神は至善か、暴君か
神はどのような人間にも平等に接し、自由に選択する人間一人一人に最良の結果をもたらすよう努力して下さるのか、はたまた、神は己れの栄光のみのために、または、人間全体として最良の結果になるように、人を動かすのであって、人はその予定に従うだけであるのか。
前者に対する一般的な疑問は、なぜ生まれながらにして差がついているのかであり、その解答は、差がついたのは先祖などの自由な選択の結果であるとする。この考え方では、神は全能なはずなのに自由な選択に介入しないのはなぜかという疑義が生じるが、それは、神が人の模範として、自らを律して、自然法則を守っているからだ(人の自主性を好むからだ)と説明する。この見解では、神の未来に対する全知性は軽視されることになる。
後者に対する一般的な疑問は、なぜ神が人間に(だけ)善悪を判断する理性をさずけたかであり、その解答は、神の栄光を知るためであるとする。これには、はじめから、神の栄光を知らせておけば良いという反論が可能となるが、それは、無限を生きる(時間を超越した)神にとっては、復活する(少数の)人間には、現世においてすでに知らせたことになるからだ(そのような知る過程の創造を好むからだ)と説明する。この見解では、神の個々人の救いについての全能性は軽視されることになる。
この二つの見方は、人の支配の理想像をどのように判断するかに大きな影響を与える。後者は、かなり暴君的に聞こえるかもしれないが、神にとっての法である自然法則は常に守られており、その顕現は預言者を通してなされるところから、一度法をつくれば、君主は法を守り続けねばならず、意見の表明には定められた仲介者が必要で、それができないものは君主ではない、という解釈も可能となるのである。
ただ、そうはいっても誤解の可能性が大きく、聖書に定められた動物や女性に対する「支配」が過酷となり、安易に必要悪を認めてしまうといった問題はある。(殺したり傷付けたりしてはいけないが、女を利用しても良いといった具合いに。)
前者の未来に対する全知性は、どれになるかはわからないが、無数の未来の可能性をすべて知っているという意味、または、未来の大まかな計画を知っているという意味での全知性であり、後者のは、未来はすでにただ一つに決まっており、それを知っているという意味での全知性である。
前者の救いに対する全能性は、現在でもすべての人々を救うことができるという意味であり、後者のは、創造の以前であれば救えた(または神の翻意でなす再創造による救いの可能性は神すら知らない)という意味である。
むろん、神はどちらかでしかないと解釈しなければ矛盾するが、どちらかであると確定できるような啓示がないことには意味があるという考えもできる。
上のような理解はユークリッド的に四次元を見る考え方かもしれない。実際には神は人が見ようとしている部分をつくり、人が同時と思っていることも同時には作っていないという解釈もありうる。この場合は、未来の一部だけを先に作り、人々が知ろうとする未来はすべて知っているといった解釈もできる。ただ、このような説明では、全能性も全知性も人から見た相対的なものに留まるように感じられるだろう。
このような問題は、聖書論では、安息日についてどう考えるかに現れる。蛇は安息日に行動したのか。それとも、人を楽園から追い出してからが安息日になったのであり、人が安息日にも人助けをするように、神も通常は休んでいて、よほどのことがあれば行動すると解釈するのか、といった具合である。
更新: | 01/02/06,01/02/08,01/07/02,01/07/15,06/02/04 |
初公開: | 2006年02月04日 16:49:41 |
2006-02-04 16:49:41 (JST) in 神学・教学 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (2)
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