GPL のここが嫌い
任意の商用ソフトにバンドルできない GPL は嫌いだ。公務員や年金生活者じゃないニートな私にとって GPL に基づく制作は未来を蝕む糖尿病のごときモノでしかない。
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例えば、売上のうち特定の団体が審査した割合を国や FSF などの「宗教団体」じゃなかった公共団体に払い続ければソースを非公開にできるようにしてほしい。
ソースの作者に金を払うのは、本当の作者が誰かで大もめになるだろうからいらない。逆に人のソースを参考にしずらくなるだけだ。
作者が直接金をもらえなくても、雇ってもらいやすくなる。今だと GPL に従った人間は逆に雇いにくい。
現在の GPL は違反してもソースの公開は強制されないが、企業が致命的な著作権料を要求されたり、突然「GPL 違反」のレッテルを貼られ風評被害にあうリスクは残る。上のようにしてリスクの上限を決定して欲しい。
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GPL の「契約」の約因は著作者が持つ著作権にしかない。GPL の「契約」の根拠を、購入に求めることが難しいため、たとえ著作者へ「寄付」を行なったとしても、自分の所有物だと認められない可能性が強い。
そのため、将来、特許権などの強力な権利に基づき、何がしかの方法(例えば商業ソフトウェアのインストール時に、競合するフリーウェアを消去するなど) でユーザーに強制的にソフトウェアを使わせないようにしても、財産権の侵害が認められず、ユーザーは何ら対抗することはできないのではないか。
また、著作権が切れると、GPL 的な契約の履行をユーザーは期待できなくなるのではないか。購入できれば、元の著作権が切れても、ユーザーは GPL 的な契約が履行されることを管理権限を持つものに対し求めることができるはずだ。
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技術の発達で、どんどんその性質が数式に近付くソースコードが何十年にもわたって public domain にならないのはおかしい。今の法律だと 100 年以上も保護されかねない。公開されたソースコードについては、強い権利としては 5,6 年、弱い権利としてもせいぜい 30 年ぐらいに留めるべき。
……とはいえ、私にとって GPL は蜜のように甘いことも確かで、これのおかげでニートな身でありながらプログラミングの勉強ができた。当然、この思想は尊敬しているし、その思想への何らかの貢献をしたいという気持ちもあり、微力ながら GPL に順った制作もしている。
私は、自ら荒野に行く若者を止める気はない。でも、荒野に行くことの意味をよく知らずに出て行った人間が帰って来て悪魔憑きのように嫌われるような事態があるなら、「荒野に行った者」を尊敬するがゆえに、敢えてその教えを曲げてでも「悪魔」を調伏したいと思う。もし、彼が「この地」で荒野のように清廉になれるのなら彼も荒野に行くことはなかっただろうから。
更新: | 06/02/27,2006-03-16 |
初公開: | 2006年02月27日 22:01:40 |
最新版: | 2006年03月17日 01:50:10 |
2006-02-27 22:01:37 (JST) in 経済・政治・国際 情報工学・コンピュータ科学 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (1)
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