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2006年2月15日 (水)

パンとぶどう酒、それぞれの意味

聖体の秘蹟(聖餐式または聖体機密)で用いられるパンとぶどう酒の扱いは、キリスト教の宗派によって異なり、変遷がみられる。
ルターの時代のカトリックに「一つの形色におけるコミュニオン」の習慣という、平信徒はぶどう酒を拝領できないという慣習があった。『宗教改革の思想』は次のような理由を上げている。

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11世紀に一般信徒のある者がぶどう酒を不注意に取り扱い、勢いを得つつあった実体変化の神学によれば、キリストの血であるところのものを決してあまりきれいでない床にこぼす過ちがますます起こったようである。(p.223)


注目すべきは「ますます起こった」というところであり、そこに神学的にもっともらしい意図があったことが読みとれる。

パンは、畑にまかれた種から、まず自然が大きな役割をはたして小麦として収獲できるようになり、その後、人が大きく手を加えることによって完成する。ぶどう酒もまた、同じようにぶどうから作られるが、さらに一度作った物を寝かせ自然に身をゆだねさせることてはじめてできあがる。カトリックでは現在も無発酵パンを使うが、特にこの違いは無発酵パンの場合、顕著となる。

いってみれば、パンは聖的なものから俗的なものにひきわたされ、ぶどう酒はさらにそこから聖的なものに再度ひきわたされることによってできあがる。

すると、未だ聖的なものに引きわたされたていない平信徒はぶどう酒を飲めないという解釈がでてきてもおかしくはない。

ただ、これはキリスト教的な理解というよりもアニミズム的な匂いのする解釈であるから、後には廃れていったのも納得できる。


ギリシャ正教』によると、

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神が人に与える小麦を、人が手をかけてパンとする。パンは神と人との共同作業で成立する教会をあらわすものとされる。(p.196)

ぶどう酒は、人と人の交わりによって成り立つ生活の喜びをあらわす。 (p.197)

クリスチャンは、家族の血のつながりよりも強い、ぶどう酒であらわされるキリストの血でつながり、パンであらわされるキリストの体の肢体 (メンバー)となる。(p.197)


正教では、パンは教会での生活、ぶどう酒は平等や俗人としての日常生活をあらわすものなのだろう。

だとすると、ぶどう酒の解釈は正教と旧カトリックとでは正反対である。ぶどう酒の旧い象徴バッコスよろしく、混乱しているようだ。
更新: 01/01/15-01/01/19,06/02/14
初公開: 2006年02月14日 22:36:47

2006-02-15 20:54:49 (JST) in キリスト教 | | コメント (0) | トラックバック (0)

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