『新約聖書』ひろい読み --- イエスはサタンか
マルコ 3:20-30、マタイ 12:22-31、ルカ 11:14-23
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ユダヤ教の神は決して奇跡で病気を治すような神ではなく、そのような「神」への信仰は、列王記下 1 章にあるようなバアル・ゼブブへの信仰であり、それは、自分から苦難を起こし、その苦難を解決することで自分への信仰を篤くしようとする「悪霊の頭」としての「神」への信仰であるというのが律法学者の主張である。
それに対するイエスの答えは、「サタンが滅びるためには、サタンが内輪もめして争う必要がある。サタンが力として示すものの正体を、自分達が捕まえていなければ、それはますます繁栄するだけである。たとえ、サタンをまねた行為が罪や冒涜の言葉となろうとも、それが自らの聖霊からでた行為であるならば、それは赦されうる。」というものである。
本当にサタンとサタンが争っているならば、サタンは滅びるのかもしれない。しかし、サタンによって人と人が争っているならば、争い続けられるだけの余裕が、サタンの繁栄の余地を提供することになる。
この解釈だと、イエスが自らサタンの所業を行っていることを認めていることになる。しかし、そう解釈することで、後に続く文意「外見的にサタンのような所業をしていても、聖霊によるものであれば赦されることもありうる(そうでないなら赦されないこともある)」が生きるのである。
この解釈は、他の方にとってはサタンのささやきのようなものかもしれないが、私にはもっとも穏当だと考えられるものである。私はこの解釈を抱いたまま、それ以外の少し違和感のある解釈を見てみたい。
「善と悪が永遠に争うのではなく、悪と悪が争って善になっていく」と主張しているという解釈も可能かもしれない。
クムラン教団(の一部)やミトラ教のような異端ではないかという問いを律法学者は出し、イエスはそれを「正義の力が悪の力を倒すわけでも、神が自分の栄光を示すために悪を作ったわけでもない」として退けているという解釈もできる。この場合、人に悪を倒す力を与えるのは神の恩恵であっても、神の恩恵そのものが悪を倒したわけではないことになる。悪を倒すのもまた悪であり善は争っていないということになるかもしれない。
もちろん、ここでイエスは、そのようなことを明確に否定していないので、このような解釈がありえないわけではない。
私はこの解釈は間違っているかもしれないと思うが、これを読んだ人の頭の中で、悪い解釈と悪い解釈を戦わせれば、より良い解釈に辿りつくかもしれない……ということだろう。
「神は悪霊の頭として悪霊を追い出すとしたら、悪霊から尊敬を失い、悪霊の頭でいつづけることはできない。だから、自分の使う神の力は悪霊の頭の力ではない」といっているのかもしれない。ただし、これは悪霊に自由意思を認めるモデルである。「悪霊の頭」や「悪霊」という神的存在が「神」とは別にいて、それが人を悪事に走らせたり病いを起こしているということだ。
この時代のユダヤ教は、悪をつくったのは神ではない(人か蛇?)という解釈が正統的だったのかもしれない。
私は「神の軍団」も「悪霊の軍団」も親しめない。だが、絵に描かれた天使をそのまま受けいれることができるならば、悪霊がすぐ真近にいる世界を絶望的な悲観を感じずに生きていけるのかもしれない。
悪霊とサタンに区別があり、例としてサタンがあげられているということは、サタンは現実的なもの(告発者など)を指しているという解釈もありえる。
イエスは悪霊についての(不毛な?)議論を避け、イエス自らも告発者なのに告発者どうしで争うのは亡国的行為で、まずは協力して「強い人を縛り上げ」ようと述べているのかもしれない。
私はまず「議論を避けた」とは思えないのでこの解釈そのままを受け容れることはできないが、そういう意味をまったくこめたなかったとはいえないと感じる。しかし、当時の「サタン」の解釈が単に「告発者」という意味に留まったか、そのように律法学者たちが受けとれたかというと、そうではないように思う。
「悪霊の頭の力」を使っていることを否定していることから、迷信(悪)をもたないものに迷信(悪)を強要するべきではないとイエスが主張しているといった解釈も可能となるかもしれない。
ただし、人の持っている信念が迷信であるかどうかはわからないものである。これは「迷信をもつ者」はさらなる迷信の深みへと導くことを正当化し「迷信をもたないもの」を特別視するという点で、悪い選民思想のさきがけのように思える。
そもそもこの解釈は文章全体をまったくいかせていない。むしろ迷信をもたせるなと言いたがっているのは律法学者たちのように私は解釈している。
この解釈をなりたたせるのはイエスを「告発する」かのようにみえる律法学者たちをサタンのようにみなしたいという偏見があるからではないだろうか。
もちろんそのような偏見があると感じるのは私の偏見によるのだろう。だが、書かずにはおれなかった。
一つの家で悪と悪が争うとしたとき、「一つの家」を強調すると、これは教会の一致を求めることになる。ただし、一つの家を一人の人間ととらえれば、教会の意見の一致は必要ではなくなる。
なお教会一致の論拠となりうるテモテへの手紙2
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は、特定の教義や説教時における一致と限定して解釈することもできるが、意見の相違を認めないという解釈も可能である。後者の解釈には、絶対的な真実を信じているはず人々の前で、真実に疑義を生じさせるのはマイナスであるという判断があるのだろう。私は、むしろ、解釈の自由がキリスト教を広める原動力になったと考えるので、この判断には賛成しない。
ちなみに、ベルゼブルは βεεζεβυλ で、バアル・ゼブブの誤記といわれる。ただし、bee が蜜蜂のことであれば、これはゾロアスターの神のことを言っているのかもしれない。ゾロアスター教では、知識を蜜にたとえ、賢者を蜜蜂にたとえていたからである。時代背景的にはバアルが問題というよりもゾロアスター教の亜種が流行していたので、それに掛けた意図的な誤記かもしれない。
更新: | 01/06/01,01/06/11,01/07/02,01/07/15,05/01/22,06/01/29,2006-12-25 |
初公開: | 2006年01月29日 01:51:22 |
最新版: | 2006年12月25日 21:49:37 |
2006-01-30 18:06:16 (JST) in 新約聖書ひろい読み | 固定リンク | コメント (1) | トラックバック (1)
コメント
更新:大幅に加筆し、解釈の構造さえあらためた。このブログの最初のころの記事だったので元はあまり読める文章ではなかった。今でも読みにくいかもしれないが、マシにしたつもり。
投稿: JRF | 2006-12-25 21:53:38 (JST)