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2006年4月 3日 (月)

「的を射る」?「的を得る」?

「的を射る」が正しい用法として辞書に載っている。

しかし、私は「的を得る」のほうが語感として正しいように思う。

皆さんはどうだろうか?
広辞苑によると「物事の肝心な点を確実にとらえる」ことのようだ。「ハートを打ち抜く」と似た感じなのだろう。

私は、用例にも載っている「的を射(得)た発言」は、「核心を突いて結論を出した発言」というよりも「その場の議論の方向を定めた発言」で結論のすべてを表すモノではないような印象をうける。

つまり「射て、しとめた」というのではなく、「射るための焦点が定まった」状態で、これまではっきりしていなかった「的」の中心を今、視界にとらえ「得た」、あとはそれぞれが射るだけという意で使われはじめた造語であると考える。

もちろん、それが「正鵠を失する」や「当を得る」からインスパイアされたものだとしても、ことばとはそうやって日々、うたい創られ、紡がれていくものだと思う私には、「的を得る」もまた継がれるに足る表現だと思う。

それに、「正鵠を失する」などの言葉を知る人間がわざわざ「的を射る」というような用語を用いるだろうか?むしろ、「的を得る」という言葉がある程度ひろまったあとに、「的を射る」は「正鵠を失する」という言葉からの連想としても正しいとお墨付きを与えたと考えたほうが、「的を得」ているように思う。

なお、ググると、最近他のブログでも話題になったようで、その方は「射る」と「得る」の解釈を私とは正反対にとらえているようだ。

まったく違うところから来る「倒錯」が、ふとしたことで調子が合う。先の《私の「萌え論」》で私が支持したような状況だ。……いいアンバイだねぇ。

追記 (2008-07-27)


ふと思ったのだが、実は、「的を得る」と「的を射る」の反目は、「射(い)る」と「居(ゐ)る」の違いでクサしたり新入りをイビったりできなくなったことの意趣返しで創られた話題ではないか?昔、「的」に関しては「いる」か「ゐる」か質問したときに、「える」とちゃかし「それは(質問の意味が)違うだろう」と応じる漫才のようなものがあって、その遊びが通じなくなったことへの郷愁が背景にあるのではないか。
更新: 2006-04-03, 2006-04-16,2008-07-27
初公開: 2006年04月03日 15:42:04
最新版: 2008年07月27日 23:26:57

2006-04-03 15:44:03 (JST) in 日本語論 | | コメント (8) | トラックバック (0)

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コメント

更新:「それに、「正鵠を失する」などの言葉を知る人間が……」という段落を足しました。

投稿: JRF | 2006-04-16 18:10:47 (JST)

更新:追記した。新聞等で日本語論を話題にしたいような空気を読んで。

投稿: JRF | 2008-07-27 23:29:39 (JST)

的を得る正当論を滅ぼすためのテンプレ。コピペ拡散希望

正鵠を得るが礼記にある→ない。礼記の不失正鵠(正鵠を失せず)を失わずと間違え、そこからの推測で正鵠を得るができただけ。漢語に得正鵠は存在しない。失正鵠(正鵠をそれる)の対義語は中正鵠(正鵠にあたる)。用例もある
正鵠は的の中心の黒星のこと→それは礼記からずーっと時が経ってからできた意味。正鵠の本来の意味は的の中心の黒星ではなく、単純に的のこと。正も鵠も的の大きさで言い分けるだけ
得には当たる意味がある→ない。得より取のほうがよっぽどマシかもね
射るだと当たったかは不明。射抜くにしなければならない→違う。射るには当たる意味がある。これは日本古来の意味。用例もある
昔は漢籍に精通した人が多く、年長者ほど正鵠を得ると的を得るを使用する→正確に伝来できずに意味を間違えた漢語は沢山ある。正鵠を得るは日本最初の要点を上手く捉える意味の語句だから認めざるを得ないだけ
中国語で得正鵠がある→それは日本から中国に伝わったもの。正鵠を得るは諸悪の根源である
正鵠を得る、正鵠を射る、的を射る、的を得るの順に作られた。正鵠を射ると的を射るこそが誤用→正鵠を射る(正鵠=的。射る=中)は正鵠を得るの訂正。的を射る=正鵠を射る=中正鵠≠正鵠を得る=得正鵠=的を得る
的を得るは誤用じゃない→誤用は言葉の意味を誤って使うことで、言葉そのものを誤ったときには使用できない。的を得るは誤用ですらない
的を得るは正しいんだ→的を射るは慣用句で、的を得るは慣用句ではない。慣用句は特定の単語の組み合わせでなければならず、同じ意味の単語ではダメ。100階から目薬、写輪眼が無い、馬の耳に聖歌、ハローキティに小判が正しいとでも言うのか
根拠を出せ→民明書房にも劣る得る正当説を信じる君が大好きなネット検索で調べてみよう。それでも納得できなければ、辞書や古典とかいろいろ読んでみよう。もちろん角川や三省堂以外もね
無根拠で得るを否定する無責任なヤツは得る正当論に反論できなかった。論破したから正論だ→なにが正論かは時と場合によって変わるし、論破されなければ正論というわけでもない。文化庁などの総意を無視して詭弁をふりかざす無責任なことは止めてください

言語力をなくした悲しい正鵠を得る・得正鵠・的を得る信者さん。このキュアハートが、あなたの正しい言葉の観念、取り戻してみせる!

[omit-info: 0127 hmac_sha1_base64:5qJ2edHvXz0p4CaUXl7Q4NeAKLI aes_base64:xyZK4gkqeWQSrXcRwpKFS2qX/NycK30Q4PDlk8cEXtWGQ1o]

匿名投稿 | 2014-03-17 18:36:26 (JST)

なかなかグッジョブなコピペだと思います。「正当」ってのは「青踏」にかけてるのかな?

最後の「文化庁などの総意」の部分、普段はこういう言い方はしないんですが、あえていいましょう。お前、このサイトの↓読んだか?「プロバイダ」から見えてるか?

《JRF の私見:税・経済・法: 知的財産カテゴリ》
http://jrf.cocolog-nifty.com/society/cat5350971/index.html

《まさか!の単漢字入力。IME『風』 [ JRF の勝手に PR ]》
http://jrf.cocolog-nifty.com/pr/2012/04/post-4.html

あと、そこまで知ってて「鵠」の意味を知らないわけないのに、のっけから、そういう書き方するわけか?相当「ヤル気」だな…匿名投稿者、こと、ブラックスワン!

まぁ、そういう者には逆らいませんよ。あと、コメントを消して欲しくないので、関係ない話だけど、宣伝がてら書くところがないものを少し書かせてもらいます。

最近↓というのを作りました。そこには自分なりに作ったヘブライ文字の 8x8 フォントを入れています。

《JRF Flag Semaphore for NES Emulators as LLVM》
http://jrf.cocolog-nifty.com/archive/nes_semaphore/jrf_semaphore.html

で、Wikipedia の Hebrew Alphabetの古代文字の比較の Ayin と Samekh を見てください。なぜか、ヘブライ文字になってから、字が逆になってるように思いませんか?この Ayin だとわかりにくいのですが、私のフォントだと、Ayin はむしろ Shin に似るように作っています。

そして、Shin は実は音の近い二つ発音を分けることがどうも昔からあったらしいのです。すると Samekh とあわせて、S 音が三つあることになりますね。Ayin は「強母音」で日本人だと Alef とかと区別がつきません。そして、なぜか「ソドムとゴモラ」のゴモラなどでは Ayin と Gimel の交換が起こったりする。そして、He と Het と Tav、どうやって違いを出すかわかりますか?たった22字のアルファベットでさえ、ある程度やらないと区別できないものなのですよ。

「忌み字」なんて言葉があるか知りませんが、そういうことってのは昔から権力を表すために使われて、アルファベットみたいなものでさすがにそれはないだろうとか思ってると、どうもそれらしい事例には行き当ります。でも、あとの時代に来ればそれは「権力を表すため」という自覚もあるでしょうが、人が文字を使い出した「古代」においてもそんな自覚はあったんでしょうか?

ヘブライ語では、母音は普通省略されます。中東の言語はそういうのが多いです。そして、表すときも3種類ぐらいでしか明示しません。でも、機会があれば声を聴いてみてください母音が3つしかないように聴こえますか?

日本語は、はじめから音価と字が一致しないことがあることを認めたどちらかというと珍しい部類の言葉です。さぁ、声を出して読んで見ましょう。「私は射的を支持します。」漢音と呉音がありますよ。もう一度。「私は射的を支持します。」

現代の日本語は「的」を得することで豊かになりました。「ルサンチマン的」「月と六ペンス的なあり方」、はっきりいって何言ってんのかわかりませんが、とにかく豊かです。でも、私は「説得的」はなぜか許せなかったんですよ。でも、最近は、呉越同舟的にそれもありかなぁなんて思ったりして。でも、おてて繋いでみんなで炎上もやな感じだし、迷うところです。

ぼかしを入れるところには権力が生じます。でも、それはぼかされた何かを守りたいという人々の願いが、力になっているのです。……なんてね、話が四方八方に飛んじゃったのを無理矢理まとめようとしてみました。お目よごしすみません。最後に…

とりあえず、「ひでぶ」って言ってみな。「え」が「ぶ」にだって変わりうるんだぜ。

投稿: JRF | 2014-03-17 22:42:33 (JST)

…おっと大失態!失礼を承知で追記します。

まず、こんな辺鄙なところに、コメントありがとうございました。

あと、礼記は手に入りにくくて、持ってすらいません。えらそーなこと書いてすみません。書経とか手に入れようと検索したこともあったのですが…。上の記事本文を書いたころはいろいろ調べて書いてたりしたんですが、今は的をずらして感覚だけで反応するようなこのテータラクです。本を読むぐらいの「やる気」すら出なくて、昔ちょっとかじったプログラムかゲームかという日々。ほんと社会の皆様に申し訳ないです。

ご期待に沿えなかったことは理解しております。それでも、もしかすると私以外の方が今回のあなたのようにあなたの「正論」をたまたま読むことがあって、その誰かこそがあなたの期待に応える日が来ないとも限りません。あなたのような方でも、末端ブログに現れうるんだとという希望を残すために、ぜひコメントをこのままにしていただければと存じます。

重ねて申し上げます。ありがとうございました。

投稿: JRF | 2014-03-17 23:07:12 (JST)

的を得る正当論を滅ぼすためのテンプレ。コピペ拡散希望

正鵠を得るが礼記にある→ない。礼記の不失正鵠(正鵠を失せず)を失わずと間違え、そこからの推測で正鵠を得るができただけ。漢語に得正鵠は存在しない。失は失うではなくそれる・すべ・はずれる意。対義語はあたるの中。失正鵠(正鵠をそれる)の対義語は中正鵠(正鵠にあたる)
虞集『尚志斎説』などで用例もある。下記のサイトで「中正鵠」で検索してみよう
http://zh.wikisource.org/wiki/Wikisource
正鵠は的の中心の黒星のこと→漢籍では的自体を指す。日本での意味は槇島昭武の個人言語から広まった可能性あり。西周がそれを参考にしたのか、仏語の' blanc de cible'を正鵠と訳し、弓道の正鵠ができた
結局西周が正鵠と訳した対象は、銃に関わるもので弓とは無関係。日本の弓術は矢が的のどこに当たったかで評価は変わらない。得点的は西洋からきた
中国の正鵠≠日本の正鵠≠仏語の正鵠≠弓道の正鵠。「正鵠を得る=的の中心を射抜く→要点をつかむ」という解釈は近代的・西洋的である
得には当たる意味がある→ない。中国でも日本でも得に当たる意味などない。
射るだと当たったかは不明。射抜くにしなければならない→射るには当たる意味がある。『平家物語』の「扇の的」で「うつ→放つ」「射抜く→射切る」「あてる→射る」と言い分けている
失の対義語は得である→得⇔損。失敗⇔成功。失望⇔希望。得手⇔苦手。過失⇔故意。失業⇔就業。失火⇔放火。失効⇔発効。見失う⇔見付ける。面目を失う⇔面目を施す。礼を失する⇔礼を尽くす。あれれ?
昔は漢籍に精通した人が多く、年長者ほど正鵠を得ると的を得るを使用する→正確に伝来できずに意味を間違えた漢語は沢山ある。それらは誤りだが正しいとせざるを得なくなった。正鵠を得るは日本初の要点を上手く捉える意味の語句だから誤りだが正しいと認めざるを得ないだけ
中国語で得正鵠がある→それは日本から中国に伝わったもの。
正鵠を得る、正鵠を射る、的を射る、的を得るの順に作られた。正鵠を射ると的を射るこそが誤用→正鵠を射る(正鵠=的。射る=中)は正鵠を得るの訂正。的を射る=正鵠を射る=正鵠に中つ=中正鵠=正鵠をそれず=不失正鵠≠正鵠を失わず=正鵠を得る=得正鵠=的を得る
的を得るは誤用じゃない→誤用の意味は「言葉の意味を誤って使う。言葉自体を誤ることではない」。的を得るは誤用ですらない
的を得るは正しいんだ→的を射るは慣用句で、的を得るは慣用句ではない。慣用句は特定の単語の組み合わせを用い、同じ意味の単語ではダメ。100階から目薬、写輪眼が無い、馬の耳に聖歌、ハローキティに小判が正しいとでも言うのか
正鵠を得るがなければ正鵠を射るも的を射るも作られなかった→「的外れ」は18世紀から、「当たらずといえども遠からず」は1810年頃から用例がある。的を射るが慣用句化した可能性は十分ある
三省堂が誤用撤回したから正しい→規範主義でもない記述主義の三国の「誤用。正用」を参照するの?
的を得る誤り説の初出は三国じゃない。三国の前のものには論拠が無い?話題にならなかったから大したことない?論拠を間違えただけで、的を得る自体が誤りという認識があり、的を得るが誤りという論に違和感がなかったかもしれない
それを言うなら、的を得る派が正鵠を得るの基となった正鵠を失わずが正しいとする論拠を一切提示していない
ちなみに文化庁に「三省堂が的を得るは誤りではないと言ったから、的を得るは正しいのか」という問い合わせの返答は以下の通り
『三省堂国語辞典 第7版』の新しい記述に関しては承知しておりますが,他の辞書が同様の見解を示しているわけではありません。
例えば,同じ三省堂であっても,『現代新国語辞典 第4版』や『大辞林 第3版』などでは『三省堂国語辞典 第7版』と同じ見解ではないようです。
三省堂だけでなく,各社の今後の動向を注視していこうと考えております。
BIFFの亜空間要塞は正しい→的を得るを勝手に慣用句にする。的を得る未掲載の辞書を得るを容認しているように話す。日本の正鵠の初出を勘違いした相手を調査不足だと人身攻撃も厭わない。無知と卑下しながらインテリナルシシズム全開
余談だけど心理学では「難しい言葉を使いたがる人ほど心が狭い」とされている

日本と中国は異文化。正鵠を得るは中正鵠でなくて不失正鵠を「正鵠を失わず」と日本読みし、そこから生まれた日本の慣用句。中国にない表現でも誤りではない。日本独自の文化。そもそも異文化を間違いなく解釈することなんて無理。変化は必然。失わずは決して間違いではない
→金玉均はきんたまきん?開眼をかいげんとかいがんのどちらで読んでもいい?『ボールが外れたから拾う』を『ボールを失ったから拾う』と通訳する?礼記は日本の本?漢語の失正鵠の対義語は得正鵠?
外国人「糞うぜぇマジshineと書いてるが、死ねじゃなくて輝きと訳して問題なし」
日本人「英文で『難病と闘う少年にクラスメイトみんなでshineと言った』という文章があったので、みんなで死ねと言ったと解釈しよう」
中国人「日本の小説で『戦友から託された手紙』という文章があった。トイレットペーパーを託されたという意味に違いない」
カトリック教徒「ハライチ澤部は童貞キャラで人気を博した。カトリックの尼僧キャラだな」
メロンパンナ「神戸市民から美味しいサンライズと毒入りメロンパンを貰った。私はサンライズがメロンパンだと思うので、私にとってのサンライズを食べる」
現代人「古典でことわるという単語が出た。判断する意味じゃなくて現代の意味で読むべき」
アメリカ人「日本の子供はポケットモンスターが好きで、ポケットモンスター専門店があるらしい。日本の性教育はおかしい」
現代人「昔の医学書に『この患者は二の腕に注射しないと助からない』と書いてあった。現代人だから一の腕に注射する」
タイ人「日本人は性的な意味で好きな人にmoeと言うようだ。なるほど陰毛か」
イザナミ「雨上がり決死隊のホトちゃん=雨上がり決死隊のvaginaちゃん」
北海道民以外「北海道民が『子供をチョコでぼったくった』と言った。この北海道民は子供から金を巻き上げた」
沖縄県民以外「沖縄県民が『まんこでしゃせいした』と言った。vaginaでejaculationだろう」
この人たちが「異文化だから間違えても変じゃない。俺たちの文化に当てはめて何が悪い。言葉は変化するものだ。何も間違ってない。現代日本人だって不失正鵠を正鵠を失わずと読むだろ!」と言ったら?
的を得ると得正鵠の基となった正鵠を得るの基となった正鵠を失わずを認めるなら、この人たちの理屈を認めなければダブルスタンダードだと思いませんか?
大きな事柄は小さな事柄の積み重ね。正鵠を失わずを正しいと認めるの?

文字とは昔から今、今から未来へと続いていく約束事だ。それが守られるから現代人は過去の書物を理解し、未来の人々に我々の意思を伝えることができ、異文化と交流できる
文字とは公共財だ。もし自分勝手に意味を読み変えることに寛容であれば、文字の体系性が破壊し、コミュニケーション機能が崩壊し、文字が文字の役目を果たせなくなる
我々人間が他の生き物と違うのは言葉が使えること。自分の意思を相手に伝えるからこそ人間社会は成り立っている
「言葉は生き物。意味が通じれば誤りや誤用でも大丈夫」という意見があるのは、「相手に伝えたい」という言葉が存在する意味を理解しているからだ
言葉は自分だけでなく相手を救うもの。相手を尊重するからこそ、我々は文化・時代・国を超越して理解し合えるのだ
それは文化ではなく、人が人を想う心そのもの。互いが互いを思いやる人間として当たり前のこと
それを「自分の文化・時代・国として読みが正しければ、相手の文化・時代・国を無視した意味でも正しい」とかどんだけワガママなんだよ
村岡花子の爪の垢を煎じて飲まなくちゃ、ダメよ~ダメダメ

[omit-info: 8371 hmac_sha1_base64:ba6qbl4RQQ7PTnyNR6VADR9WRdw aes_base64:CyQUljHnVsgWRlISXNvTR9P2x0WR/bIX88nvgpleLDCLqPw]

投稿: 正鵠を失わずshine | 2014-12-26 13:17:38 (JST)

コメントありがとうございます。

「当を得る」を「とうをえる」ではなく「まとをえる」と読んだ可能性があると、まず書いておきます。このサイトでは誰もまだ書いていませんでしたから。

鳥の漢字の読みは、その鳴き声を示すとどこかで読んだことがあります。「コク、コク」(「黒、黒」?)と鳴く鳥は、案外、鶏だったのかもしれませんね。鶏なら、黒いのもいます。

言葉は社会で使われるもので、社会性を確認し合うための議論というのも必要だとは思います。正しい表現、正統的な表現、それを忘れないことは大事なことです。

「正しい表現」の逆、下品な表現やわかりきった不粋な表現を使わないことを重視するところもあるでしょう。このサイトはあまりそういうことにはこだわってません。こういうところでは、一律に禁止することが、表現の細かい検討から導かれる検閲の危険性を排除して、逆に表現に自由を与えることもありますね。

「死ね」というのが禁止ワードになっていて「タヒね」なんて書いてるサイトがたまにあります。あれは個人的に好きじゃないんですよね。ココログがそういうシステムを今後も導入しないことを願います。

私から見た今の日本の出版界は、日本のインターネットは、ずいぶんおとなしくなりました。統制が厳しくなっているんでしょうか、ただの時代の流れなのでしょうか、単に私がトシをとって保守的になっただけというのもありそうです。(テレビは、最近あまり見ないんで、日本エレキテル連合とか知らないんですよ。)

来年はもう少しユルくいけたらいいですね。

それでは「正鵠を失わずshine」様、良いお年を!

投稿: JRF | 2014-12-27 15:24:49 (JST)

平凡社『中国の故事と名言 500選』を読んだ。その本に「正鵠を失わず」の項があった。

それによると、鵠だけでなく正も的[まと]のこととあり、私の解釈に相当する「鵠を正す」と訓[よ]むようなことはないようだ。なお、この本では「鵠」を「くぐい」と訓んでいる。「くぐい」は白鳥の古名らしい。

「正鵠を失わず」の出典としては『礼記』の「中庸」と「射義」を挙げているが、共に「正鵠を射る」の形ではなく「正鵠を失する」の形で出てくる。

だから「鵠を正すを失する」のが非礼であると示唆する私の説が間違いであるという即断は避けられようが、そのほうが適当だとする根拠はない。上の「匿名希望」氏のコメントにあるように「中正鵠」はあるらしいし。

私よりも詳しい人はたくさんあるようだから、このサイトだけでなく他のサイトも参考にされることを強くおすすめする。

投稿: JRF | 2015-11-07 18:09:14 (JST)

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