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2006年2月 4日 (土)

『創世記』ひろい読み --- バベルの塔

バベルの塔のエピソードの歴史的解釈とともに、精神分裂症時の妄想を紹介する。

11:01
世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。

11:02
東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。

11:03
彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。

11:04
彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。

11:05
主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、

11:06
言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。

11:07
我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」

11:08
主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。

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2006-02-04 17:13:17 (JST) in 旧約聖書ひろい読み | | コメント (0) | トラックバック (2)

タナトス(Thanatos)

統合失調症あるいは精神分裂病』(計見一雄, 講談社選書メチエ, 2004/12/10) によると、フロイトは「人間の最も基本的な衝動とは何か」という問いに eros (生の本能、libido) と thanatos (死の本能) と答えたという。これについて、著者は、発達心理学では thanatos ではなく aggression だという。ハルトマンが言いはじめたそうだ。

しかし、私はやはり thanatos でいいのではないかと思う。自己と同じであるにもかかわらず、自己と違うものを消去しようとする garbage collection のような単一化欲求こそ thanatos ではないか。

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2006-02-04 16:53:32 (JST) in 仏教, 心理学 | | コメント (3) | トラックバック (0)

錬金術

金は、希少であるが、化学的に安定し比重が重いため分離が容易であり、ほとんど錆びず、人が加工しようと思えば石器でも加工できるわりに、多少の衝撃でも形が崩れない程度の硬さはある。

しかし、これらの特徴は農業生産にも武器にも適さない。金は、近年になって導電率の良さが着目されるまで、決して実用的な金属ではなかった。

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2006-02-04 16:52:38 (JST) in 経済的動機付け | | コメント (0) | トラックバック (0)

魂の座

意志の働きが、脳の動きによって説明できるようになった場合、霊魂がどのように意志を持つかが問題となる。次のようなモデルが考えられるだろう。

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2006-02-04 16:51:34 (JST) in 神学・教学 | | コメント (1) | トラックバック (1)

神の全知性

全知性を強調して四次元上の全知性しか考えないことは、神が予測し得ない決定を行える者を神が「創造しえない」と考えていることを意味する。すなわち神の全能性に疑問を呈しているのである。もちろん、そのような創造をできるとした場合は、神の全知性は過去の事実と将来の可能性の認識や大まかな計画に限られることになる。

全知性を強調すると、創る苦しみはあるかもしれないが、人にわかる間違いがあると考えることは難しくなる。この立場における自由意思は、人間は自由意思があると認識するのみで、実際にはないということになる。

全能性を強調する立場のほうが、いろいろバリエーションを考えることができる。

グノーシスでは、全能の創造神、全知の至高神といった解釈になるのだろう。
更新: 01/07/14
初公開: 2006年02月04日 16:50:46

2006-02-04 16:50:46 (JST) in 神学・教学 | | コメント (0) | トラックバック (0)

神は至善か、暴君か

神はどのような人間にも平等に接し、自由に選択する人間一人一人に最良の結果をもたらすよう努力して下さるのか、はたまた、神は己れの栄光のみのために、または、人間全体として最良の結果になるように、人を動かすのであって、人はその予定に従うだけであるのか。

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2006-02-04 16:49:41 (JST) in 神学・教学 | | コメント (0) | トラックバック (2)

義認説と予定説

信仰義認説は、「信仰のみによって、原罪ある人が罪なきもの、すなわち、義と認められる」というルターの唱えた説である。義認説の目的の一つは「良心」が傲慢さであることを常に意識させようというものであろう。

予定説は、「ある人が救われるかどうかは、人からみれば非合理的かもしれない神の永遠の営みの中に予定されている」というカルヴァンの説である。これは「神の恩寵」説をより具体的な方向に展開した解釈の一変形といえる。

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2006-02-04 16:42:15 (JST) in キリスト教, 神学・教学 | | コメント (0) | トラックバック (1)

仏教とキリスト教:教えの誠実さ

仏教は、信者が新たな真実を語る預言者、すなわち、ブッダになることは肯定したが、教えを神の責任とすることを禁じた。そして、信者は、自分が必ずしも信じていないものを信じよと説く「方便」を語ることができるが、その方便を使った効果については、自らの中に確信がなければならないとする。

一方、キリスト教は、神の名のもとに教えをただ信じることを求めるが、信者が新しい真実を語る新たな預言者になることを否定した。そして、信者は、預言者ではないがゆえに、自分の伝え聞いたものを確証する手段を持たないが、自分の信じているものとして教えを語ることができる。

一方から見れば、他方は無責任に映るが、一概にどちらが誠実だとは言い難い。

仏教徒には、仮に神がいるのだとしても、人に欲望と理性を与えた以上、自分達が人のためにすることが、本当に人のためになるのならば、結果的にそれは神の評価するところになるはずであり、逆に、神にこだわることで争いをするのは無益であるという考えがある。

キリスト教徒には、神がいるのにその栄光を無視することはできないはずであり、神が人に理性と欲望を与えた以上、現世的な利益を追求することに関しても、相応の解釈によって何らかの理由が導けるという考えがある。

信徒を「受益者」という視点でみれば両者の違いというものは、それほど大きくないのかもしれない。
更新: 01/02/08
初公開: 2006年02月04日 16:36:17

2006-02-04 16:36:17 (JST) in キリスト教, 仏教, 神学・教学 | | コメント (0) | トラックバック (0)

仏教への教義:四諦の独自解釈

煩悩を良心によらない自由意志、仏性をイデア、正見を理性、功徳を救いの確信とする。

仏教の問題は外の革新を求めて行動する意欲の少なさにある。もし、これを変えようとするならば、たとえば《四諦》を次のようにすれば良いのではないか。

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2006-02-04 16:35:41 (JST) in はじめにお読みください, 仏教, 神学・教学 | | コメント (2) | トラックバック (1)

仏教は無神論か

仏教は無神論であるといわれることがあるが、仏教は神や霊魂の存在を否定はしない。ただ、出家者は、神や霊魂の存在を必要条件として、儀式や道徳を導くことがないだけである。仏教の教義は、神がいようがいまいが、人々が究極的に求めるものとして設けられている。

出家者が神や霊魂を信じていてもかまわない。ただ、違う神を信じる出家者どうしが神のことを語りあえば、しばしば、より大切なことを見失いがちになる。そのような出家者にとっては、仏教の教義に基づくことこそ、そういったことを避けるための方便となる。仏教は、こうして、その土地に残る宗教と結び付き、発展してきたのである。

ただし、このような態度こそが、神をないがしろにするものであると考える宗教もある。もし、出家しようとするものが、そのような神を信じていたのならば、人々の幸せのために、敢えて外道に堕ちよと説かねばならない。一神教の信者にすれば、この点を指して無神論というのだろう。
更新: 01/02/09
初公開: 2006年02月04日 16:34:44

2006-02-04 16:34:44 (JST) in 仏教 | | コメント (0) | トラックバック (0)

神の前での平等

「神の前での平等」とは、「人の判断には限界があり、いかに優秀な人であろうと、そうでない人であろうと、神の全能さの前では平等であるから、人は人に対して謙虚でなければならない」という考えと解釈できる。

これは、「良い努力」と「良い結果」の「良さ」の判断を疑う、「神の恩寵」と「自由意思」に対する第三の価値観であると同時に、ほとんどの論争における第三の価値観と言えるだろう。ただし、あまりこれを強調すると、権威を認めないアナーキズムに陥ることになる。

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2006-02-04 16:32:19 (JST) in キリスト教, 神学・教学 | | コメント (0) | トラックバック (1)

自由意思と神の恩寵

神の恩寵の下で自由意思を認めるかどうかは、キリスト教圏では古くから論争となっており、現在でも決着をみていない難しい問題である。(ペラギウスとアウグスティヌスの論争)

ここでいう自由意思とは、「自らの良心に従った自由な判断とそれに基づく行為」を意味する。それに対する神の恩寵とは、「神がその慈愛によって、人の前に示した良い結果」を意味する。「自由意思」の自由は、神ではなく人にその決定を委ねられた判断や行為の自由のことである。その自由があるならば、(神の定めた範囲内かもしれないが)人の力で結果を変えうることになる。

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2006-02-04 16:31:19 (JST) in キリスト教, 神学・教学 | | コメント (0) | トラックバック (2)

教義の内発性と外部の影響

特定の宗教者が、ある教義が、外部の宗教の教義からの転用であることを認めず、あくまでも自分達の歴史的なバックボーンからの内発的なものであり、創始性があると主張することがある。

多くの場合、この宗教者の意見はある意味で正しい。つまり、そのような教義に目覚め、それを迫害の可能性がある中で強く主張しようとする人間は、やはりその人生から内発的にその教義をつくり出したという自負があるからこそ、迫害と戦えるのである。

しかし、一方、それが今日まで教義として受け継がれるためには、その教義が受け入れられる基盤というものがなければ、難しい。この受け入れる側の事情として外部の宗教の教義の影響があることは、大いに考えられることである。

ところで、その「外部の宗教」についても、それがそれまで受け入れられていた根本的な理由があるはずである。その理由をあげるならば、「外部の宗教」の影響ではなく、「内発的」だと言えるが、その理由は多くの場合、「教義」の内発性を主張する宗教にとっても「外部的」な要因となる。
更新: 01/02/05,01/02/21
初公開: 2006年02月04日 16:30:39

2006-02-04 16:30:39 (JST) in はじめにお読みください, 神学・教学 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年2月 1日 (水)

消費者の購買動機をモデル化する試み

顕示的消費の経済学』(Roger Mason)を読みながら、消費者が商品的価値以外の情報をどのようにして購買に結びつけるか、私なりのモデルを考えています。別のディレクトリに記事があります。→《「顕示的消費の経済学」を読んで
更新: 00/12/25,01/01/02,06/02/01
初公開: 2006年02月01日 03:25:16

2006-02-01 03:28:35 (JST) in 経済的動機付け | | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年1月30日 (月)

『新約聖書』ひろい読み --- イエスはサタンか

マルコ 3:20-30、マタイ 12:22-31、ルカ 11:14-23

03:22
エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。
03:23
そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。
03:24
国が内輪で争えば、その国は成り立たない。
03:25
家が内輪で争えば、その家は成り立たない。
03:26
同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。
03:27
また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。
03:28
はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。
03:29
しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」


ユダヤ教の神は決して奇跡で病気を治すような神ではなく、そのような「神」への信仰は、列王記下 1 章にあるようなバアル・ゼブブへの信仰であり、それは、自分から苦難を起こし、その苦難を解決することで自分への信仰を篤くしようとする「悪霊の頭」としての「神」への信仰であるというのが律法学者の主張である。

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2006-01-30 18:06:16 (JST) in 新約聖書ひろい読み | | コメント (1) | トラックバック (1)

2006年1月29日 (日)

『新約聖書』ひろい読み --- 豚に真珠

マタイの 7 章 は、「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。」ではじまる。その後に有名な格言がある。

07:06
神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。


マタイの中での関連章句は次の二つ。

13:45
また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。

15:26
イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、


これから考えて、豚は商人、小犬はヒモのように思える。

ただし、犬をエジプト神のアヌビス、豚を同じくセトと考えると、犬は異教の魔術師、豚はチンピラや異国の軍隊を指すのかもしれない。この解釈では、 07:06 は「異教を頼って人を呪ったり、賄賂で暴力を買って恨みを晴らしたりしてはならない」ということになろう。また、15:26 は単なるヒモではなく、異教の司祭への寄進を意味するのかもしれない。

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2006-01-29 01:35:49 (JST) in 新約聖書ひろい読み | | コメント (0) | トラックバック (0)

『創世記』ひろい読み − 神の像・似像

ギリシャ正教』によると、神は、「ほかの創造物と違い、命令の口調をとらないで、われわれの像と肖に似せて人を創ろう、と心の中で思う口調をとっている。」 (p.256)そうだ。

この部分は共同訳聖書の創世記では次のようになっている。

01:26
神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
01:27
神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。


英語(KJV)では

01:26
And God said, Let us make man in our image, after our likeness: and let them have dominion over the fish of the sea, and over the fowl of the air, and over the cattle, and over all the earth, and over every creeping thing that creepeth upon the earth.
01:27
So God created man in his [own] image, in the image of God created he him; male and female created he them.


私の訳は

01:26
神は言った。「我々は、人に我々(の存在)を想わせる映しをさせ、我々の(行いの)まねをさせよう。そして彼らに、海の魚と、空の鳥と、家畜と、地にあるすべてと、地の中から出て忍びよるものすべてを(神が支配するように)支配させよう。」
01:27
神は自らの映しになると想い人の創造を行った、神の想いの内では神が神の創造を行ったと映った。神は男と女を創っていた。


唯一神であるはずなのに、なぜ「我々」という言葉を使ったかが、論点となる。

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2006-01-29 00:10:10 (JST) in 旧約聖書ひろい読み | | コメント (0) | トラックバック (0)