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2006年2月 4日 (土)

四諦:仏教教義の提案的解釈

煩悩を良心によらない自由意志、仏性をイデア、正見を理性、功徳を救いの確信とする。

仏教の問題は外の革新を求めて行動する意欲の少なさにある。もし、これを変えようとするならば、たとえば《四諦》を次のようにすれば良いのではないか。
(四諦に対する人為煩悩・仏性回向説)

苦諦
現世は苦である。人は前世での煩悩の咎めをうけるために、無常なこの世に煩悩の権化として生まれるのである。この世において、人の行いは常に煩悩の徴しとならざるを得ない。この世に生まれた者は釈迦といえどもこの因果に苦しまねばならない。

集諦
この世に生まれた人は誰であれ、功徳を積めば来世涅槃に生きられるが、困難なことに、功徳は煩悩の徴したる人の行いからしか生まれない。だから、ただ煩悩を捨てようと苦しんても無意味であり、その行為自体が煩悩の現れとなってしまう。

滅諦
結局、功徳は、他人への回向によって積むしかない。無常の世を超越した存在である自らの仏性からの回向であれば、自らの意志にかかわらず、他人の煩悩に自らの功徳の徴しが表れるはずである。そうやって得られる功徳は、回向の行いに徴された自らの煩悩に対してもなお余りあるほどのものとなる。

道諦
どんなに功徳を積んだところで他人にそれを渡すことはできないが、他人が回向するように導くことはできる。回向の方法は、人によって違うがすべての人に用意されており、それを人生の中から見つけることができるはずなのだ。しかし、仏性そのものではない人である間は、真の方法はただ煩悩に霞んで見えるのみである。



煩悩に対して否定的であっても、煩悩を無くそうという表現がないことに注意していただきたい。すべての行為は煩悩に基づくとし、煩悩に原罪としての意味を加えることで、煩悩を必要悪として解釈する余地を与えている。これにより革新に必要だが、仏教にはない必要悪の論理を提供する。


通常は、まず功徳を積んでそれを回向すべきと教えるが、それは、修行者だけが善をできるという論理になってしまう。これでは、普通の人に公共への参加意識や責任感は生まれない。

そうではなく、普通に生きる人間が救いを得られるように、功徳によって回向ができるのではなく、回向によって功徳が生まれるとし、回向を可能にするのは、すべての人が生まれながらにして心の奥底に持っている永遠の仏性であるとした。

そして、その仏性の証拠を自分の中に悟るのではなく、他人の行為(煩悩)に見いだすことで、キリスト教予定説と同じ効果を狙っている。


最後の段落は、免罪符を禁止し、すべての人に平等に涅槃へ行くチャンスがあると説くことで、輪廻転生説が持つ階級社会への肯定をなくそうとすると同時に、回向の方法が自分勝手にならないよう釘を差しているのである。


そして、実は意図的に無視したことがらが一つある。それは従来の宗教が持つべきとされた布教組織への求心力である。布教組織は優秀な人材の輩出には有用であるかもしれないが、排他性を生むというデメリットもある。出版の時代に現れたプロテスタントの組織がカトリックに比べれば弱いのと同様に、インターネット時代にはさらに宗教組織そのものに「強さ」は必要なくなるとの判断があるから、それ無視したのである。

この人為煩悩説は、必要悪を強調しすぎているという見方もあろう。結局は、功徳に対する正見を重視する立場などがあらわれて、信じている人間の間でも説の効力が薄れていくかもしれないが、私は、釈迦ではないので、この程度の教説を組むので手一杯である。


追記 (2007-12-21)


題の一部の「仏教への教義」というのはあまりにも不遜で、変更すべきではないかという思いが強くなったが、思い留まった。「教」えるという言葉が持つ「上から目線」が気になったのである。

元は「仏教の教義」として私的にメモしていたものを公開するにあたり、これは「教義」そのものではないと自覚し、「の」の前にとりあえず「へ」を付けたためこうなった。「教義」の意味として「教理」と違って広く認められたもののみとする遣い方もあるようだが、そこまでの意味をこめたつもりは私にはない。

本稿は客観的にみれば極私的な一解釈の提案ではある。しかし「教義」を「提案」と替えたところで相手が原始仏教の要諦である以上不遜であることにに違いはなく、また、私としてはこれはこういう意「義」だというポジションをとって他の言葉を説明しようと思っているのも動かしたくない。何より本稿の「若さ」を私はそのままにしておきたいと思っている。それは新宗教を創る態度だといわれれば、思いついた者で終ることを述べているだけで新たな組織を作るつもりはないとしか言い返すことはできないが、もちろん、その意図はない。

「この時代に仏教に関心を持ってわざわざこのサイトに辿り着いた者へ向けて説く私自らの論の礎となる議論」というのをだいたい約め、注意をエキセントリックに惹こうと「仏教への教義」と述べていると考えていただきたい。


追記 (2020-07-17)


題を「仏教への教義:四諦の独自解釈」から「四諦:仏教教義の提案的解釈」に改めた。ずっと不遜なのが気になっていた。仏教教典を乱読しているのを良い機会として、少しマシな題に改めた。しかし私ごときが「提案」している時点で不遜であることに変わりはない。
更新: 00/12/22,01/01/01,01/01/09,2007-12-21,2007-12-30,2020-07-17
初公開: 2006年02月04日 16:35:41
最新版: 2020年07月17日 01:35:48

2006-02-04 16:35:41 (JST) in はじめにお読みください 仏教 神学・教学 | | コメント (3) | トラックバック (1)

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受信: 2009-02-17 12:22:08 (JST)

コメント

更新:「追記」をした。かなり初期のものなので大きく手を入れようかと思ったがやめ、wikipediaへのリンクを足してリスト項目名(「苦諦」など)を付けた以外は、追記にとどめた。

投稿: JRF | 2007-12-21 23:18:14 (JST)

更新:「追記」の部分に「が、もちろん、その意図はない」を足した。これがないとその意図があるかのように思われるかもしれないことに気付いたため。

投稿: JRF | 2007-12-30 22:57:54 (JST)

更新: 題を改めた。

投稿: JRF | 2020-07-17 01:37:28 (JST)

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