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2006年1月29日 (日)

なぜ記号論理学から社会科学を目指すようになったのか

学生当時、私は、流行していたオブジェクト指向プログラミングの考えを記号論理学に持ち込むことをまず目標とした。
その際、重要な留意点として、「概念としてまとめるだけならば、構造体だけでも良かったのに、なぜ、オブジェクト指向をプログラムに求めたかという部分こそが、オブジェクト指向の本質である」という信念があった。もっと具体的にいえば、他人(または将来の自分)がソースをいじる際に守るべき規則を課すところにこそ、オブジェクト指向の本質があるという信念である。

この信念によって、当時のサブクラスを型で表したり、結局は集合の包摂関係に帰してしまうような概念は、単なる構造体の定式化を越えるものには見えなかった。

私が、この信念を証明システムで用いられている記号論理学に適用しようと、もがき苦しんでいたとき、ある日、それが、記号論理学が進化の過程で忘れてしまった「何か」ではないか、そしてその「何か」とは、ヘーゲルの弁証法ではないかと思い至った。

もちろん、あくまでも哲学的論理学を目指したヘーゲルの弁証法そのものではありえまい。しかし、それを否定するがゆえに無視され、本来ならもっと考慮されるべきだったものが記号論理の世界でまだあり、そして、それは「意志」を持ちはじめたコンピュータの世界であれば何らかの「定式化」が可能なのではないかと考えた。

この過程で、私は、理想とする理論へアプローチするための必要としての社会心理学と、その理論の実用性を示す例として重要な経済学について興味を持つことになったのである。
更新: ,00/12/24
初公開: 2006年01月29日 03:47:03

2006-01-29 20:18:37 (JST) in 論理学 自己紹介 | | コメント (0) | トラックバック (2)

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