『創世記』ひろい読み ― 知識の実
02:16 では「善悪の知識」のないものに対して、神は命令していることになる。つまり、「善悪の知識」がなくても神の命令は守ることができ、そのような存在として、まずアダムとイブを創造したことになる。
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一方イブは命令にそむき「誘惑」に負けることができた。これは、神にとっての善悪を示す「命令」の他に神に近づこうとする「欲望」があったことを意味する。
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人は「善悪の知識」を手に入れたという。これは神が善悪を判断した命令(神にとっての善悪)だけでなく、人が自分にとっての善悪を判断するようになったことを意味する。しかし、それは神への「欲望」に基づくものではない。
人は「善悪の知識の実」を得ることで、人が人に生をもたらすことも死をもたらすこともできる存在であることを知った。人は神に対してだけでなく、人に対しても恐れ、欲するようになったのである。
そして、すべてを見通せない人間から隠しごとをするために、体を隠すことを覚えた。快楽への欲望を遮り、憎しみから身を守ることを覚えた。
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いちじくの葉ではなく、皮の衣を着させたのはなぜか。
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この解釈だと、ある意味で、神は奴隷として人を創造し、その後、神に対しても隠しごとができるように整えたということもできる。
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上の節の直前にイブは蛇に対して次のようにいい、蛇はそれを否定する。
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ここでは表面上、神が嘘をつき、蛇が本当のことを言っていたことが後にわかる。これは、神が人にものごとを命令する場合には方便を用いることがあることの現れととらえる考え方もあるだろう。創造の方法として、人に罪を犯させることがあるという考え方もあるだろう。
ただ、これとは別に、人と人が殺しあって死ぬといけないという意味において真実であり、嘘はついていないという考え方もあり得る。
もし「人は禁断の実を食べることで死にうる存在になった」という解釈があるのならば、これは「永遠に生きるものにとって許しえない罪を、許しうる罪に解釈できるように、神が、その慈悲で、人を生を有限ととらえる存在とした。」と考えれば良い。
この一連の部分は、主にカトリックにおいてはアウグスティヌスの時代から、人が生のときからアダムとイブの罪を性殖行為によって受け継ぐという解釈が与えらていた。これを「原罪」といい、その許しを与えられるのはペテロの正統な後継たるカトリックであるとする。
一部のプロテスタントが「原罪」解釈を否定するのはそのあたりの事情があるかもしれないが、あまりそういうこととは無関係なギリシャ正教も性行為を極度に悪とみなす「原罪」解釈はとらないようである。
これらの宗派であえて「原罪」という言葉を使うときは、イブの逸脱とアダムの無責任を指摘しても、罪が「遺伝」するとは考えない。
うがった見かたをすると、これらの違いは、権力者と結び付いた正教と違って、カトリックは権力とは独立であろうとしたため、ある程度、恐怖によって人をキリスト教に縛り付ける必要があったからかもしれない。
更新: | 01/07/15,04/08/09,05/03/20,06/02/23 |
初公開: | 2006年01月29日 00:20:51 |
最新版: | 2006年03月19日 13:08:44 |
2006-02-23 19:52:57 (JST) in 旧約聖書ひろい読み | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
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