救いの無力さ
絶望は過ぎる。そうでなければ死ぬだけだ。
「 絶望のうちに死んだ者がいる。 私は彼に何もできなかった。 彼は私を求めない。私もまた求めうる者などいない。 何にすがったところで意味はない。 死こそ救い。 」 「 生きて救いを得られなかった者が、 どうして死んで救いを得られると思うのか。 だが、案ずるな。幸い彼は救われた。 無力さにうちひしがれたとき なお死ぬことができることを見つけることがある。 だが、生きることもできることだ。 お前も生きて考えているではないか。 」 「 この生が救いだというのか。 彼への救いもまたこれほど貧しいのだろう。 生を超えて救いがあると告げられても、なんと空しい。 救いにおいて神は無力だ。 」 「 人の目に死と映る物も神にとっては生きている。 左の手にあるものを偽りと言えというなら、 右の手にあるものをなぜ偽りとしてはいけないのかと問おう。 礎石を無力というなかれ。 生きて考えられることは礎石である。 お前は力ある者だ。 」
■ |
参考
|
||||||
■ |
追記 (2007-06-01)
|
自分の周りしか知らない者ならいざしらず、現実や歴史の悲惨さを知る者にとって「神は至善」という見方をするのはとても難しいです。現実の過酷さに対し、どうしても死後の救いというものがなければ、この立場はありえないという認識のもと、死生観にまで踏み込みました。
神が出てくるだけなら、小説などでもよくあるのですが、死生観となると特定宗教の色が出てしまいます。ここでは死後どこそこに行くなどという言明は避けましたが、「彼は救われた」という部分で先の時間における復活という概念とは単純にはあいいれなくなっています。
書いてみて気付いたのは、この立場だと奇跡の説明が苦しくなることです。今奇跡を起こさないというのに、なぜ過去には奇跡を起こしたのか答えようとすると、特定の人々を特別扱いしたという事実(?)と向き合うことになります。この立場では神の計画よりも尽力を重視するので、次のような感じでしょうか。でも、自然法則を破るまでしたという理由は出てこないんだよなぁ……。
「 かつて奇跡があったという。 それを見た者がどれほど特別だったというのか。 」 「 神の住まうところは人の住まうところと異なる。 神も試みる。自らをも試みる。しかし、偽りとしない。 お前も神を責め、 「私はあれであった」と告げることを求めるのか。 」
更新: | 2007-05-28,2007-06-01 |
初公開: | 2007年05月29日 01:36:13 |
最新版: | 2007年08月08日 19:39:54 |
2007-05-29 01:36:08 (JST) in 箴言・辛言・戯れ言 | 固定リンク | コメント (2) | トラックバック (1)
トラックバック
他サイトなどからこの記事に自薦された関連記事(トラックバック)の一覧です。
» JRF の私見:雑記:救いの無力さ (この記事)
» 悪の犠牲の「自動人形」にも救いあれ from JRF の私見:宗教と動機付け
《忘却からの帰還:慈悲深い神と魂の存在を信じる者に幸いあれ》に「神が人間を創造したなら、モラルは高まる」というに対する対抗議論として次のようなことが述べられていました。 前提: 1. 超越的な(transcendant)神が存在する。 2. その超越的な神は慈悲深い(benevolent) 3. その超越的な神が、魂を創造して、人間が誕生したときに吹き込む[霊魂創造論] 4. 魂を吹き込まれない... 続きを読む
受信: 2007-06-08 22:59:43 (JST)
コメント
更新:追記しました。
投稿: JRF | 2007-06-01 19:54:42 (JST)
更新:迷った末、追記の「お前も生のうちで神を責め」から「生のうちで」を除いた。この部分での超越性を重くみたため。
投稿: JRF | 2007-08-08 19:50:55 (JST)