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2006年4月23日 (日)

『新約聖書』ひろい読み − たとえで説く理由

マルコ 04:01-04:20 (マタイ 13:01-13:23、ルカ 08:04-08:15 に対応)ではイエスが説教そのものをたとえたあと、弟子達に群集に説いているのはたとえであることと、なぜそうするかの理由を述べ、イエス自らがそのたとえを解説している。

04:01
イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。
04:02
イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。
04:03
「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。
04:04
蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。
04:05
ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。
04:06
しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
04:07
ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。
04:08
また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」
04:09
そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。
04:10
イエスがひとりになられたとき、十二人と一緒にイエスの周りにいた人たちとがたとえについて尋ねた。
04:11
そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。
04:12
それは、/『彼らが見るには見るが、認めず、/聞くには聞くが、理解できず、/こうして、立ち帰って赦されることがない』/ようになるためである。」

04:13
また、イエスは言われた。「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。
04:14
種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。
04:15
道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。
04:16
石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、
04:17
自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。
04:18
また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、
04:19
この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。
04:20
良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」

04:33
イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。
04:34
たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。


新共同訳 新約聖書略解』(以下『略解』)によると、これは元来「土地」である聴衆に力点を置いたものではなく、「種蒔く人」が宣教の苦労を甘受するように説いたものなのだそうだ。後の教会が、そのたとえに 4:14 以降の解釈を加えることで、選民思想的な言説になったという見解である。

宣教をしても、聞いた言葉を聞き流したり、その場では理解してもすぐに違う者のもとに付いたり、役に立てられなかったりする者がいる。土地たる群集はそういうものだから、すべての人が実を結ばなくても、「聞く耳」がある者に届いていればよい、という解釈なのだろう。

しかし、私には 04:14 からの解釈の前の文章の力点の置き方は、どう見ても「土地」を問題にしているとしか思えない。しかも、04:13 からすると、これは宣教のたとえというより、たとえすべてに関する原理的理解を表すもののはずである。


このたとえの前に預言の成就を目指す引用の一つに見える 04:12 を解釈しよう。マルコ 4:12 はイザヤ書 06:10 の言葉である。

06:08
そのとき、わたしは主の御声を聞いた。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」
06:09
主は言われた。「行け、この民に言うがよい
よく聞け、しかし理解するな
よく見よ、しかし悟るな、と。
06:10
この民の心をかたくなにし
耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく
その心で理解することなく
悔い改めていやされることのないために。」
06:11
わたしは言った。「主よ、いつまででしょうか。」主は答えられた。
「町々が崩れ去って、住む者もなく
家々には人影もなく
大地が荒廃して崩れ去るときまで。」


旧約聖書略解』では、これを神の怒りであり、すなわち「罰の宣告」であると考えているようだ。マルコ 04:12 で、弟子は「立ち返って赦され」ている。これを持って、「宣告された罰」の「とき」がすでに来たことの証しとしているのだろう。

私はそう解釈しない。この部分を預言の成就と考える解釈は支持できない。

イザヤ 06:09, 06:10 は、何かを人の業として理解したとしても、その理解は決して十分ではないこと、すなわち、神の業ではない人の業が存在しえないことを述べた「人々の傲慢への戒め」だと解釈する。

06:09 では同時に「よく聞き」「よく見る」ことも求めている。何かを、人の業として認識し、仕組みを理解して自分でもやってみようとすることは必要なことである。そして、当然のごとく失敗を重ねながら、かたくなに物事に当たり続け、より深く物事を理解することも必要なことである。

しかし、理解する努力をすることと、すでに完全に理解したと考えることでは、意味が違う。弟子達は人の業としても「わからない」部分があることを知っている。そして、イエスは、「立ち返る」ことのできる弟子達がそれを知っていることを、知っている。だから、イエスは説明をするのである。

「立ち返る」ことができるとは限らない「外の人々」の中には、弟子達と同じ理解をするものもいるには違いないが、難しい説明をしても、安易に神の業だと「理解」し、人の業として探求することがないものもいる。そして、一時、その場で話を聞くものがどちらに属するのかはわからない。だからイエスはたとえで話すのである。

この解釈については、「イエスは神だから「人の業」というのはおかしい」という意見もあるかもしれない。しかし、マタイからの引用になるが悪魔の誘惑に対し、人の業を続けたイエスが、神の奇跡を好んで提示したというのもおかしな解釈ではないだろうか。あくまで、神であったとしても、群集に対しては人の業としての奇跡を起こしたというのが、マルコに一貫した姿勢だと私は読んでいる。

06:10 の最後の行は、逆に「立ち返って赦され」うる(イザヤのような)民もいると解釈する。そのような者は「人の業」が「神の業」であることを知ることになるが、そうであるならば、その者が意味を伝えるとき厳しくあらねばならない。

私は、マルコ 4:12 の一節を「見るには見るが、人の業(としての神の業)だとは認めず、聞くには聞くが、自分が同じことをなせるほどにはその仕組みを理解できず、こうして立ち返って反省することで、理解を質すことができない。」というように解釈する。


注意すべきは、イザヤ 06:10 で「耳で聞くことなく」と書いているが、マルコ 04:09 ではイエスが「聞く耳のある者は聞きなさい」と述べていることである。むしろ、「聞く耳がある」と思っていない者にこそ、このたとえは戒めになるではないだろうか?

人々の中には自分のことを良い土地だと思う者もいる。「聞く耳」を持ち、良い土地として種を育てられること自体はすばらしいことである。そのような者は種蒔く人の一人としてこのたとえを聞けば良い。

人々の中には自分は良い土地ではないと思う者もいる。しかし、イエスのたとえを聞こうとした時点で、その者は良い土地だったのだ。そこにまかれた「種」が成長して「良い土地」という実をつけるようになる。

一つのたとえに赦しと戒めの両方が含まれていると私は解釈する。


教義そのものを「わかりやすく」説明してしまうと、その教義が固定化してしまい、後の言語や文脈においてその説明が別の意味をもってしまう可能性がある。はじめからたとえにしておけば、正しい解釈を求めようとして、人々は様々な可能性を考えるために、教義の固定化は起きにくい。「たとえで話す」のにはこのような理由もあるのかもしれない。

例は時代の文脈で読まれるべきことが明白であるため、後の時代に伝えられたときも、時代性を意識するので意味の間違いが逆に少なくなる。だからと言ってその時代の「正しい解釈」の必要性が失われることもない。時代によって変質したとしても「正しい解釈」を継いでいく者は必要である。

しかし、すべての人が「正しい解釈」を持たなければならないとするのは間違いが起きやすい。たとえを語る者は「種蒔く人」のごとき粗雑さを持つべきなのだろう。



「種蒔く人」の重要な論点である「どうして「種蒔く人」は、「良い土地」以外にも種を蒔いたのか」という問いには『略解』は、それを当時の粗雑な農業の習慣によって、たまたまそのようなことがあったと解く。

しかし、茨が隣接する場所に種を蒔いて「しまう」ことがあるだろうか。やはり、そこに恣意性があると考えるべきではないか。

一部のキリスト教徒にとっては「種蒔く人」を「神」と解釈するのに抵抗はないだろう。その解釈からは、「良い土地」以外に種を蒔いたのは、「種」を生かす自由は「悪い土地」にも残されていたことを示すため、ということになるのだろう。

すべての人が「選ばれた」弟子達のような時間の使い方をできるわけではない。すべての人に、神学的な理論を言葉で伝えようとするのは、茨の中に種を蒔くようなものである。分業するために、たとえで話すというマキアベリ的な解釈も可能である。

そのような人々は、自分は良い土地で、他人は道端や砂利や茨の中だと思うだろう。良い土地だと自認する人は、たとえから一つの解釈を得るだけではなく、様々な教訓を引き出そうとするであろう。

茨の中にあるとは、私のような人間のことをいうのだろう。その点に関しては耳が痛い。

そこで納得してはおもしろくないので、悪い土地たる私は、そのような人々に反論を試みよう。

このたとえは、基本的には、どういうつまづきかたがあるかを教え、それを注意するように間接的に呼び掛けている。ある人が、かりに道端や砂利や茨の中のような境遇にあるからといって、実をつけられないと語っているわけではない。

「種蒔く人」にとって、悪い土地に落ちた種はあきらめるべき種である。「種蒔く人」はそれを気にやむ必要はない。しかし、「土地」にとっては、自分が「悪い土地」だからといってあきらめる必要はない。

人は良い土地たろうとすべきだが、そうなれないこともある。「悪い土地」で種が実をつけても、それは30倍や60倍といったものではないかもしれないが、それはそれで意味のあることである。

たとえで書けば下のリンクのようになる。

更新: 01/05/31,01/06/14,01/08/18, 2006-04-23
初公開: 2006年04月23日 17:09:04
最新版: 2006年04月24日 00:36:54

2006-04-23 17:06:58 (JST) in 新約聖書ひろい読み, 旧約聖書ひろい読み | | コメント (0) | トラックバック (0)

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