクリオスでいい」  クリオスとはアブドバルの元の名である。  アブドバルは十歳のとき戦争遺児となって孤児院の門をくぐった。そこにはすでにアラトスがいた。二人の出合いである。似た境遇の二人であっても話すことは少なかった。だが、そこは共に武人を目指すもの、互いに実力を認め合っていた。やがて傭兵となり、同じ戦地を選び何度も同じ死地を掻い潜るうちに、二人は自然にコンビを組むようになった。  「かつての黒髪の獅子が見る影もないな」  鉄の甲胄に大きな盾、伝統的な重装歩兵のスタイルのはずが長身ゆえにそうは見えない。それがアラトスのいつもの装備だった。重装備も軽々と、長い黒髪を振り乱し、武器を躱しては体当り。倒れた敵の喉や腹を長剣を約めて作った幅広の短剣が裂く。野獣のごときその姿は、いつしか国境のない傭兵の世界で黒髪の獅子と恐れられるようになった。  トレードマークを無くしたアラトスは頭をペンと叩いてやり返す。  「ハッ、三叉の竜が竜退治とは業が深い」  黒髮の獅子を知るもので三叉の竜を知らぬものはない。剣士達が黒髪の獅子を畏れたのに対し、その後方を守る槍手達が畏れたのは三叉の竜こと、クリオス=アブドバルであった。アブドバルの槍は刃が三つに割かれた三叉。彼の三叉は幾百の槍を制し、運良く懐に潜り込んだ剣士は抜き様の大刀に両断された。長い三叉を竜の首に、腰に帯びた大刀を尾に見立てたのが渾名の由来だ。  だが、二人がその名で呼ばれることも今や少ない。クリオスは船を指揮する立場になり、前戦で槍を交えることは稀である。一方、アラトスは完全に戦線を退き、船大工をする傍ら傭兵や剣奴に剣術の指南をして生計を立てている。  違う人生を選んだ二人に多くの言葉はない。長く、ただ海を見ていた。  「奥さんの具合はどうだ。最近は立って市に出るまで快復したと聞いたが」  「おかげ様でな、クリオス。お前のよこしてくれた乳母が妻にもよくしてくれてる」  アラトスの妻は、最近長子を儲けたが難産だったらしく、産後床に伏せっていた。彼女は漸く歩けるまでになったが、もう子供は産めない体だと聞く。長子の方はつつがなく育ってはいる。  「帰ったらどうするつもりだ。アラトス」  「帰れたら妻を連れて別の国に行くのも悪くないか。この島に住んでも良い」  また、しばらく海を眺めてからアラトスは言った。  「クリオス。妻と息子を頼む。こんなことを頼めるのはお前しかいない」  アブドバルとアラトスが、今はアラトスの妻となった女に遭ったのは、この国に着いてすぐのことだった。それから三人で酒を飲んでは、舟に酔い、ときに砂浜で歌った。男二人が彼女を賭けて争ったこともあるかもしれない。それも遠い昔のことだ。  アラトスが死んだ後、やはり孤児であった彼女を護れるのは彼しかいない。  「ああ、わかっている」  船団は再び海にいた。朝日に海がきらめいている。四隻の船は十分に距離を置いて四方にある。中心には何本かの丸太があり、その下には竜の餌として死んだ馬の肉が括り付けてある。丸太の周りには、基船以外の三隻の船と繩で繋がった三艘の小舟があり、それぞれ二人の男を乗せていた。その一人は舟の漕手である。もう一人の男はそれぞれ五本の「釣り針」を持っている。ただし、針は形こそ釣り針に似ているが、その直径は人の片腕よりも大きく、その先端部は正に銛そのものである。針の尻には繩が結んであり、その繩のもう一端は遠く二段櫂船にある。  「竜が餌に食いついて来たところをその背に乗り、針を背に掛ける。さらに針は『隙間』に通さなければならないそうじゃないですか。うまくいくんですか」  竜の背は固い鱗状の皮膚に蔽われているが、鱗と鱗の間には隙間があることもある。特に背鰭の近くは鱗が小さく隙間も多い。遠方からその隙間を狙うのは困難だが、背に乗れればそれも可能だろう。  司祭の問にアブドバルが答える。  「わからん。俺の国ではこれでうまくいったと聞いた。もっとも竜もあれほど巨大ではなかったろうがな」  これ以上聞きようもなかったので、司祭は質問の方向を変えた。  「しかし、こんなところで待っていて本当に竜が現れるのですか。昨日竜が現れるまでに五日間も待っていたのですよ」  今度はタロウが答える。  「現れんかもしれん。昨日現れたのは餌を探していたからじゃ。その途中に追い駆けられた上、まっすぐ帰ったわしらと違って奴は嵐の中を泳いで帰ってきとるはずじゃ。今日は疲れて、近場で餌を探すはず。とすればこの辺にも現れるかもしれん。  第一、『五日間も』と言うたが、初めて島に来た人間がたった五日間で島のどこに現れるかわからん竜を見つけられると思うか。だいたいの場所ならわかるんじゃよ。それに今日は条件が揃っとる。断言はできんが現れるじゃろう」  心許ない返事に鬱々として司祭の時間は過ぎる。  果たして、それはやって来た。人間の船などまるで眼中にないかのように、竜は餌に近付き・・・だが、餌には食い付かなかった。その隣の舟を襲ったのだ。竜が舟ごと人をくわえて水の中へ潜る。失敗か。いや、竜はすぐに浮上した。背には人間が一人しがみついている。禿頭の巨体、アラトスだ。  アラトスは、竜の背に刺した短剣を左手に両足を踏ん張り、一本目の針を振り降ろした。竜は仰け反り声を上げる。上体の力しか使えない一撃だけでは、アラトスの怪力をもってしても、針は奥にまで届かない。針の背を叩きさらに食い込ませる。針を叩くごとに竜は身を捩じる。竜は潜ろうともするが、痛みに呼吸が続かない。  二本目の針を叩いている途中、左手を支えていた短剣が背から抜け、アラトスが宙に浮いた。五本の繩は一個所で繋がっている。そしてその二端はすでに竜の背だ。アラトスの体は繩の張力を使って再び竜の背に向う。ぶつかり様にアラトスは三本目の針を深々と突き刺した。激しい動きの中、僅かな隙間を針の先で正確に捉えることなど他の兵士ならば奇蹟に近い。それを易々とこなしたアラトスは背鰭を手にへばり付いて、さらに「ガンッガンッ」と針の背を叩く。  竜は振り落とせぬことを悟ったのか、繩の括りつけてある二段櫂船に向かって突進し、その背を衝角の横にぶつけた。少量の竜の血に交じって人間の血が飛び散る。  三年前、生還したアブドバルとクリオスはその功を認められ、半市民の称号の他に市民としての権利を一つ与えられることになった。アブドバルは海将への一歩として船の所有を選んだのに対し、アラトスは市民との結婚を望んだ。優しい男だった。  アブドバルは届くはずのない血糊を拭った。だが、心に着いた黒いものは容易に拭い去ることはできない。彼は、バルカ家の当主に見えた時のことを思い出していた。  「しかし、アブドバル君、これまでも手を尽くして失敗しているんだ。何か特別な策でもあるのかね」  「私の生まれた国では、竜を狩るのに餌に近付いた竜の背に乗り銛で突く方法が伝えられています。無論、今回の黒水竜はその竜とは種類も異なる巨大な竜だと聞きます。その方法がそのまま通じるとは思いませんが、工夫しがいはあるのではと考えております」  「おもしろい案ではあるが、命の危険がある方法だ。しかも、竜に取り付いた上で銛で突くなど、よほど勇敢でかなりの力量がなければなるまい。能力のある人間ほど危険には敏感なものだからな。その策はすでに人選の点で問題があろう。誰か心当りでもあるなら別だがな」  アブドバルの頭にアラトスの名が即座に浮かんだ。それともすでに浮かんでいたのか。  「一人・・・いや」  だが、彼は無二の親友だ。それはバルカ家当主も知っている。命を奪う可能性がある役目に友の名を上げることは難しい。第一、あからさまに名を言えば自分がそういう男だと思われるではないか。特策ではない。  「ああ、なるほど、そうか。彼か。だが、彼は一線を退いて家庭を持ったそうじゃないか。いや、しかし、君の船だと言えば、義理固い彼のことだ。やってくれるかもしれん。誘ってみる価値はあるか。何、君の紹介とは言わんさ。それとなく伝えてみよう」  さすがに新興勢力の長、思った通りアブドバルの考えを察してくれる。  「確かに彼がこの役を引き受けてくれれば、勝算はかなり上がりますが・・・しかし」  「うむ。何、断わればそれまでのことだ。それから考えれば良い」  この話を聞いてアラトスが断わることはあり得ない。アブドバルは知っていた。寧ろ是非にと志願してくるだろう。  この国の神は、毎年その年に生まれた市民の中から数人を生贄に求める。アラトスは半市民であったが、その子は市民。今年の生贄の一人をアラトスの長子とする神託が下った。通常の市民の中にさえ、子を連れて行かせまいとして腕を切り取られた者もあったという。異国人であったアラトスに納得のできるものではない。  逃げることも考えた。だが、そこは神事にまつわること。神託が届いたその日から監視が付いている。弱った妻と乳飲み児を連れては強行できない。  一つだけ長子が生き残る方法があった。片方の親が戦で命を失えば良いのだ。そうすれば荒々しき海神は無垢な長子よりも勇敢な親の魂を望んだとされる。  アラトスがより危険な任務を求めていることをアブドバルは知っていた。  額に寄った皴に浮かぶ汗を指にドロリと感じながら、アブドバルは考えている。奴が死ななければ、子供が死ぬことになる。子供を生かすためには仕方がないことだ。だが、俺に嫉妬の心はなかったのか。奴は戦でも孤児院でもいつも俺の前にいた。俺が一番大事にする武人としての誇りもあっさり捨てた。そして、俺の知らない幸せを手に入れた。それを妬みはしなかったか。その不幸にほくそ笑むことはなかったか。  「違う!」  いや、どうでも良い。今は、死んだ奴のためにも竜を倒さねばならん。失敗すれば、奴の遺った二人の家族も護ることはできない。思い悩んでいる暇はないのだ!  肉食である竜の歯は骨を砕く力は強いが、繊維を絶ち切ることは不得手だ。背から伸びた特製の繩を食いちぎることはできない。竜が繩を引けば船が動き、針には一定以上の力が掛からず肉をちぎることはない。また、痛みによって長く引くこともできない。  背を繋がれて逃げることができないのを悟ったのか、竜はアブドバルの眼前で船を襲っていた。竜は黒くいびつな背で船を蔽い、鱶の何十倍もあろう鰭で幾本もの櫂を押さえ、首を傾く船の中に突っ込んでは、ばぁりぼりと人を貪る。  背後からアブドバルの三段櫂船が流されて近付き、力ない矢が固い背を撫でるころ、竜の黒く大きく険しい顔が彼らの方へと振り向いた。金色に光る爬虫類の目、黒くぬらぬらとゴツゴツとした鼻梁、鋸状の鋭い歯、血の滴る、いや、人の臓物の滴り落ちる口。  その外貌の示すのは、怒り、即ち、最強の海獣に生まれながら愚人に己が運命を左右されることへの怒りか、それとも、宿命に抗えぬ者の死を期して見せる狂気か。  竜の魔力が船上の猛勇を襲い痲痺させる。弓手の番えた矢は下を向き、あるいは、空の右手で弦を震わし、操船指揮官の口からは笛が零れ、索敵手は敵に魅入られ青ざめている。司祭は舷に隠れて、ただ神の名で喉の震えを示すのみ。そして、老タロウさえ帆綱に汗を掴んで動けない。  その中で、一人、アブドバルは、鉄の三叉を脇に携え、天を突き差す帆柱の下から、禍々しき金色の瞳を睨み返す。落ち着いた低い声が、重く響く。  「衝角を水竜に向け全力操櫂」  怒号が少なくとも痲痺を解く。  「聞こえんか、操船指揮官!全力操櫂だ!」  長短の笛の音が全力操櫂を命令する。船尾を見ている漕手達にとって、恐るべきは、見えぬ後方の竜よりも、彼らの正面にいる操船指揮官の鞭である。全力操櫂はリズムが大事。海への第一打の時機を図る漕手全員の叫び、または呻きが揃う。叩かれた潮の雫が跳ね上がる。木の軋む音と野太い掛け声が調子づき、船は竜に向って突進を始めた。  水竜の体は水の中でこそ機敏に動ける。今の船上へ半身を預けた姿では、急潜行も、長い尾と首を利用した急旋回もできない。冷静に状況を捉えれば、水竜は大刀を頭上で振り回し獅子に真向う闘技奴隷に等しい。隙だらけである。  船が最早、咆吼にひるまぬのを見るや、水竜は首を前後に揺らした反動で、体を捻りながら海に飛び込む。巨体を受け止めた海がうねる。櫂の何本かを奪われながらも、全力操櫂を続ける船の衝角は竜を掠め、その背を引き裂いた。竜は赤い血を海水に溶かしながら潜行する。それを矢の雨が追った。  通常、竜は三分程度の周期で息つぎをしに海上に顔を出す。その期を狙って三隻の船は竜と繋がれた船を囲み、射手は弓を構える。息つぎをする短い間に、少々矢が当ったからといって竜が死ぬわけではない。ただ、それを何度も繰り返すことにより、竜を少しずつ弱らせて、いずれその命を奪おうというのである。  その態勢は瞬時に整ったが、肝心の手負いの竜は三十分も前に海中に消えたまま、その姿を見せない。その間に、司祭にも文句を言うだけの余祐が出てきたようだ。  「まさか、逃げられたのではないでしょうね」  「阿呆か、おめぇ。あの綱がいろんな風に動いているだろうが、その綱が船を揺らしてんだから、その下にまだ竜がいるに決まってるだろ」  即座にタロウが答えた。アブドバルにもそれはわかっていた。だが、待つ時間があまりにも長いのだ。竜は頭がいい。綱を食い切って逃げたのかもしれない。綱を上げれば別の生き物が掛かっているかもしれない。いや、そんなことはあり得ない。そうタロウも言っていたではないか。  不安は無用であった。これまでになく強く船が牽かれたあと、張り詰めていた綱が緩みはじめ、巨大な影が浮かび上がってきたのだ。  攻撃態勢を取る兵士達を制し、アブドバル自ら白い腹を海上に見せた竜に飛び乗り、三叉で下顎を支え大刀でその喉に止めの一撃を加えた。竜は微動だにしなかった。  鮮血に真っ赤に染まった大刀を掲げ、アブドバルは高らかに叫んだ。  「水竜討伐特別隊司令アブドバル、大神バールの加護の下、悪辣獰猛なる黒水竜を討ち取った。ここに作戦の終了とその成功を宣言する!」  四方から若い司令官を称える歓声が沸いた。  漁師タロウの指示に従い、竜の解体作業が進む。竜の肉は鳥に似ているが、より淡白で美味とのこと。骨は加工して祭具になり、または、粉末にして薬になるらしい。いずれ本国に持ち返れば、かなりの高値が付く。これに褒奨金を足せば借金を返しても船が何隻か買えるだろう。失敗に対する措置の厳しさに比して、成功に対する褒美は半額にしてもなお莫大だ。  「それにしても」  アブドバルは物思いに沈んでいた。  「なぜ逃げてわざわざ溺死するようなまねをしたのだ。どうせ死ぬなら初めそうしたように最後まで戦って果てれば良いではないか」  竜が海上に腹を曝したとき、竜の背穴に通された三本の綱のうちの二本までは、その背をちぎり、はずれていた。  「人間ごときに四方八方からその身を突かれ、その高潔なる生を穢されるよりは、自らの死を選んだということなのか?死して体を切り刻まれれば同じではないか」  日も大きく傾いた。竜の血に赤黒く染まった海も朱い光に清められた気がする。  「だが、それが竜として生まれたものの竜として今の世に生きる所以なのか」  どこからか匂いを嗅ぎつけた海鳥達を残して、船団は港に向う。  華々しく凱旋したアブドバルは、十年後、反乱の煽動者の一人、クリオスとして針の樽に押し込まれ、崖から海に突き落とされた。