教義の内発性と外部の影響
特定の宗教者が、ある教義が、外部の宗教の教義からの転用であることを認めず、あくまでも自分達の歴史的なバックボーンからの内発的なものであり、創始性があると主張することがある。
多くの場合、この宗教者の意見はある意味で正しい。つまり、そのような教義に目覚め、それを迫害の可能性がある中で強く主張しようとする人間は、やはりその人生から内発的にその教義をつくり出したという自負があるからこそ、迫害と戦えるのである。
しかし、一方、それが今日まで教義として受け継がれるためには、その教義が受け入れられる基盤というものがなければ、難しい。この受け入れる側の事情として外部の宗教の教義の影響があることは、大いに考えられることである。
ところで、その「外部の宗教」についても、それがそれまで受け入れられていた根本的な理由があるはずである。その理由をあげるならば、「外部の宗教」の影響ではなく、「内発的」だと言えるが、その理由は多くの場合、「教義」の内発性を主張する宗教にとっても「外部的」な要因となる。
更新: | 01/02/05,01/02/21 |
初公開: | 2006年02月04日 16:30:39 |
2006-02-04 16:30:39 (JST) in はじめにお読みください 神学・教学 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
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