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2006年3月12日 (日)

「憤る(いきどおる,いきどほる)」の語源

現代のいくつかの国語辞典や和英辞典では「いきどおり」を「憤慨」や outrage と解説している。これはこれまで「行け」なかった怒りが「行き通る」ようになったという解釈であろうが、これは、そもそもは、儒学の素養があって「外国語」として「憤り」という言葉を学んだ人間や万葉集を知らない人間の誤解であろう。

いきどおりを分解して、別のもっと基本的な漢字を当てはめるとするとどうなるだろうか?

「息通る」とすると、「ホッとする」というむしろ逆の意味に感じる。

「行き倒れる」辺りはある意味近いかもしれないが、下一段活用(古語では下二段)が五段(古語では四段)になる文法変化はややおかしい。

「息処欲る」または「活き処欲る」とすると、「息のできるところを欲する」「自分を活かす場所を欲する」となり、現代の「やり場のない」や「やるせない」という意に似るので、私にはちょうど良いように思える。

ちなみに、この説が正しいとすると歴史的かな遣いの「どほる」の「ほ」を単語の途中と見て「お」としてしまう現代の読みは必ずしも正しくないということになる。
「いきどほる」はですでに万葉集に典拠があるが、そこに「いきどほる」が現れる歌は一つだけで、19:4154 の「八日詠白(大) 鷹歌一首」である。

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[訓読]
あしひきの 山坂越えて 行きかはる 年の緒長く しなざかる 越にし住めば 大君の 敷きます国は 都をも ここも同じと 心には 思ふものから 語り放け 見放くる人目 乏しみと 思ひし繁し そこゆゑに 心なぐやと 秋づけば 萩咲きにほふ 石瀬野に 馬だき行きて をちこちに 鳥踏み立て 白塗りの 小鈴もゆらに あはせ遣り 振り放け見つつ いきどほる 心のうちを 思ひ延べ 嬉しびながら 枕付く 妻屋のうちに 鳥座結ひ据えてぞ我が飼ふ 真白斑の鷹

[原文]
安志比奇〈乃〉 山坂〈超〉而 去更 年緒奈我久 科坂在 故志尓之須米婆 大王之 敷座國者 京師乎母 此間毛於夜自等 心尓波 念毛能可良 語左氣 見左久流人眼 乏等 於毛比志繁 曽己由恵尓 情奈具也等 秋附婆 芽子開尓保布 石瀬野尓 馬太伎由吉_ 乎知許知尓 鳥布美立 白塗之 小鈴毛由良尓 安波勢也〈理〉 布里左氣見都追 伊伎騰保流 許己呂能宇知乎 思延 宇礼之備奈我良 枕附 都麻屋之内尓 鳥座由比 須恵弖曽我飼 真白部乃多可


ただし原文の「伊伎」はいくつか他の箇所でも使われており、ここ以外はすべて「息」の訓が付いている。また「保流」そのものは他で「のぼる」の一部として使われるばかりだが、活用させて「保利」や「保理」にすると、かなり「欲り」と訓じられている。「騰」は「と」や「ど」としてひらがな的に頻繁に用いられる。

「行き処欲る」でも良さそうだが、「行き」は「ゆき」となるので、これは「ゆきどほる」となりほんの少し違うかもしれない。しかし、「伊伎騰」の「伊伎」を「行」に替えた「行騰」は 16:3825 に「行騰懸而(むかはきかけて)」という用例がある。

「むかばき」とは狩りなどの際に袴の前を覆うものだそうだ。上にあるのも鷹狩りの歌だった。「行騰」は「いきど」と読んで「狩りの衣装」と同時に、そのような地位にある者(鷹匠)を意味するのかもしれない。「いきどほり」は暗にその者への批判も込めているというのは考え過ぎか。

歌の解釈は人それぞれだとは思うが、私は上の歌に強い無念や「やるせなさ」のような物を感じる。


万葉以後では、「息遠しく(いきどおしく、いきどほしく)」という用例が近代(小林一茶『父の終焉日記』)にあるようだ。旺文社の古語辞典によれば「息どほし」は、だいたい息苦しいという意の「息だはし」または「息労(いたは)し」からの転と説明される。(goo 国語辞書には「息だわし」が載っている。)しかし、これは、似た言葉(「いきどほる」と「息労し」)が影響を与えあって誤用を生む、よくある変化ではないか。万葉集に現れる「こころどもなし」が、現在「こころ・もとな・し」(「もとな」は「むしょうに」を意味する副詞)の転といわれている「心許無い(こころもとない)」に似た意味であるのと同様だろう。

「憤り」という漢字のあて方は平家物語にある。「息処欲る」自体は「悶々とする」で良いが、後代になって、「怒り」を表してはいけないとされる目上の人間や組織に対する「怒り」の婉曲表現となっていき、さらに平家物語の前に「婉曲表現」が頻繁に使われるようになって、婉曲の役をなさなくなったのだと私は考える。

そして、抑えるべき「怒り」が「噴火」しそうだということで揶揄的に「憤」の字を使ったのだろう。漢字としての「憤」は「噴火」の「噴」の「心」的表現でまさに outrage で正しい。


参考
私は万葉集は EPWING 形式にされたものDDwin で検索してます。この記事を作りはじめた 2001 年当時は岩波文庫の白文を手で引いていました。便利になったものです。
更新: 01/04/23,01/05/08,2006-03-12,2008-06-05,2008-07-27
初公開: 2006年03月12日 03:57:36
最新版: 2008年07月27日 22:47:50

2006-03-12 03:57:34 (JST) in 日本語論 歴史 | | コメント (2) | トラックバック (0)

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コメント

更新:探していた「息どほし」の出典が旺文社の古語辞典にあったので、それを反映させた。この更新時近くで、『折口信夫―いきどほる心』(木村 純二)が出版されたのを契機として辞典類を軽く漁ってみたところ、このことを(再)発見した。

実は、私は、用例が私の持っている別の辞典に載っていたように記憶していたのだが、どうにも見つからず、ここの記載を消そうかどうか迷っていた。おそらくそれは記憶違いだったのだろう。ようやく見つかってホッとしている。

投稿: JRF | 2008-06-05 17:10:52 (JST)

更新:岩波文庫『父の終焉日記』を手に入れ、記述に反映した。「息遠しく」の「遠しく」は形容詞(遠し)の活用として明らかにおかしいため、この「遠」は当て字のようなものだと推測がつく。ただ、間違って「し」を入れてしまった可能性も捨てきれるわけではない。また、この本のルビでは「いきどおしく」となっており、その歴史的仮名遣いは「いきどほしく」となっても、「いきどほる」からは遠い表記になっている。

投稿: JRF | 2008-07-27 22:58:37 (JST)

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