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2009年2月17日 (火)

仏教への教義:十二縁起と八正道

仏陀のいいたかったこと』(田上太秀)を読んで、十二縁起(十二因縁)と八正道を自分なりの言葉で表してみた。引用はすべて同書からで、他書は引用の引用である。
十二縁起


十二縁起とは、生・老・病・死の四苦の生起する過程を十二の縁(条件)、すなわち、無明・行・識・名色・六処・触・受・愛・取・有・生・老死、により説明するものである。

経典では次のように説明される。

>
無明(無知)によって行(形成作用)がある。行によって識(分別作用)がある。識によって名色(名称と形相、すなわち五蘊=人身のこと)がある。名色によって六処(六つの感官、眼耳鼻舌身意)がある。六処によって触(外界との接触)がある。触によって受(感受作用)がある。受によって愛(欲望)がある。愛によって取(執着)がある。取によって有(存在)がある。有によって生(生まれること)がある。生によって老死・愁・悲・苦・悩が生ずる。これらのものによって苦の集まりができる。これが縁りて起こるという。 (相応部経典巻二、『法説』) (p.171)


私は次のように理解した。

無明である以上、結局は行(行動の生起)によって決するしかない。行は何者かに識(認識)されるが、識のためには名色というタグによって六処からくる情報をふりわけねばならない。

六処は外界に触して受(受信)する。受によって識を得ない愛(あればほしいという条件反射)がうまれ、愛を肯定するうちに取(常にほしいという中毒的欲望)が生まれ、取が持続して満たされることを識することで有(自分のものとして有り続けているはずだという知覚)となり、有の名色が生となる。

それを己れにかえり見たとき老死が避けられないことから、誰しも生への執着を悟ることができる。誰しも自然には悟っている。目をそこに向けることはできる。それがいいか悪いかは別として。

それをいいものと見なそうと心に決めること。それを自らへの方便と識る。

田上氏は次のように説明する。

>
無明によって「私」は行(意志)を起こす。その行が六処の分別作用を惹き起こすことになる。これがさらに肉体と心の具体的なはたらき(名色)を生み出すことになる。六処は外界のものと接触し(触)、ものを感受する(受)。六処はそれぞれ感覚して、心の中にそれら外界のものに対して欲(愛)をもつようになる。欲をもつから執着(取)が生まれる。心のはたらきが執着するところに一つの境界がつくられる。この執着が存在(有)をもたらす。その存在がいかなる形にか次の生をもたらすことになる。(p.172)

[無明・行]過去世における現世への原因となるもの
    ↓
[識・名色・六処・職・受]いま受けている結果=身体
    ‖
[愛・取・有]いまの生きざま、来世への原因となるもの
    ↓
[生・老死]来世に結果する再生 (p.173(私注:この生が行につながる。))


田上氏の理解と私の理解との間では名色・愛・生の解釈が大きく違う。田上氏は、生は他者の生と考えるが、私は自分の生と考えている。

私は、十二縁起を、内に観ていく。

>
縁起(縁滅も)を知ることが一切知といわれる。釈尊を一切知者と呼ぶことがあるが、彼はものの縁起を熟知しているからである。(p.179)


いや、「一切」すべて「知」ることができないからこそ縁起なのではないか。一切知者というのは、目にうつる事象すべてを被覆するように見える体系を提起できる者のことをいうのだろう。

そうやって「心」を表すとき、釈尊のモデルは他の宗教のモデルを包摂していたのだろう。しかし、そのモデルと他のモデルとの差異が注目されたとき、または、差異が生じるようモデルを作られたとき、このモデルは宗派を表すものになる。一切知者によって得られた心の平安は、外的にも危機に[おびや]かされることになる。


八正道


田上氏は、戒・定・慧の三学から八正道を説き起こす。

>
仏教では修行の基本体系は戒・定・慧の三学から成ると教えている。戒は身体的修行、定は精神的修行、慧は外へ向けての修行である。戒と定が体得されると、そこに知慧が生まれる。知慧を得て慈悲の心が生まれ衆生済度の修行が始まる。(p.181)


そして、八正道の正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定を次のような言葉で置き換える。

>
慧 -+- 正見   正しい観察
    +- 正思惟 正しい思念

    +- 正語   正しい言葉
戒 -+- 正業   正しい行為
    +- 正命   正しい生活態度
    +- 正精進 正しい努力

定 -+- 正念   正しい記憶
    +- 正定   正しい注意

修行は [戒 → 定] → 慧 と進む。(p.182 図をJRFが再編)


私は、これは出家者の修行に届まらないもので、順序は変わりうると考える。私は八正道を次のように言う。

正しい見方で物事をとらえれれるようになったら、
正しい思索で正見を活かす方法を考案する。それにもとづいて

正しい言葉で人に語りかけ、
正しい行いで接する人を救い、

正しい生活態度で人に見えにくいところでも人の模範となり、
正しい努力で将来あるかもしれない問題に事前に手をうっておく。以上によって、

正しい記憶として人々の中にあって縁となり、
正しい注意を、修行者がいわなくとも、人々が引き起こすようになる。

これこそ人が求めるもの。方便が姿とすべきものである。


上の見立てでは、出家者にとっては八正道などの言葉を知るのが正見であろう。在俗者も生活のうちで八正道などの言葉にふれ、無意識のうちに八正道を実践しているものと私はする。例えば、公共事業という方便は実は正精進の姿ではないか。

出家者は、教えを護り、教えを広める仕事のために、在俗者と共通項の少ない修行を必要とする職業というだけのことと私はする。現在のように、「ホワイトカラー」が中心となった世の中では、むしろ、出家者と共通項の多い(無意識的な)修行を求められる在俗者のほうが多数だろう。

私は、八正道を、外に通して観ていく。

八正道は、外に観えるものではなく内に観えるもので、禅や瞑想の正しい境地を指しているという解釈もありうる。私は精神異常、おそらく禅でいう魔境を経験したことがあり、瞑想の理論を読んだりしたことはあるが、瞑想を体得してはいない。よって、暝想において内に観えるものとしての解釈は別書にお願いしよう。


どちらかといえば「私」にとって内と外は壁を隔てるようにあるわけだが、十二縁起を観れるところに内を見出し、八正道の外が決まって主体が定まるともできる。私は、十二縁起を他者や自然に見出すのは、外に内があると観たいからで、八正道を内に観るのは動機の形成の段階として広がりがあることを観たいからではないかと考えるが、やや便利過ぎる観方かもしれない。


「仏教への教義」という題について


仏教への教義:四諦の独自解釈》の追記でも書いたが「仏教への教義」という題は、不遜である。「私が真実について思うことを釈尊に仮託して」という題に改めようかとも考えたが、私が「真実」に必ずしも確信のあるわけではなく、あくまで仏教について考えるとき、こう解釈すべきではないかと思うに留まるので、その題も適切だとできなかった。結局、先の追記に書いたのと同じ経緯で、今回もエキセントリックさを選択した。


参考

仏陀のいいたかったこと』(田上太秀、講談社学術文庫, 2000年)

アバウトミーひとこと欄》 2007年12月10日。
更新: 01/01/23-01/01/27,2007-12-10,2009-02-01,2009-02-17
初公開: 2009年02月17日 12:22:02
最新版: 2009年02月19日 14:04:22

2009-02-17 12:21:57 (JST) in 仏教, 神学・教学 | | コメント (3) | トラックバック (0)

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コメント

創価学会とかいうふざけた宗教作んなちゃ!!!!!
マジふざけんなannoyannoyannoyannoyannoy
はよ潰されろannoyannoyannoyannoyannoyannoyannoy!!!!
ゴミ
ゴキブリ
寄生虫

投稿: ああ | 2011-11-28 02:43:07 (JST)

創価学会の教えは間違っちょんじゃら!!!!!!annoyannoyannoyannoyannoyannoy
潰すぞコラannoyannoyannoyannoyannoyannoyannoy
在日朝鮮人の考えやろが!!!!annoyannoyannoyannoyannoy
はよ朝鮮かどっか帰れやannoyannoyannoyannoyannoyannoyannoyannoy
汚れるんじゃらannoyannoyannoyannoyannoyannoyannoy

会員の人
創価学会に騙されちょうぞ!!

投稿: あ | 2011-11-28 02:46:56 (JST)

despair 「あ」様、まず、この人の訪れの少ないサイトにコメントをありがとうございます。何がきっかけでそこまでお怒りかは存じません。わかってやっていらっしゃるのかもしれませんが、《『新約聖書』ひろい読み - イエスはサタンか》に私は、「悪」によって人と人が争っているならば、争い続けられるだけの余裕が、「悪」の繁栄の余地を提供することになる…といったようなことを書いています。悪をにくんでのコメントならば、まずはお怒りを鎮められますよう。

また、「差別的表現」を使われてます。それなりの支持者がいるがゆえの影響力を感じてのことでしょうから、それは宗教者の功労を別の者の力をより増すために使うようなものです。《教義の内発性と外部の影響》に書きましたが、宗教者そのものは末端の者以上に真剣な思いを抱いているものでしょう。その思いが社会で歪んだ形となり、それが当人にも歪みをまたらすことはままあるかもしれません。

いずれにせよ、扇情的なコメントを書き散らすだけでは火に油を注ぐだけです。このようなことはおやめなさい。

ただ、このようなコメントが今書かれたということは、私という個人がよく考えるべきことがあるのかもしれません。それが何かははっきりしませんが、警鐘として心に留めたいと思います。

「あ」様のご多幸を願います。

投稿: JRF | 2011-11-28 17:22:27 (JST)

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