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2006年2月23日 (木)

『創世記』ひろい読み ― 知識の実

02:16 では「善悪の知識」のないものに対して、神は命令していることになる。つまり、「善悪の知識」がなくても神の命令は守ることができ、そのような存在として、まずアダムとイブを創造したことになる。

02:16
主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。
02:17
ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」


一方イブは命令にそむき「誘惑」に負けることができた。これは、神にとっての善悪を示す「命令」の他に神に近づこうとする「欲望」があったことを意味する。

03:22
主なる神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」


人は「善悪の知識」を手に入れたという。これは神が善悪を判断した命令(神にとっての善悪)だけでなく、人が自分にとっての善悪を判断するようになったことを意味する。しかし、それは神への「欲望」に基づくものではない。
人は「善悪の知識の実」を得ることで、人が人に生をもたらすことも死をもたらすこともできる存在であることを知った。人は神に対してだけでなく、人に対しても恐れ、欲するようになったのである。

そして、すべてを見通せない人間から隠しごとをするために、体を隠すことを覚えた。快楽への欲望を遮り、憎しみから身を守ることを覚えた。

03:06
女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。
03:07
二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。

03:21
主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。


いちじくの葉ではなく、皮の衣を着させたのはなぜか。

説 1.
外界が危険であるから。
説 2.
人と人との間にある秘密は、一時的な覆いではなく、終生の覆いであることの象徴。


この解釈だと、ある意味で、神は奴隷として人を創造し、その後、神に対しても隠しごとができるように整えたということもできる。

説 3.
動物の皮を得るにはその死が必要である。罪を贖うためには犠牲が必要であることの象徴。

説 3.1.
しかし、その犠牲はここに現れていない。人が人を赦すことには犠牲を必要とするが、神の側ではそれが必要のないことを表す。同時に人は赦されたことを知るために犠牲があったことを求めようとする性質の端緒がここにある。人が神の赦しの証を得たと信じるには、人の側では本物の犠牲が必要であった。後のイエスの受難に通じる。

説 3.2.
しかし、その犠牲は罪のない動物によるものである。人の罪を贖うために、神は罪のない犠牲すら用意する。後のイエスの受難に通じる。


上の節の直前にイブは蛇に対して次のようにいい、蛇はそれを否定する。

03:03
でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」


ここでは表面上、神が嘘をつき、蛇が本当のことを言っていたことが後にわかる。これは、神が人にものごとを命令する場合には方便を用いることがあることの現れととらえる考え方もあるだろう。創造の方法として、人に罪を犯させることがあるという考え方もあるだろう。

ただ、これとは別に、人と人が殺しあって死ぬといけないという意味において真実であり、嘘はついていないという考え方もあり得る。


もし「人は禁断の実を食べることで死にうる存在になった」という解釈があるのならば、これは「永遠に生きるものにとって許しえない罪を、許しうる罪に解釈できるように、神が、その慈悲で、人を生を有限ととらえる存在とした。」と考えれば良い。


この一連の部分は、主にカトリックにおいてはアウグスティヌスの時代から、人が生のときからアダムとイブの罪を性殖行為によって受け継ぐという解釈が与えらていた。これを「原罪」といい、その許しを与えられるのはペテロの正統な後継たるカトリックであるとする。

一部のプロテスタントが「原罪」解釈を否定するのはそのあたりの事情があるかもしれないが、あまりそういうこととは無関係なギリシャ正教も性行為を極度に悪とみなす「原罪」解釈はとらないようである。

これらの宗派であえて「原罪」という言葉を使うときは、イブの逸脱とアダムの無責任を指摘しても、罪が「遺伝」するとは考えない。

うがった見かたをすると、これらの違いは、権力者と結び付いた正教と違って、カトリックは権力とは独立であろうとしたため、ある程度、恐怖によって人をキリスト教に縛り付ける必要があったからかもしれない。


更新: 01/07/15,04/08/09,05/03/20,06/02/23
初公開: 2006年01月29日 00:20:51
最新版: 2006年03月19日 13:08:44

2006-02-23 19:52:57 (JST) in 旧約聖書ひろい読み | | コメント (0) | トラックバック (0)

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