生物の本質は遺伝子であり、あとは属性または環境要因に過ぎないのだろうか?または、もっと過激に、生物とは遺伝子の入れ物に過ぎないのだろうか?
このような問いをたてられれば、素朴な進化論者であっても、「後天的獲得形質」を小さく見積り過ぎだと怒ることだろう。
しかし、子供達が学生生活という限られた時間で、進化論からうける印象は、遺伝子という「本質」があって、その「本質」に基づいて「生存競争」がなされており、その勝者として人間がいるというものだろう。
その後、その先生や別の先生からの薫陶によって、人間自身は進化のくびきからはずれていると教えられるか、今はもっと社会的に生存競争をしていると教えられ、進化論を自己認識に結びつけることとのバランスがとられているはずである。
そのような配慮を必要とする素朴進化論は、私には、近代の科学に散見される、「環境」に都合の悪いことをすべておしこむやりかたに思える。
バスケットボールやバレーボールの選手は背が高い。背が高い者がそれらの選手になったという面ももちろんあるが、そういった何人かは、それらの競技をはじめたあと、急激に背が伸びている。……あなた自身が成長する過程でそのようなことを目撃したことはなかっただろうか。
一方、それらの競技をしても背がたいして伸びない者が確かにいたことも覚えているだろう。練習方法にたいした違いがあったとは思われないのに。
難しく言えば、先天的な違いにより後天的獲得形質(背の高さ)が異なったとしか思えないことが起きていたのである。
ここで重要なことがある。その先天的な違いによる後天的な差異は、そのような競技の練習で、差異を発現させる努力をしなければ見つからなかったということだ。
そのような形質の発現を見るまで、彼と我にどれほどの差があり得ただろう?
「突然変異」という言葉がある。高い背丈を発現した彼が「突然」に現れたというのだろうか?冗談じゃない。変異はもともと一般的なもので、我々が思っている以上に、我々にはそもそもの差異があるのではないだろうか?
しかし、通常、そんなにおかしな人を見る機会は少ない。
それはそのような発現をするにはある程度の努力が必要だったり、逆に他の人と同じような発現をするのに必要な努力が可能なレベルであることが多いため、 平均への回帰によって健常な人が多く見えるだけではないだろうか?
努力が無意味なほどの先天性もあるだろうが、我々の「突然」変異の中には後天的に特殊な訓練を経なければ発現しにくいものがある。
配偶者となろうとするものは、顔の形など先天的なものだけ見て相手を選ぶわけではない。だが、中には、顔の形を求めるような者もいて、そういう相手に好まれるには、どういう後天的努力をすればいいのだろうか。
ある者にとって理想的な姿というのがわからなければ、後天的にそうなることができる者も、そうなるよう努力することはできない。配偶者候補が抱くイメージが努力の方向に決定的に重要になる。
だが、実際好まれる者は、そのイメージに完全に適合する必要はない。そして、好む側が持つイメージ自体も、完全に定まったものとは限らない。
現在でも、優勢な形質がなくても、じょじょにできつつある後天的形質の予想図から遺伝子の交配を決める、すなわち結婚することはありえる。
証券取引にたとえれば、現在の株価は低くても、その仕事ぶりなどから将来の配当予想を高く見つもり株式を購入することはある。
その場合生きるか死ぬかという「生存競争」とは別の部分で、配偶の順序が決まる。人の結婚ならばあたり前のことではある。
私はいわゆる創造論者と同じく、あまりにも競争に偏った素朴な進化論の説明は弱められるべきだと考える。だからと言って、高度な知的計画や聖書に書かれたような創造がなされたと主張するつもりはない。
そうではなく、これまで環境要因や生物の成長にとって「後天的」とみなされていたものを一つを、遺伝子に対抗できるぐらい大きな軸に据えることで、「適者生存」の競争主義的印象を弱めようとするものである。
私は主張する。進化はイメージに強い影響をうけて遺伝子の選択が行われる、と。「イメージ」という要因を「環境」というくびきから解き放つことによって、進化論の持つ一元論的性質をやわらげたい。
キーワードはイメージによる進化であり、狙いは安易な本質論には別の本質を立てて対抗するという弁論術である。「生物とは遺伝子の入れ物に過ぎない」というレトリックが許されるなら、このようなレトリックの建て方も許されねばならない。
遺伝子は、かなり下等な生き物でも持っているため、そのような生物からボトムアップに議論を積み上げていくことができる。
しかし、イメージそのものは、かなり高等な動物しか持っているとは見なされにくい。よって、議論はトップダウンにしか行えず、下等生物に関しては「イメージ」に該当するものを何か(反応の見られる環境要因など)を考えねばならなくなる。
イメージを参考にできるのは「高等生物」に限られるように思える。しかし、遺伝子のような単純な仕組みを「高等生物」にまで適応させたのとは逆に「イメージの参考」を「下等生物」にまで拡張するよう試みるのだ。
まずは高等生物、人間から「イメージによる進化」というものを考えたい。
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教育にとって厳しすぎる「自然淘汰」と「適者生存」を言い換える
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これまで教育を受けた一人の実感として、「自然淘汰」にはどんなことも自己責任で不本意な結果を受け容れねばならないという印象が、「適者生存」には共調の入る余地がなく、それが「突然変異」とあいまって、勝者は必然であるとの印象を受ける。
もちろん、それ以外の教育も受けるので、それだけがすべてでないことはわかるが、進化は「人間」のあり方そのものの学問であり、単に生物学だけでなく「道徳」の色彩を帯びるのはやむをえない以上、先のような印象で終らせることが良いこととは私には思えない。
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そこで私は、これまでの主張にともない、次のように進化の原理を言い換えたい。
自然変異 |
乱数的な遺伝子変異の自然獲得。外見には発現しにくいような変異は、我々がこれまで思っていた以上に起こっていて、一世代だけでなく何世代にもわたってそのような変異が蓄積されている。
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適者選択 |
後天的発現による適者選択。自分がそうありたい、またはそう思われたい、というイメージを何らかの方法で獲得すると、そうありたいという努力が、これまで発現しなかったような特徴を外見に表示させる。またはそのような努力が一つのイメージになる。それがそのイメージ(に近いもの)を持った配偶者候補にアピールする。
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健常回帰 |
多くの形質は発現せず、ほぼ、ただ自分から見て健常であることを発現の条件としがちである。そのため、平均への回帰が起き、数が多ければ多いほど、特殊な外見(的イメージ)をもたらす遺伝子は、矯正されるなどして発現しにくくなっていく。
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自由枯渇 |
環境変化や新たな種の登場で、その種に十分な変異が蓄積されていない場合、または、その種にとってあまりにも難しすぎる形質が必要となった場合、その種そのものが終えることもありえる。(種の自由度を使い果たしついには枯渇する。)
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域内生殖 |
生態系を壊して自滅しない程度に、または、自由枯渇の原因に反応し対抗するため、種を増加させる。しかし、主に人為的で根本的な変化がある場合は、増加の必要性に反応しないか、または、増加を不十分にしかできないことがある。
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選択慣性 |
保守性の発揮や自然変異による選択慣性。くじゃくの羽のように、そこまで大きくキレイにする必要のない物が、過去のくじゃく社会の経験または、メスの美的感覚の発現により、より特定のイメージが選択されやすくなる。昔は意味(力)があったものが、なくなるか過度になってからも、そのようなイメージが持続する。
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形質重畳 |
必要な形質は、自然変異によって失われないように、くり返し、または、両性的な遺伝形質の重ね合わせが起こる。これにより、遺伝的な淘汰に対抗する。
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以上で特徴的なのは、選択慣性と形質重畳である。
選択慣性には過去の自然変異の蓄積により、適者選択のみで跳躍的に進化する場合と、すでに適者選択は十分になされた結果、次の偶然の自然変異を待たねばならない場合の二種があるだろう。
『
遺伝子と運命』(p.313)によれば、遺伝子変異によって好きな環境が異るようになり、その環境が人に作用することで個性が作られることがあるそうだ。そのため、環境により個性が作られるというよりも、遺伝子が環境に作用し、個性に作用することで、遺伝子が個性に強く影響しているともいえるらしい。
私の立場から言えば、そのような遺伝子がその者の中にあるということが環境要因といえるが、これは人には選択慣性のようなものがあるということの証左といえよう。
形質重畳が不十分だと、ウィルスに冒されたりして形質が発現しにくくなったり、必要を思われているのに子供にその遺伝子が伝わらなくなる。形質の重畳があるということは、連立的に作用したり、選択的に作用したりすることもあるだろう
自然変異と選択慣性は、外部からは合理性を判断できない、くり返し、または世代の成長があることを暗示する。
子供が男であれば発現し、女であれば発現しないような形質もありえるだろう。ライオンやクジャクがそうであるように。そのようにイメージを保った結果そういう種が現れることもあるだろう。
なお、ラマルクの獲得形質説との違いは、ラマルクは「後天的に遺伝情報を獲得する」という主張に対し、私の主張は「遺伝情報の中には後天的に特殊なイメージをもってトレーニングしないと発現しないものがあり、それによって配偶者などがその遺伝情報が獲得済であったことを知る」というものである。
背の高い男と、背の低い女が結婚して、統計をとると以前とあまりかわらず、だいたい背の中くらいの子供が産まれる。
健常回帰は、まず個体の成長の際に他の個体と大きく異ならないように発達することによって、次に配偶者の決定の際に目立たない差異がランダムに組み合わさることによって起こる。いってみれば、二重に平均へと回帰するのだ。
上の選択慣性は、このような「平均への回帰」だけでなく、男なら背が高く、女なら背が低く生まれるような形質の伝えかたも(もちろんその逆も)可能とするものである。
『
遺伝子と運命』の主張とは違うが、遺伝子以外はすべて「環境」であるという主張は、「本質」はそれ以外の「属性」からなるべきだとする西洋哲学の特殊な変形で、「遺伝子」を
崇拝する特殊な学派の意見にすぎないのではないかという批判ができる。
結局、「遺伝子」はギリシア人達が考えた特定の「本質」と同じで、それが、同じようなものの中では相対的に重要であるだけであり、より広い視点からすると、ある場合には遺伝子よりもより重要性の高い「本質」がありえるというのと変わらない。
例えば、宗教家が「本質」的なイメージがあると主張し、それが「遺伝子」よりも重要だと言っても、反駁できないのではないか。
「共通項」を辿っていけば「本質」に行きつくと考えるならば「遺伝子」は「本質」の候補になりえるが、その意味における「本質」は、それを持つものと持たないものを分けるだけのものでしかない。本来的な意味で「本質」なのではなく、「共通項」でしかないなら、そこから除去されてしまう「属性」には本来無関係である。その場合、関係を構築しなおさなければならず、むしろその関係のほうが重要とみなされることになる。
一般的な生物の「発生過程」という「共通項」の中で、「遺伝子」が中心的役割を担っているといっても、それは、生物の中で人を区別するための人にとっての「共通項」でしかなく、そこで重要なのは「発生過程」のメカニズムであるという見方が普通だろう。それがなければ人にはならないとしても、人の遺伝子を含むものがすべて人であるとは限らない。
少なくとも「西洋哲学」が求める「本質」は「遺伝子」そのものではない。
ニワトリが先か卵が先か、という議論がある。私の解答は「ニワトリの概念が先だ」というものである。
もちろん、人間がニワトリという種を認識していなければ問いそのものが生まれないが、そういうことを述べたいのではない。
「卵が先」と考える場合、ニワトリの親は違いの姿などから次に生まれるものがニワトリのような姿になることをイメージに持ってつがっただろうということである。
「ニワトリが先」と考える場合、夫婦は同じニワトリだという認識のもとつがったのであるから、その卵がどういうものであれニワトリの卵であろう。
おそらく、そもそも「ニワトリモドキの種」という系があり、その中で親も卵もニワトリだという認識のもと「ニワトリの種」というものが除々に確立していくのではないだろうか。
選択慣性は盲腸のようなものかもしれないし、二つ目の腎臓のようなものかもしれない。あるときそれでうまくいくことがあったという歴史のアーカイブのようなものかもしれないし、他のくじゃくの群を逃がすためにより目立つことを優先させた保険のような存在かもしれない。
植物のような被食生物もよりよいイメージとなるよう、食べる側のイメージにあうよう進化しているし、今は人為的に進化させられている。
選択慣性における単性生物の妻は「環境」ではないか?特定の環境を強制することが彼らがうけとるイメージとなるだろう。環境から受け取ったイメージにより、つがうべき理想像がかわる。妻がそもそも持っている成分に対応できる「感性」をしばらくその成分が見つからなくなっても持ちつづける。
ただ、そうとはいえ、私は人間以外の生物についてこう考えたが、「イメージによる進化」という言葉から、もっと違う「イメージ」や「感性」を定義できるかを考えて欲しい。
「イメージによる進化説」も進化すべきものであり、私の描いたイメージも淘汰されより、すばらしい説の登場で忘れさられるか、風化して誰かのイメージのタネになれるのならうれしい。
(まぁ、これまでのアクセス数から考えると、ほとんど見向きもされないのですが。orz)
男女の理想形が違うというのも大きいだろう。しかし、哺乳類の種には、ハチなどと違って群の役割によって最適化される種というものはない。肉体的には男女の役割分担で十分なのかもしれない。
逆に人だけにあるものを考えてみるのもおもしろい。人には個体の選好だけでなく、社会の選好があり、自分が好むイメージ以外のイメージの必要性を認識できるからである
通常、後天的形質は「イメージ」にあうものだけが発現の機会を多く与えられ、多くの個体のイメージの要求に答えるため、多くの個体が平均値に集約してしまう(健常回帰)。その結果、食物連鎖を維持できていて「安全」さのイメージを確立した生物は、大きく違った種の可能性を摘んでしまいがちになる。
しかし、ひとたび危機が起こり、一つの個体にイメージを作用できる個体数が少なくなると、偏ったイメージに沿う変化が連続的に、(イメージの分割的保存があった場合は、複数の場所でも?)起こるようになる。
このとき、個体数がそれまでにくらべれば大きく減少し、その場所が限られているため、化石などによって証拠が残る確率はあまりにも小さくなってしまう。さらに危機を生き残ったということは、大きな集落を形成せずに、ある程度の安全性も確保しようとしているはずであるため、もう一段階の危機を避けようとし、危機により現れた化石となりやすい奇跡的な状況を離脱している可能性が高いのではないか。
ミッシングリンクは、イメージにあった自然変異体が個体数の減少により健常回帰を起こさないため、安定した多数いる種として発掘されにくくなるため起こると考える。
淘汰がおきそうになるほどの変動は様々である。地球規模の環境異変や、洪水やそれに続く疫病の蔓延、気候の僅かな変動や地震等によるこれまでにない生物(ウィルスかもしれない)の移動。などなど。
淘汰から逃れるには、別の生態系への移行のため、新しい生態系で生きるイメージを持つものが、通常よりも種を残しやすくするか、現生態系で別の役のイメージを見つけ、そのイメージにあう交配をしていくしかない。
しかし、それが恐竜絶滅時のようなはげしい環境変化にある場合は、体を小さくするか、個体数を減らして、捕食量を減らすしかない。もし、その変化がすぐにでも回復するものであった場合は、個体数を減らすという選択をした生態系が復活することもありえるが、すぐに回復しない場合は、体を小さくして、自然変異をためて、より大きく力強く生き残れるよう進化の過程をくり返さなければならない。
種の同一性を保ったまま、自然変異を増やし、目的となる形質ができれば、その因子のイメージを保ったまま伝え、その因子の安全性を確かめつつ、別の方法でその形質にたどりついたものと交配し、種としての安定性を得る。そうしてその形質を持ったまま大きくなっても、淘汰されないようしなければならない。
ただ、そこまで複雑なプログラムを意図して実行できるものはあるはずもなく、このようなプログラムで偶然、淘汰を逃れたのは恐竜絶滅時の哺乳類ぐらいだろう。
選択慣性に選ばれたイメージは、何らかの妄想や幻影などの自然のイタズラ=偶然であることもありえる。それで神が与えるのには十分だという者もあれば、もっと具体的なイメージを与えたはずだと考える者もいるかもしれない。
私は両者を否定したくない。そこを敢えて問うよりも、いつか急進的な遺伝子本質論が現れたときに、それに対抗するためには、ある程度のあいまいさを残した議論で多様性を残して、玉砕を逃れると同時に、逆にこちらの議論が本質視されず、議論の対抗概念に留めるためにも、誰がどのようにイメージを与えたかという問題はオープンのままにしておきたい。
イメージがどのように受けつがれ「慣性」となるかという問題もオープンにしておきたい。遺伝的感性があるかないか、環境や学習、エサやウィルス等後天的獲得物がどこまで影響するかというのはわからないとしておこう。
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創造論と進化論の対立などにについて (2006-06-12)
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実はずいぶん以前からこの記事を書きためていました。進化論と創造論の溝は深いようで、資料があまりにもたくさんあり、ほとんど読めていません。ダーウィンの『
種の起源』すら流し読み程度なのに、この記事を公表するのには躊躇を覚えましたが、読むのにさらに時間がかかり、別の書きたい記事に時間をまわせなくなりそうなので、今公表することとしました。知的に充分でない点はご勘弁いただいたい。
ご批判をいただけるならとてもうれしい。「すでに誰かが書いてたよ」というご指摘をいただけならなおありがたいです。勝手なお願いで恐縮ですが、ご助力をいただければと存じます。
このアイデアは ID 論とは違うはずです。ID 論がトマス・アクィナス的ならば、このアイデアはヨハネス・ドゥンス・スコトゥス的なものになるのでしょうか?ID 論と違って、従来の進化論(総合説)の枠内に留まるものと私自身は考えています。
しかし、何より、ID 論などと違って、私の議論と進化論が「矛盾し対立する」という昔からある単元論や進化論 fanboy 的考えはとってはいないことだけは主張しておきたいです。
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イメージによる進化論の深化 (2006-05-02, 2006-05-14, 2006-06-12)
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大学時代にミッシングリンクに関する先輩との議論がまずあり、ギリシャ正教の像・似像論にヒントを得て創造論とは独立に着想し、スコトゥス的な自由意思説とてらしあわせながら、宗教改革者達の意見を参考にブラッシュアップしました。
途中精神分裂病となり、その退院後、ID論に関するニュースで創造論と出会って、私が考えてきたこととと同じ物ではないかと思いましたが、調べていくうちに、「ID論」が「神の恩寵」説に対応し、「イメージによる進化」が「自由意志」説に対応するものではないか、と考えるようになりました。
ただし、イメージによる進化は基本的にはダーウィンにはじまる進化論の枠内に留まるものだと私は考えています。
ただ、正直に書くと「選択慣性」の考え方はかなり欺瞞があるように私自身も思っています。
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参考 (もう読んだもの)
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『 遺伝子と運命』(Peter Little, 美宅 成樹 訳, ブルーバックス, 2004年,orig 2002年, 遺伝子本質論に近い入門書)
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『 新版・図説 種の起源』(チャールズ ダーウィン 著, リャード リーキー編, 吉岡 晶子 訳, 東京書籍, 1997年, 進化論原著第六版とリチャード・リーキーのわかりやすい現代進化論の概説)
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なお、ダーウィン自身は自然淘汰が進化において主たるものという考えは持っていたとしても、それ以外の原理がないと考えていたのではなく、第六版においてダーウィンは特に雌雄選択については自然淘汰とは別の原理があるかもしれないと考えていたようです。第6章において、美しい雄を雌が選択するというような表現がありました。ここでいう「美しさ」には人から見ると力強さだったり滑稽さだったりするものが含まれているのでしょう。
11月12日の日本経済新聞の朝刊31面のサイエンス面に性淘汰と精子選択の話が載っており、恥ずかしながらそこではじめて両言葉に気付きました。
「性淘汰」という言葉は、実際にはあまり厳しくないのに「淘汰」という点が気になります。かといって「性選択」というと主体がはっきりしすぎ、私が主張したいランダム性を軽んじるように感じられます。
「イメージによる進化」の枠組は強く性淘汰と関係しており、ほとんど同じものを含んでいるのかもしれませんが、より機械論的になっていると思います。 (でも、機械論といえるほど明解ではないですが。)
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参考 (持ってるけどまだちゃんと読んでないもの)
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『 分子進化の中立説』(木村 資生, 紀伊國屋書店, 1986年, 進化論総合説……とも少し違うよう。上の自然変異に似た考え。)
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リンク集
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私の創世記 1 章から 3 章までの理解など
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コメント
更新:幻影随想へのリンクを足した。
投稿: JRF | 2006-06-23 02:22:13 (JST)
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私は始原を問うことの重要さは認めますが、オープンな問題とできるものをそれほど早々と答えを出すのは好みではありません。地球規模の「大実験」の結果が有効なものでありえるのか私にはわからないというのが、現在の立場です。
ただし、創世記を読む私の印象でみる限り、神が生命のこまかいデザインをやっている姿を想像できません。大まかに指示を出す神が職人的天使を使って生命を生んだんでしょうか?グノーシスでもあるまいし、聖書の人間的な至高神の下に創造神がいるとでもいうのでしょうか?
私は ID 論者が話す創造神話にはあまりにも自由の力とそれへの神の信頼がないように思えてなりません。
まぁ、異教徒のたわいもないグチです。
投稿: JRF | 2006-06-28 16:16:23 (JST)
更新:主に「二重の「平均への回帰」」の節を足した。
投稿: JRF | 2006-09-25 17:25:22 (JST)
更新:《Wikipedia:性淘汰》へのリンクを足し、それに対する意見を書き足した。
投稿: JRF | 2006-11-17 22:24:18 (JST)
投稿: JRF | 2009-01-24 17:25:56 (JST)