新郎の白兎の電子人形は、新婦の到着を待ちます。ここは遊園地内のゴシック式の教会。詰めかけた仲間の人形達が和む中、兎の紅玉の瞳は時計と扉の間を律動します。その珪素の心の周波数はすでに倍速オーバードライブ。そわそわ、そわそわしています。  幌馬車が微かなエンジン音を立て、電話ボックス大の箱を教会に届けます。箱は艶なしの白で、薄いピンクのリボンがたおやかに掛けられています。ルーベンスの復製画から二体の天使が抜け出て、リボンを解くと、箱は白薔薇のように咲いてゆきます。幾重にも敷かれた白い紗が冬の透明な日差しを和らげ、中の少女が照らし出されます。  箱の白さも曇りがあったか、新婦の姿をご覧じよ。体に合った絹のドレスはレースで飾られ、皎如たる項には白玉を連ね、上げた金の髪には銀のティアラを頂きます。その静かな笑みが表すのは、無垢の心。真っ白けの心。  満場の観衆は息を呑み、残る空気が澄みわたります。その中を新婦は滑り行き、運命の定位置、すなわち、伴侶になる兎の傍らに納まります。プログラム通りに進む式の最後に、兎が、前歯を当てないよう首を鳩のように動かしてから、花嫁にそっと口付けをしました。  旅立つ二人に祝福の言葉が降り注ぎます。  トカゲのビル青年が快活に言います。  「おめでとうございます。お嫁さんを悲しませると、煙突から蹴飛ばされますよ」  オカマの亀モドキがすすり泣きながらいいます。  「おめでとう。二人でも一人でもいいから、これからも遊びに来てネ」  講釈好きの公爵夫人が得意げに言います。  「おめでとう。これを諺に譬えると、亀振って地固まるね」  花嫁に似た少女が無邪気に言います。  「おめでとう。私のコピーなんだから大切にしてね」  参列した唯一の人間である整備員が笑顔で言います。  「おめでとう。昨日徹夜で作業したけど、発話モジュールにバグが出たんで、とりあえず二言しか発声できないから」  二人の新居は、白く四角い塔の二階にあります。新居に着き、佇まいを整えている間に、窓の外では星とネオンが輝き、ガラスの上に映る新しい生活と重なります。ここには外から見えるように大きな窓とガラスの扉があります。初夜の二人には、それらのカーテンを閉じることが許されています。  「カーテンを閉じるね」  教会の祭壇から運ばれて来た緊張は、沈黙となって肩の辺りにこそばゆく、焦れる兎がやっとの思いで捻り出したのが、この言葉でした。兎は、発した言葉の隠された意味に気付き、そろそろと花嫁の顔を見上げます。  「はい」  ベッドに腰かけた花嫁は、小さな声で答えました。  カーテンが二人の世界を切り離してゆきます。兎は軽く顎を引き、喉の奥に湧き立つものを抑えながら、背中越しに言います。  「暗くした方が、いいかな」  「はい」  花嫁の美しい声が返ってくるたび、心の周波数が昂ぶります。  蛍光灯の白い光を消し、ベッドの隣の水銀灯を着けます。兎がベストを脱ぎ、ネクタイを取る後ろで、さらさらとドレスの鳴るのが聞こえます。再びベッドに座った花嫁の躰を横たえると、彼女の顔から肩にかけての輪郭が仄赤く染まります。兎は両手で花嫁の手を握り、いざとなると甘い言葉の一つも言えない自分をもどかしく思いながらも、何かを言わずにはおられません。  「ア、愛してる・・・」  兎の首から頬にかけての白い毛の柔らかさをもう一方の掌に感じながら、花嫁は目を細めます。  「私はあなたを愛しています」  どうやら、花嫁が話せるのは、今のところこの二言だけのようです。それはそれで、あのときは、独特の味があって良かったのですが、ことが終わるとどうも間が持ちません。ですから、兎はたわいもない話を始めてしまいます。  「僕は造られてからずっと亀のモドキの母さんのところにいたんだけど、母さんは初期に造られて、そのころは人形もほとんどいなかったから、仕事も多くて。いつも忙しがってたよ」  花嫁は兎への興味からでしょうか。素直に身の上話に聞き入ります。  「でも、その分、責任感が強くって僕を育てるのに過度に気を使ってくれて」  兎は、思い出したように軽く吹き出しました。  「理知的な人形になるようにって、機械油の缶の下側の濃い部分を常に僕に当るようにしてくれたんだよ。まあ、油が違えば運動性能は変わるかもしれないけど、だからって情報処理部分が発達するなんて迷信だとすぐわかるのに」  花嫁は、言っていることがよくわかりませんでしたから、とりあえず肯定ではない言葉を言います。  「私はあなたを愛しています」  兎は気にせずに続けます。  「それで、そういう風に理知的でない部分を指摘すると、『紳士は理性に裏付けられた寛容さを持つものよ』ってごまかすんだ」  兎は花嫁に微笑みかけます。花嫁もそれに笑みで応えます。  「でも、ごまかすという行為は、より人間に近いから、高度なプログラムを持っている証拠ではあるか」  「はい」  兎は調子に乗ってきたので、演説口調になります。  「僕達親子を見てもわかるけど、子の人形は親に似るっていうのは、迷信だ。なぜなら・・・」  兎は悪い予感がして発声を止めました。(このままだと触れなければならないことがある。)しかし、そんな予感は、すぐに去ります。  「なぜなら、僕達、人形の言語や計算能力は回線を通じて得たソフトウェア・モジュールによって形成されるからね。そこで得られる情報量は経験から得られる限られた情報の比ではない。確かに認知される情報は膨大だけれども、経験として記憶に残るのは、ごく僅か、内的衝動を基準にフィルタリングされた限られた情報だけだ。だから、ある人形が獲得する情操は、経験よりも内的衝動とソフトウェア・モジュールの種類に大きく左右されるんだ。  わかるかい」  花嫁は微笑んでごまかします。  「私はあなたを愛しています」  「ゆえに、内的衝動が同じで、これから与えられていくソフトウェア・モジュールの種類がほぼ等しい君は、ほとんどあの娘と同一で、経験による誤差は無視できる範囲内のはずなんだ」  「私は、あなたを愛しています」  兎は花嫁の言葉も聴かずに続けます。  「だから、僕は君を愛せる。君の姿を・・・君とあの娘の姿が同じだから愛しているわけではない」  「は・・・い?」  何かが兎の記憶に触れ、彼の心に隣接する一次記憶装置に二人の過去を呼び戻します。  少女が兎を追い駆けます。草むらの中を、暗闇の中を、そして空漠たるホールの中を。幾重にも連なる電飾が、二人の道程を照らします。繰り返し演じられる芝居の中で、追われる兎の心はいつしか逆に少女を追うようになりました。何度、兎は立ち止まろうとしたことか。しかし、それは叶わぬプログラムなのです。  アトラクションが終われば、彼女の隣にだって立てるはずです。でも、勇気の出ない兎には、彼女の半径2メートル以内に入ることすら難しいのです。実際、人気者の彼女の周りには、いつも子供や人形達がいて、なかなか近寄れませんでした。  そんな兎にも、想いは募り、告白する日は訪れました。舞台装置に不具合がおこり、たまたま楽屋裏で二人きりになれたのです。このチャンスを逃すべきか。兎は勇気を振り絞り、心に張られた結界をついに越え、少女の下に跪きます。  「君のことを愛している。君といっしょに暮らしたいんだ」  兎の震える瞳は、ストゥールに座った少女の小さい口を見ます。そこから返事が出て来るのです。喜んでいるのかな。少し唐突すぎたかな。断わる返事に困っているのかな。断わられてもいい仕事仲間でいないとな。  「じゃあ、私の人形を作って貰えばいいわ」  それは兎の予測したどんな答えでもありませんでした。無邪気な笑顔で、何ということをいうのでしょう。  「僕は君の姿だけを愛しているとでもいうのか」  「あら、あなたは誰かを愛しているの」  兎は、話が噛み合っていないように思い、言い直してみます。  「姿だけが好きなのではないんだ。君を愛してるんだ」  「もちろん、『私』の姿が好きというのはいいわけにすぎないわ」  誰のいいわけ?  「君の、いいわけだろう」  「あなたのよ」  やはり、噛み合っていないようです。  「確かに、容姿に惹かれたのはキッカケかも知れない。でも、うまく言えないけど、僕の愛を育てたのは、それだけじゃない」  「そうよ。あなたの愛はあなたが育てていたのであって、『私』はキッカケに過ぎないわ。ちょうどいいときに私がいたの」  やっと噛み合ってきました。そう、後から待っていたことに気付く出会い、それは、  「運命だ。僕はこういう言葉は嫌いだけど。きっとそうだ」  「確かに運命ね。あなたがちょうどそういう状態のときに、私しかいなかったのだから。でも、私には、あなたしかいないわけではないのよ」  兎は急に不安な声になります。  「じゃあ、他に誰か」  少女は何かを思い出したように言います。  「他に?ああ、そうね。心配しないでも、あなたは、あなたが好きなものと結婚できるよう整備員さんに頼んであげるわ」  兎には、彼女が「他に?」を肯定したように聞こえましたが、彼女はどうもコミュニケーションが上手ではないようなので、気にしませんでした。何より、彼女がプロポーズを承けてくれたのですから、もう「他」のことを考えている余祐はありませんでした。  兎はベッドに向かって言います。  「例えば、二缶の等量の機械油があって、その成分がまったく同じで劣化していないならば、製造元が違っても我々から見た価値は、二缶ともまったく同じだ」  独りごつ兎を「他」の彼女は心配そうに見つめます。  「僕にとって缶のデザインは重要じゃない。それは同じ価値の二つの缶のどちらをたまたま選ぶかのキッカケに過ぎないんだ。愛において重要なのは、外見ではなく心のはずだ。外見はキッカケのはずだ。人間達はそう言っている」  姿が重要であろうとあるまいと、彼女達の姿は同じです。兎は過去の記憶に向かって反駁しているようです。  「愛とは、互いに足りない部分を補おうとするもの、二つの心の足りないもの同志が絡まり合って惹き合うもののはずだ。その復雑さは語ることができない」  兎の心に足りないものが彼女の心にあったのでしょうか。  すでに兎の声はうわずり、話す速度も定まりません。  「機械油を缶に詰めるとき濃度の違いがでるかもしれない。そのようなことがない信用あるブランド物の方が価値があると言えるか。  いや、濃度の違いがある時点で、そもそも成分が同じであるという仮定に反している。この方法で僕が二缶の価値が等しいと判定できるのは、その前に成分という本質が等しいことを判定する能力を持っているからだ。  僕は、愛の本質は心で、人形の心にとって経験は重要な要素ではないことを知っている。経験以外に違いがなければ、同じく愛する価値があるのだ」  恥ずかしげもなく語られる兎の恋愛哲学に、彼女は弱々しく反論します。  「私は、あなたを愛しています」  「僕は君を愛せる。論理的思考を元に高度な衝動制御ができる僕だからこそ、愛する対象の差異にも頑健に対応できるんだ。理性的で、恋ができるほど情操の発達した僕の心は、おそらく遊園地の人形の中でも一番人に近い」  兎は人間の心を持っているそうです。彼女は少なくとも彼には足りない人間の姿を持っています。でも、それは「彼女」を選んだキッカケでしかないのです。  「人に近いことを認められたからこそ、結婚が認められたのだ。これは証だ。この証が欲しくて君を好きになった・・・わけではない。なぜなら、それでは前提と結論が逆だからだ」  崩れんばかりの兎の高揚に彼女は狼狽しています。でも、彼女は兎を宥める言葉を一つしか持ち合わせていません。  「私はあなたを愛しています」  兎は力んだ肩を下ろしました。  「君には難しすぎたかな。」  兎の手を取って言います。  「私はあなたを愛しています」  しかし、兎は宣言します。  「どうせ、君のようなプログラムの中には、人の心の綾を分析しようとする衝動なんてないんだ」  彼女は早口で執り成します。  「私はあなたを愛しています」  兎はもう一度宣言します。  「いくら言っても君にはわからないんだ」  彼女の周りの仄赤い空気が揺れました。そして、一瞬の静寂がありました。  「私は・・・あなたを・・愛しています」  花嫁の高く震えた言葉と見開いた瞳は、やがて、かぼそい声と虹彩を隠す睫毛に終わります。映像の炎が灯るこの部屋の暖炉は、煙の抜ける煙突に通じてはいません。    婚礼の日から三週間経ちました。兎は、彼の妻について相談があって、整備員を訪ねます。整備員室に入るとき、「他」の男の部屋から出てきたあの娘に擦れ違いました。整備員は、事務用の味もそっけもない椅子に座って、モニタを見つめています。魔法使いの家を象った整備員室の中には、そこかしこに、機械部品や本、人形達の服やその切れ端が散らかっています。  「どうだい。うまくやってるかい。って、確かその相談だったよね」  相談の予約のために送ったメールを読みながらそう言いました。モニタから目を逸らさず、まだ、何か作業をしています。  「しかし、君が結婚したがっているというのを聞いたときは、正直、驚いたよ。別に結婚してはいけないというわけではないんだが。  慈しみだとか思いやりというのは、遊園地では必要な感性だから、そういう衝動が起こるようには設定するんだ。だけど、別に恋する必要はないからね。  まあ、恋した状態で固定するのは簡単なんだ。君の奥さんの機種みたいにその機能が簡単に設定できるのもあるしね。けれども、人形に自然に恋させるのは難しいんだ。独占欲のような衝動を発生させるタイミングや美的感覚というものを慎重に設定しないとだめだからね。失敗すると、みょうに浮気症になったり、ポストやベンチに恋しちゃったり。  だから、この遊園地の人形で、そういった設定をした物は無いんだよ。君も含めてね。ところがだ、君は恋をした。びっくりしたよ」  兎はまんざらでもありません。整備員は話している間中モニタに向かったままです。  「あのあと検査して納得したよ。自尊欲求を満たす過程で恋というものを求めていたんだ。人間にもそういう人はいるからね。まあ、いい言葉でいえば向上心の現れだな」  ようやく気さくな整備員は兎の方に向き直りました。  「そうそう、君の奥さんについての相談だったね。君の報告では、発話部分が初期状態から発達してないとのことだけど。毎日、点検とデータ更新のためのメンテナンスをしているよね。奥さんのメンテナンスの記録を一応調べたけれど、順調なようだよ。奥さんには今度新しい劇の主役をやってもらうことになっていて、その練習ももうすぐはじまるんだ。だから、綿密に調査してみたからまちがいないよ。  でも、奥さんも何か異常に気付いているのかも知れないね。劇の初演の時期を延ばしてくれって、さっき電話で話してたから。  確かに話はできるはずなんだ。ただ、君がいるという状況下ではうまくいかないようだ。  発話というのは、状況判断の結果、いくつもの話の衝動、つまり、話のネタが内部で想起して、それを選択して音声データに変換し、スピーカーで発声することによってなされるんだ。このときの選択は乱数的なこともあるけど、むしろ、過去の類似状況での選択が影響することが多いんだ。  君がいるという状況下では、二言でも十分会話できていたので、別の言葉を選択しないようになったのかもしれない。  このあたりの仕組みは、まだ、理論的に分析されてなくて、原因はよくわからないんだ。もし、劇に支障をきたすようなら、回収も考えてみるけど、きっと、時間が解決してくれるよ。それに回収となると僕ではわからないからな。下手をすると一年は工場から帰ってこれないかもしれない・・・。  何より君らは誓い合った仲じゃないか。愛はあらゆることを解決してくれる万能薬さ」  しかし、あのとき彼女は誓いを拒絶するための言葉を持ってはいませんでした。  整備員室から出た小路は、しばらくすると、白い建物へと続くアーケードに交差します。兎が丸屋根の落とす影の上を歩いていると、回転木馬の方から人の声がします。  陶器製の屋根、張り巡らされた鏡、エナメル質に塗られた木馬。塗料や材質こそより腐蝕のない新素材が用いられるようになりましたが、この乗り物だけは昔の姿を留めています。一度、すべての馬が電子人形に取り返られたこともありましたが、それもすぐ元に戻されたそうです。この懐古趣味の乗り物は、人通りの少ないところにありましたが、決して忘れ去られることはありませんでした。  回転木馬を眺める兎の赤い目に映ったのは、一組の親子連れでした。馬上で笑い合う母と子供に、ベンチに座った父親が手を振っていました。父親は二人が通り過ぎると、内ポケットから手帳型の携帯端末を開き、難しい顔で何か操作し出します。  その光景を見ながら、兎は、妻と二人で散歩した夜のことを思い出していました。  その晩、兎が腕を引く妻に誘われてアーケードを歩いていると、彼女は回転木馬を指差して立ち止まりました。それは、見られるための彼らの部屋から、美しく見える数少ない造型物の一つでした。兎が信号を送ると、木馬の繋がれた宮殿が輝き始めます。すると、彼女は彼の腕を離し、小走りに光の厩へ近付き、一頭の白馬に飛び乗りました。そして、片手で二、三度堅く光沢あるたてがみを撫で、待ちわびるように彼を見ます。兎はいつか見た馬乗りの人の姿を思い出し、彼女の後ろ隣の黒い馬にまたがりました。  曲の前奏部が流れています。木馬はもうすぐ動き出します。ふいに彼女は、馬を降り、兎の三頭後ろの白馬に移りました。兎が後ろに行こうと降りる素振りをすると、彼女も降りる素振りを見せたので、彼はそのままにしておきました。  馬がゆっくり動き出します。初めて木馬に乗った兎でしたが、馬の上下運動の一周期が終わるころには、完全にバランスが取れるようになりました。余祐のできた兎は鏡越しに後ろを見ます。軽やかに上下に動き追い駆ける二頭の馬。その後ろの彼女も余祐ができたのか、目の合った兎に微笑みを返します。兎は、鏡の中に、夜に映える幾つもの光を規則正しく追い越してゆく自分の姿を見ました。  妻のいる家に帰る途中で、兎は、まだ、回転木馬の家族を見ています。  子供の父親は、携帯端末をパタンと閉じ、腕を組み空を見上げて一唸り。再び現れた子供はベンチの父に向かって手を振り、母親は片手の携帯電話に向かって笑顔を作ります。父親は、顎も引かずに笑顔で手を振り、すぐに目を閉じて思索に戻ります。    兎の馬は白馬を追い、さらに向こうの栗毛の馬を追っています。すると、ふいに鏡が無くなって、木彫りの踊る姿の人形達が回る仕掛けがありました。すぐに光と闇の景色が戻ります。ちょうど一周したところで、木馬はスピードを上げました。アーケードの丸屋根が、彼らの住む白い建物が、森が、光の宮に照らされたベンチが、兎の横を通り過ぎます。  三周目が始まったとき、兎はすべての風景を既知のものと判断し、後ろを見ました。彼女がまだ景色を見て微笑んでいたので、仕方なく彼は前を向き、赤い虹彩を通して見える世界を眺めていました。  兎は特に定めぬ焦点の先に、突然、これまでの周回との差異を認識しました。どこで降りたのか彼女がアーケードの方へ走って行くのが見えます。兎はまだ動いている馬を飛び降り、闇の中で躍る彼女を追い駆けます。兎が丸屋根の下にまで来たとき、ふいに何かに気付いて振り返りました。  そこには、ゆっくりと最後の周回を終えたもう一人の彼女がいました。彼女は白い馬に腰掛けたままでした。彼の瞳の奥のカメラが、彼女が呟くのを捕えました。    木馬はすでに止まっていました。子供が両親の手を取っておしゃべりをしています。そして、兎に気付いて指を差します。  「あっ、兎さんだ」  注目された兎は、決められた何種かあるリアクションのうち、距離も開いていたので、懐中時計を見てソワソワすることを選択しました。  子供の父親が兎の素振りを見て言います。  「兎さん、いそがしい、いそがしいって」  子供は今思い付いたように「はやくはやく」と次のアトラクションへと急かします。  「パパとママもいそがしい、いそがしい、ね」  母親はそう言って、はじめて夫婦目を合わせて笑いました。  兎が、自宅に着くころには、空は曇ってきていました。水曜日の夕方は、アトラクションのために、暴風雨が降るよう設定されています。お茶の道具を片付ける妻の前に、兎は新聞を片手に座ります。  「劇のレッスンがそろそろ始まるんだって?」  兎は平静を装い、新聞を開きながら言います。  「はい」  「二言しか話せないようだと、大変だろう」  確かに、もしそうだとすれば大変です。  「はい」  「僕が仕事から帰って来て君がいないと、淋しいな」  片付けを終えた妻は、ベッドに腰掛けます。外では雨が降っています。  「私はあなたを愛しています」  稲光が一つありました。  「でも、すぐにアトラクションを始めるという話は断ったらしいね」  豪音が一つありました。  「はい」  聞き取れた答えを、確認します。  「はっきりと断ったのかい」  明かりの着いていない部屋を白い光が写します。  「はい」  遠くの雷鳴をうち消しながら、兎はわななき叫びます。  「君は、もう、話せるんだな。自由に、話せるんだな」  雨足の雑踏が近くに寄っては遠ざかります。暗闇に遺された光の跡を雷吼が通り過ぎます。握られていた白いシーツの深い皴がなだらかに直ります。彼女の逸らされていた視線が、緩やかに兎を捕えゆきます。  「・・・はい」  兎の喉に、息が、詰まります。  「なぜ」  稲光が青白い彼女の微笑みを映します。  「私は、あなたを、愛しています」  雷が何かを引き裂くような音がしました。スピーカーからそのような音がしました。  クロッカスの花が庭に植えられる季節がやって来ました。兎の妻は、新しいアトラクションの役を貰い、働くようになりました。それは、どれだけはしゃげ廻っても決められた通りにしか動けない陽気なチェスの駒の役です。兎は、今も毎日あの娘に追い駆けられに家を出ます。  遊園地を訪れた人は、アトラクションが終わったあと人形達の家を覗けば、くつろぐ二人を見ることができます。少女は、お茶を飲みながら、神経質に新聞を眺める兎を見つめています。仲睦じくも事あるごとに少女は愛の言葉を囁きます。  「私はあなたを愛しています」  すると兎は恥ずかしいのか丸眼鏡を直す仕草をします。  そうそう兎にも新しい仕事ができました。それは色々なものを分析する仕事です。まず、新聞に表れる単語を記事、記者、ページごとに累積してかぞえ、その相関を調べなければなりません。これを正確にこなすには、高度な計算能力と記憶力とを要します。彼ほどのプログラムでも、この仕事には時間が掛かります。  「いそがしい。いそがしい」  喉の奥のスピーカーで口も開けずに呟きます。ときおり彼の妻が彼の整造番号に向かって話しているのに気付きますが、仕事中は集中力を解くわけにはいきません。  「いそがしい。いそがしい」  寝室では、壁の模様の前日との相異を正確に検証しなければなりません。壁に鼻を着くほど近寄り、髯をときにヒクつかせながら、兎は呟きます。  「いそがしい。いそがしい」    「いそがしい。いそがしい」