いじめは「楽しいから」するという自発的なものというよりも「その場のノリ」という何らかの規範意識のもとになされるものである。
好意の照れ隠しや、残虐性からくる楽しみから、ある人を嫌いだと表明することはある。
しかし、私の経験からすると、それはせいぜい中学のはじめぐらいまでのことで、思春期に差し掛かると、むしろそういった理由ではなしに人を嫌うようになる。
このとき、相手の部分を否定することなく、または、相手の部分を否定しているように口ではいいながら、相手を全否定するという態度になる。
この嫌悪の心理的な動きは、他者の需要として、ある対象について自分に嫌悪することが求められていると考え、他者の仲間意識や関心を得るために、 「その対象を嫌悪する自分」というイデアを追及していると解釈できるのではないだろうか。
つまり、「対象が嫌い」なのではなく、「対象が嫌いだという(地位にいる)自分が好き」だと考える。
2006-03-01 23:58:31 (JST) in 心と体 教育 | 固定リンク
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1997 年といえば山一破綻のころ。政府もいろんな意味での「危機」を真剣に考えるようになったんでしょうね。個人的に私も一番辛い時期でした。
1999 年は就職というかアルバイトすら諦め、本格的に引き込もり生活に入っていました。とにかくいろいろ考えて模索して、でもほとんど逃避して……
当時のメールの履歴。届いたものは残っているのですが、出したものは残っていません。出した数は少ないと思いますが、1998 年と 2000 年のものは残っているので、他のマシンから移すのを失敗して、消してしまったのかもしれません。
でも、親から届いたメールを今読むといろいろとシグナルを出してくれてるのがわかって……。これに気づかないとは、私は当時、ほんとに余裕がなかったんだな、と。
2006-02-19 03:04:56 (JST) in 経済・政治・国際 心と体 | 固定リンク
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かつて三業と言えば、酒を「飲む」、博打を「打つ」、女を「買う」だったわけですが、私はどれも好きではありません。
正しくは酒については味は好きなのですが、アルコールにとても弱いので好んで飲むことがないのです。
でも、だからと言って業が薄いかと言えばそうでもないです。
2006-02-11 16:56:25 (JST) in 心と体 日本語論 | 固定リンク
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