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2006年2月 4日 (土)

自由意思と神の恩寵

神の恩寵の下で自由意思を認めるかどうかは、キリスト教圏では古くから論争となっており、現在でも決着をみていない難しい問題である。(ペラギウスとアウグスティヌスの論争)

ここでいう自由意思とは、「自らの良心に従った自由な判断とそれに基づく行為」を意味する。それに対する神の恩寵とは、「神がその慈愛によって、人の前に示した良い結果」を意味する。「自由意思」の自由は、神ではなく人にその決定を委ねられた判断や行為の自由のことである。その自由があるならば、(神の定めた範囲内かもしれないが)人の力で結果を変えうることになる。
自由意思を評価するものは、何らかの判断と行為の結果を、神の慈愛を証明するものと考える。もし、良い結果とならないならば、判断と行為が本当の良心から出たものではなかったからだと考える。そして、自由意思を認めなければ、人々は、神の行為を受動的に待つだけとなり、実務的な努力を怠るオソレがあると考える。また、「自分達が神の意に沿わないと考えている悪い結果を除去するだけで、良い結果が得られる」という革命的思考を危惧する。

一方、自由意思を評価しないものは、人という存在がその努力によって何か絶対的に良いことができるというのは傲慢にすぎないと考える。もし、良い結果が得られないならば、それは、人が伺い知ることのできない神の深遠な意図によるものと考える。自由意思を認めることで、良心を勝手に解釈した者が、必ずしも神の意に沿わないことから利益を上げて、それを善行の現れだと慢心することを憂慮する。また、避けられない災害を特定の人の悪意に帰し、報復が報復を呼ぶ危険があると考える。


この論争は、極端に単純化していえば、主観的「努力」と客観的「結果」のどちらを重視するかの論争であると言えよう。(「努力」を重視するのが「自由意思」支持派。)論争が解決しないことからもわかるように、両者はまったく違う概念のように見えて、その境界は曖昧である。

ある人間に「努力」する意思があるかどうかは、「努力する姿」という「結果」からしか量りしれないものである。例えば、子供を見守る親のように、ある人 (子供)の「努力」した「結果」の良し悪しに関わらず、「努力する姿」そのものが、別の人(親)にとって良い「結果」となることがある。

こう考えれば、社会全体においては「努力」よりも「結果」を重視するほうが合理的である。そうはいっても、教育が行き届かず「結果」重視が誤解される危険も考えると「努力」の余地を認めておこうという考えが出るのも自然なことである。

一方、「良い」結果というが、その良し悪しを判断するのは所詮人間である。「良い結果を重視しよう」という行為は、結局のところ、人々を指導する立場にある、より広い視野を持つ人間の「努力」にほかならない。(注)

こう考えれば、「結果」よりも「努力」を重視し、教育が行き届かない層については、その判断の無力さを自覚させ、より上位のものの「結果」の判断に従った「努力」をさせることが合理的となる。この場合、「自由意思」を重視しながらも、一般人にはひとまず「神の恩寵」の重要さを説こうという態度になる。

以上二つの結論には共通する部分がある。それは、一般に向けた主張としては「神の恩寵」に重きをおく点である。

まさに、宗教改革当時のカトリック教会の主流は、基本的には神の恩寵によって良い結果がもたらされると考えていたが、自由意思にも若干の余地を認め、教皇自身は決して間違いを起こさない存在とされていた。それに対し、宗教改革者達はいずれも、この自由意思の余地を完全に否定し、「聖書のみ」と唱えるようになる。

(*)「神の恩寵」の考えは、帝国主義や絶対王政などを想像させるかもしれないが、必ずしもそういうことではない。この考えは、指導する立場の人間が複数いたり、その選出方法が民主的であることを否定しない。ただし、この考えはそのような短絡的な誤解を招きやすいとは言えるかもしれない。
更新: 00/11/18
初公開: 2006年02月04日 16:31:19

2006-02-04 16:31:19 (JST) in キリスト教, 神学・教学 | | コメント (0) | トラックバック (2)

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