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技術系電子本。Python による仏教社会シミュレーション( https://github.com/JRF-2018/simbd )の哲学的解説です。

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2006年2月23日 (木)

『創世記』ひろい読み ― 知識の実

02:16 では「善悪の知識」のないものに対して、神は命令していることになる。つまり、「善悪の知識」がなくても神の命令は守ることができ、そのような存在として、まずアダムとイブを創造したことになる。

02:16
主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。
02:17
ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」


一方イブは命令にそむき「誘惑」に負けることができた。これは、神にとっての善悪を示す「命令」の他に神に近づこうとする「欲望」があったことを意味する。

03:22
主なる神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」


人は「善悪の知識」を手に入れたという。これは神が善悪を判断した命令(神にとっての善悪)だけでなく、人が自分にとっての善悪を判断するようになったことを意味する。しかし、それは神への「欲望」に基づくものではない。

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2006-02-23 19:52:57 (JST) in 旧約聖書ひろい読み | | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年2月15日 (水)

パンとぶどう酒、それぞれの意味

聖体の秘蹟(聖餐式または聖体機密)で用いられるパンとぶどう酒の扱いは、キリスト教の宗派によって異なり、変遷がみられる。

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2006-02-15 20:54:49 (JST) in キリスト教 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年2月14日 (火)

聖餐論、聖体論争

聖餐式とは、キリストの処刑前夜に、自らの血と肉として、信徒にパンとぶどう酒を勧めたことに由来する儀式である。

ルターの説は、聖餐式とは、「神への契約の存続」の象徴である犠牲(キリストの血と肉であると同時にパンとぶどう酒であるもの)が天に召されることを祝い、「キリストの言葉による新たな契約」を結ぶ儀式であるとするものである。ルターは、カトリックが平信徒にはぶどう酒を与えなかったことを、改めた。

ルターとツヴィングリ、および、カルヴァンの時代になされた聖餐に関する論争は、このパンとぶどう酒を「犠牲」として見做すか否かが最大の争点であった。

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2006-02-14 21:43:34 (JST) in キリスト教 神学・教学 | | コメント (0) | トラックバック (1)

象徴の利用形態

何がしかの象徴(物・行為)を用いる方法には次のものが考えられる。

1.
「真理」の一部としての象徴の刷り込み
2.
知的好奇心を刺激するための象徴
3.
「自発的」信仰表現としての象徴
4.
強制的信仰の許しまたは免罪符としての象徴

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2006-02-14 17:20:27 (JST) in 神学・教学 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年2月 4日 (土)

『創世記』ひろい読み --- バベルの塔

バベルの塔のエピソードの歴史的解釈とともに、精神分裂症時の妄想を紹介する。

11:01
世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。

11:02
東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。

11:03
彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。

11:04
彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。

11:05
主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、

11:06
言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。

11:07
我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」

11:08
主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。

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2006-02-04 17:13:17 (JST) in 旧約聖書ひろい読み | | コメント (0) | トラックバック (2)

タナトス(Thanatos)

統合失調症あるいは精神分裂病』(計見一雄, 講談社選書メチエ, 2004/12/10) によると、フロイトは「人間の最も基本的な衝動とは何か」という問いに eros (生の本能、libido) と thanatos (死の本能) と答えたという。これについて、著者は、発達心理学では thanatos ではなく aggression だという。ハルトマンが言いはじめたそうだ。

しかし、私はやはり thanatos でいいのではないかと思う。自己と同じであるにもかかわらず、自己と違うものを消去しようとする garbage collection のような単一化欲求こそ thanatos ではないか。

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2006-02-04 16:53:32 (JST) in 心理学 仏教 | | コメント (3) | トラックバック (0)

錬金術

金は、希少であるが、化学的に安定し比重が重いため分離が容易であり、ほとんど錆びず、人が加工しようと思えば石器でも加工できるわりに、多少の衝撃でも形が崩れない程度の硬さはある。

しかし、これらの特徴は農業生産にも武器にも適さない。金は、近年になって導電率の良さが着目されるまで、決して実用的な金属ではなかった。

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2006-02-04 16:52:38 (JST) in 経済的動機付け | | コメント (0) | トラックバック (0)

魂の座

意志の働きが、脳の動きによって説明できるようになった場合、霊魂がどのように意志を持つかが問題となる。次のようなモデルが考えられるだろう。

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2006-02-04 16:51:34 (JST) in 神学・教学 | | コメント (1) | トラックバック (1)

神の全知性

全知性を強調して四次元上の全知性しか考えないことは、神が予測し得ない決定を行える者を神が「創造しえない」と考えていることを意味する。すなわち神の全能性に疑問を呈しているのである。もちろん、そのような創造をできるとした場合は、神の全知性は過去の事実と将来の可能性の認識や大まかな計画に限られることになる。

全知性を強調すると、創る苦しみはあるかもしれないが、人にわかる間違いがあると考えることは難しくなる。この立場における自由意思は、人間は自由意思があると認識するのみで、実際にはないということになる。

全能性を強調する立場のほうが、いろいろバリエーションを考えることができる。

グノーシスでは、全能の創造神、全知の至高神といった解釈になるのだろう。
更新: 01/07/14
初公開: 2006年02月04日 16:50:46

2006-02-04 16:50:46 (JST) in 神学・教学 | | コメント (0) | トラックバック (0)

神は至善か、暴君か

神はどのような人間にも平等に接し、自由に選択する人間一人一人に最良の結果をもたらすよう努力して下さるのか、はたまた、神は己れの栄光のみのために、または、人間全体として最良の結果になるように、人を動かすのであって、人はその予定に従うだけであるのか。

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2006-02-04 16:49:41 (JST) in 神学・教学 | | コメント (0) | トラックバック (2)

義認説と予定説

信仰義認説は、「信仰のみによって、原罪ある人が罪なきもの、すなわち、義と認められる」というルターの唱えた説である。義認説の目的の一つは「良心」が傲慢さであることを常に意識させようというものであろう。

予定説は、「ある人が救われるかどうかは、人からみれば非合理的かもしれない神の永遠の営みの中に予定されている」というカルヴァンの説である。これは「神の恩寵」説をより具体的な方向に展開した解釈の一変形といえる。

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2006-02-04 16:42:15 (JST) in キリスト教 神学・教学 | | コメント (0) | トラックバック (1)

仏教とキリスト教:教えの誠実さ

仏教は、信者が新たな真実を語る預言者、すなわち、ブッダになることは肯定したが、教えを神の責任とすることを禁じた。そして、信者は、自分が必ずしも信じていないものを信じよと説く「方便」を語ることができるが、その方便を使った効果については、自らの中に確信がなければならないとする。

一方、キリスト教は、神の名のもとに教えをただ信じることを求めるが、信者が新しい真実を語る新たな預言者になることを否定した。そして、信者は、預言者ではないがゆえに、自分の伝え聞いたものを確証する手段を持たないが、自分の信じているものとして教えを語ることができる。

一方から見れば、他方は無責任に映るが、一概にどちらが誠実だとは言い難い。

仏教徒には、仮に神がいるのだとしても、人に欲望と理性を与えた以上、自分達が人のためにすることが、本当に人のためになるのならば、結果的にそれは神の評価するところになるはずであり、逆に、神にこだわることで争いをするのは無益であるという考えがある。

キリスト教徒には、神がいるのにその栄光を無視することはできないはずであり、神が人に理性と欲望を与えた以上、現世的な利益を追求することに関しても、相応の解釈によって何らかの理由が導けるという考えがある。

信徒を「受益者」という視点でみれば両者の違いというものは、それほど大きくないのかもしれない。
更新: 01/02/08
初公開: 2006年02月04日 16:36:17

2006-02-04 16:36:17 (JST) in 仏教 キリスト教 神学・教学 | | コメント (0) | トラックバック (0)

四諦:仏教教義の提案的解釈

煩悩を良心によらない自由意志、仏性をイデア、正見を理性、功徳を救いの確信とする。

仏教の問題は外の革新を求めて行動する意欲の少なさにある。もし、これを変えようとするならば、たとえば《四諦》を次のようにすれば良いのではないか。

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2006-02-04 16:35:41 (JST) in はじめにお読みください 仏教 神学・教学 | | コメント (3) | トラックバック (1)

仏教は無神論か

仏教は無神論であるといわれることがあるが、仏教は神や霊魂の存在を否定はしない。ただ、出家者は、神や霊魂の存在を必要条件として、儀式や道徳を導くことがないだけである。仏教の教義は、神がいようがいまいが、人々が究極的に求めるものとして設けられている。

出家者が神や霊魂を信じていてもかまわない。ただ、違う神を信じる出家者どうしが神のことを語りあえば、しばしば、より大切なことを見失いがちになる。そのような出家者にとっては、仏教の教義に基づくことこそ、そういったことを避けるための方便となる。仏教は、こうして、その土地に残る宗教と結び付き、発展してきたのである。

ただし、このような態度こそが、神をないがしろにするものであると考える宗教もある。もし、出家しようとするものが、そのような神を信じていたのならば、人々の幸せのために、敢えて外道に堕ちよと説かねばならない。一神教の信者にすれば、この点を指して無神論というのだろう。
更新: 01/02/09
初公開: 2006年02月04日 16:34:44

2006-02-04 16:34:44 (JST) in 仏教 | | コメント (0) | トラックバック (0)

神の前での平等

「神の前での平等」とは、「人の判断には限界があり、いかに優秀な人であろうと、そうでない人であろうと、神の全能さの前では平等であるから、人は人に対して謙虚でなければならない」という考えと解釈できる。

これは、「良い努力」と「良い結果」の「良さ」の判断を疑う、「神の恩寵」と「自由意思」に対する第三の価値観であると同時に、ほとんどの論争における第三の価値観と言えるだろう。ただし、あまりこれを強調すると、権威を認めないアナーキズムに陥ることになる。

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2006-02-04 16:32:19 (JST) in キリスト教 神学・教学 | | コメント (0) | トラックバック (1)

自由意思と神の恩寵

神の恩寵の下で自由意思を認めるかどうかは、キリスト教圏では古くから論争となっており、現在でも決着をみていない難しい問題である。(ペラギウスとアウグスティヌスの論争)

ここでいう自由意思とは、「自らの良心に従った自由な判断とそれに基づく行為」を意味する。それに対する神の恩寵とは、「神がその慈愛によって、人の前に示した良い結果」を意味する。「自由意思」の自由は、神ではなく人にその決定を委ねられた判断や行為の自由のことである。その自由があるならば、(神の定めた範囲内かもしれないが)人の力で結果を変えうることになる。

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2006-02-04 16:31:19 (JST) in キリスト教 神学・教学 | | コメント (0) | トラックバック (2)

教義の内発性と外部の影響

特定の宗教者が、ある教義が、外部の宗教の教義からの転用であることを認めず、あくまでも自分達の歴史的なバックボーンからの内発的なものであり、創始性があると主張することがある。

多くの場合、この宗教者の意見はある意味で正しい。つまり、そのような教義に目覚め、それを迫害の可能性がある中で強く主張しようとする人間は、やはりその人生から内発的にその教義をつくり出したという自負があるからこそ、迫害と戦えるのである。

しかし、一方、それが今日まで教義として受け継がれるためには、その教義が受け入れられる基盤というものがなければ、難しい。この受け入れる側の事情として外部の宗教の教義の影響があることは、大いに考えられることである。

ところで、その「外部の宗教」についても、それがそれまで受け入れられていた根本的な理由があるはずである。その理由をあげるならば、「外部の宗教」の影響ではなく、「内発的」だと言えるが、その理由は多くの場合、「教義」の内発性を主張する宗教にとっても「外部的」な要因となる。
更新: 01/02/05,01/02/21
初公開: 2006年02月04日 16:30:39

2006-02-04 16:30:39 (JST) in はじめにお読みください 神学・教学 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年2月 1日 (水)

消費者の購買動機をモデル化する試み

顕示的消費の経済学』(Roger Mason)を読みながら、消費者が商品的価値以外の情報をどのようにして購買に結びつけるか、私なりのモデルを考えています。別のディレクトリに記事があります。→《「顕示的消費の経済学」を読んで
更新: 00/12/25,01/01/02,06/02/01
初公開: 2006年02月01日 03:25:16

2006-02-01 03:28:35 (JST) in 経済的動機付け | | コメント (0) | トラックバック (0)