義認説と予定説
信仰義認説は、「信仰のみによって、原罪ある人が罪なきもの、すなわち、義と認められる」というルターの唱えた説である。義認説の目的の一つは「良心」が傲慢さであることを常に意識させようというものであろう。
予定説は、「ある人が救われるかどうかは、人からみれば非合理的かもしれない神の永遠の営みの中に予定されている」というカルヴァンの説である。これは「神の恩寵」説をより具体的な方向に展開した解釈の一変形といえる。
義認説を唱えたとされるルター自身は、「信仰のみ」という信条によって、信仰や良心の現れとして求められていた個々の判断による具体的な行為(秘跡など)を、良い結果のためには不必要なものとし、自由意思を強く否定した。
しかし、行為として現れなくとも、信仰があれば正しいとされるとしたことで、義認説には、それが「自由意思」説の「良心」を、個々の解釈による「信仰心」に置き換えたものに堕す危険が、内包されることになった。
もちろん、誤解されたとしても、「良心」に比べれば「信仰心」のほうが判断の基準がしっかりしているので、自由意思論が持つ悪影響はやわらげられている。また、信仰上の奇跡の知識が職業上の知識よりも重視される危険があるが、万人司祭説にたって職業生活を信仰生活そのものとしたことで、その危険がやわらげられている。
一方、予定説は信者に「自分は救われる人間であるはずだ」という一種の選民思想を抱かせる効果がある。ただの選民思想にない特徴は、民族に基盤をおかず、行為によっても選ばれているか否かが、(ある程度はわかっても、人間には必ずしも)わかるわけではないという点にある。これにより、選民思想が内包しがちな排他性をやわらげている。
また、この説は一種の運命論としての特徴をもっているため、信者が、悪事をなしたのも運命であると開き直ったり、悪事を働いてしまったことで自分の運命を悲観し、自暴自棄となってしまう危険がある。この危険は、キリスト教独特の罪に対する救いの概念でやわらげられている。
義認説と予定説はともに自由意思を否定しようとしたものであるが、ルターは人々の内心における否定に重点をおき、カルヴァン(派)は行動に現れる部分の否定に重点をおいた結果、それぞれの説を強調するに至ったのだろう。
両者は、このように効果としては逆に見えるものを目指している(と考える)が、注意すべきは、義認説と予定説は並び立たないものでは決してないという点である。これは、カルヴァン派が、義認説も受け入れていることから明らかである。
《自由意思と神の恩寵》《義認説と予定説》で示した視点の違いは、法律論におけるいわゆる英米法と大陸法の違いとしても現れているように思う。
更新: | 00/11/18 |
初公開: | 2006年02月04日 16:32:56 |
最新版: | 2006年03月21日 20:49:25 |
2006-02-04 16:42:15 (JST) in キリスト教 神学・教学 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (1)
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