悪の犠牲の「自動人形」にも救いあれ
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補足になるのでしょうか。間違っていれば指摘してください。
まず、「超越的な神」という条件は、人が勝手に悪をしているという解釈を封じるため、「人に神にとって自由な意志が存在しない」という条件も意味します。
次に、「神が慈悲深い」という条件は、悪や苦難が存在しないのは神にとってだけでなく、人々にとっても結局のところそうだということも意味します。神にとってのみ「神が慈悲深い」じゃほとんど意味がありません。
さらに「霊魂創造論」という条件は、大ざっぱにいうと、「転生がない」ということも意味します。
転生がある場合、今の犠牲的死がその霊にとって将来(死後)の報酬や過去(生まれる前)の埋め合わせとなりえます。この場合、自動人形であった必要はなくなり、自動人形は霊を導くためのゲームのNPCに近いものとみなせるでしょう。
「転生がある」の類型には、死後にチャンスがある場合も含まれます。例えば煉獄における行いで復活するか消滅するかが決まるというならそうです。また死後に知覚が変わるものも含まれます。霊になると人格が変わり、ある時期の幸せな記憶が特別強く感じられるようになるなどというのがそうです。
最後に「自動人形」があるという条件は、慈悲の対象となるものはすでに選ばれており、たとえ兄弟や同胞であっても自動人形であることがありえるというものです。さらに「自動人形」には霊がないので復活することがないことを意味します。
しかし、絶望のうちに死んだ兄弟を自動人形であると告げられたとき、それを創った神を慈悲深いと考えることができるでしょうか。復活するならまだしも消えてしまうのです。
私は Kumicit 氏の挙げた四つの条件には矛盾があるように思います。どこを否定するかは人によるでしょう。私は《救いの無力さ》という記事の中で2を強く肯定し、それ以外をあいまいにする問答を小咄として書きました。
また、Kumicit 氏は「自動人形が存在する」という前提を否定した論も展開し、神にとって
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と述べています。
神がこの世界を通じて成長しているならかけがえのないものとも言えますが、「超越的な神」いう条件はそうではないことを意味するのでしょう。私は先の《救いの無力さ》の追記の中では「成長」する神という方向で書いています。そして神にとっての時間があいまいなものとなるようにしたつもりです。
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死後の裁きから、審判する者の監視を導き、他者が見あたらないところでのモラルの維持をはかるというのは、よくやられることだと思います。もちろん、どういうモラルを守らせるかというのは、別の問題ではあります。
人が実際生き残ってきた歴史から考えると、聖書を信じることが、人を生き残らさせ倫理を造り社会を守ってきたという信念があるのでしょう。
そういう人々が、「仮説としての進化論」でも説明できるように神は(再)創造したと考え、進化論が広まったからには進化論だけでも十分に生き残れる社会になるのか、不安に思いつつ、見守っているという側面はあるのでしょうね。
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付録
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これは「「許される」って誰に?」ってツッコミを入れるべきところなのでしょうか?
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参考
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| 更新: | 2007-06-07 |
| 初公開: | 2007年06月08日 22:33:34 |
| 最新版: | 2007年06月08日 22:59:40 |
2007-06-08 22:33:27 (JST) in キリスト教, 神学・教学 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
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