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2006年2月 4日 (土)

神の前での平等

「神の前での平等」とは、「人の判断には限界があり、いかに優秀な人であろうと、そうでない人であろうと、神の全能さの前では平等であるから、人は人に対して謙虚でなければならない」という考えと解釈できる。

これは、「良い努力」と「良い結果」の「良さ」の判断を疑う、「神の恩寵」と「自由意思」に対する第三の価値観であると同時に、ほとんどの論争における第三の価値観と言えるだろう。ただし、あまりこれを強調すると、権威を認めないアナーキズムに陥ることになる。
命題自身が論争の虚しさを訴えるような側面があり、論争の対象としては適さない概念であるが、イエスの人性と神性の問題や「最後」の救世主の問題が、この問題を扱っていると考えることもできる。

死後のイエスが神の右にあると伝承している以上、イエスの生まれながらの人性と神性の同居を求めないと、人が神と同じ全能さを獲得できるという解釈ができてしまう。神の言葉を話す救世主が現在も現れうるとなった場合も同様である。これらは「神の前での平等」と対立する考え方であろう。


もちろん、このような人間の無力さを唱えることはどのような宗教でも共通してあり、仏教であれば「人である限りの世の無常」や「縁起を知ることはできない」といい、多神教であれば「神といえども自由ではない」という。

この平等は、あたりまえのことであるし、どのような議論にも当てはまるものであるから、議論の中では省略することが多い。そのためか否か、この視点が忘れ去られることもしばしばあるようだ。

そもそも「平等」という概念が必要なのは、人が何でも自由になすことができないがゆえに、分配の問題が生じるからである。よって、人の限界を示す「神の下の平等」がすべての平等概念の基礎になる。


たいてい、論争になるような場合は、どちらかではなく、両者の意見とも知っていることが結局のところ重要になる。(要するに三位一体的であることが重要。)
更新: 00/12/16,00/12/29,01/01/27,01/02/05
初公開: 2006年02月04日 16:32:19

2006-02-04 16:32:19 (JST) in キリスト教 神学・教学 | | コメント (0) | トラックバック (1)

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