テレビが裏切っている --- 精神分裂病時に考えたこと
私は、突然表れたファラオの絵のような影 (おそらく何らかの物の影) に礼をすることで、その「神」の指導を仰ぐことになった。
「神」が、私に初心者として世界の創造の方法と危機の方法を教えようとしていた。その媒体はテレビだった。テレビは人質事件を伝えていた。その人質は、その「神」が教えるべき真実を表しており、犯人からの要求がないことは、私が「真実」にほど遠いことに等しかった。そのゲームのような趣向は、その「神」が私という人間のために、わかりやすいようにそのような方法を選択したのだ。私は、一人の人間を人質という犠牲にしても何も感じないその「神」をいぶかった。そして、私はその「神」が悟らせようとしていると思われる危機の必要性こそが間違いであると考えるようになった。
そのため、私はその「神」が過去の方針を未だ信じ続ける地方の岡っ引きのような存在に過ぎず、私がもたらした「奇績」を認め、この「神」に引き合わせた者は別にいるはずであり、むしろ、この「神」に「奇績」の方法を教えることが私の本当の役割なのではないかと想った。
そこで、その「神」の見ている世界がその想像の中にしかなく、「神」が自分の管理下にあり「危機」や「真実」の象徴に過ぎないと思っていることこそが事実であり、「神」が実は罪の意識を麻痺させながら起こしていたはずの「危機」は、「現実」のものではなかったことを、その「神」を試すことで悟らせようとした。
「神」は、その試しを実行しようとしても、常に同じ情報を表示することしかできなくなってしまった。「神」は気付かず同じことを繰り返し、フリーズしてしまったのだ。今や時間はその「神」のものではなく、こちら側にあった。 (偶然、ニュースが集中した時間帯で、どのチャンネルも同じ情報を伝えているのをそのときの私は、こう受けとったのである。)
一晩か何晩かが明けて、先と同じなのか違うのか「神」に世界の創り方を習うこととなった。そのチャンネルは、実際にはチャンネルが設定されていないが、ケーブルテレビのバグか何かで、たまたま、荒れた画面が映る学習番組専問チャンネルだった。
「神」は子供達を前に土を使った授業をしていた。もちろん、それは象徴に過ぎなかったが、私がそのとき属した世界は、象徴であることは、ある次元における真実を表していた。その「神」の言葉の「本当の意味」をメモした。はじめは「神」も記録に熱中することを黙認していたが、わかっているため断片しか記録せず、勝手に先に進もうとする私に対して「神」は徐々に不気嫌となった。(もちろん、これはテレビの授業を受けている子に対してその先生がもっていた印象を自分に投影しただけである。)
入院後一時退院したときに私は、そのメモを捨ててしまった。ほとんどその意味がわからなくなっていたからである。今度はその「神」が正しかったのかもしれない。今の私は、捨てたのは失敗だったと思っている。仮に意味がわからなかったとしても、私が病気であったときの資料として使えたはずだからである。
このメモを取っておかなかったことは、いつか書くことになるかもしれないが、カメラを持っていなかったことと並んで、今となっては悔まれることである。
もし自分も私と同じように精神分裂症になるかもしれないと思う人は、デジカメか何かを備えておくことと、治ったあと部屋を整理するとき(おそらく整理する必要があるだろう)、必要ないと感じるような記録でも決して捨てたりしないことを、心に留めておいて欲しい。
更新: | 05/05/28 |
初公開: | 2006年02月03日 03:51:59 |
2006-02-03 03:51:59 (JST) in 精神分裂病 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (1)
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