『創世記』ひろい読み − ヤコブの一神教
ダーウィンやメンデルを待つまでもなく、「家畜」を造り出した人類が、自然淘汰や遺伝を実感として知らなかったはずはないだろう。わずかな優越性が種を選び出す。人は人為的にそれを早める方法を使っていた。それは人というものの認識にも相当程度影響があっただろう。
ヤコブは、親戚で雇い主であるラバンに、労働への報酬として、ぶちやまだらの山羊や黒みがかった羊は自分のものとできるという約束をした。
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ラバンによって、まだらなどの家畜が遠ざけられたとき、ヤコブは、まだらなどの家畜が産まれるように、そしてそれらが丈夫な家畜となるような方策をとろうとする。それは交尾のときに、木の枝の皮を一部剥 いだものを見せるというものであった。
私はヤコブのやり方に、私が以前書いた記事《イメージによる進化》の発想を見る。
これはヤコブの狡猾さに関するエピソードだが、どういう狡猾さなのかについては、二つの解釈が思い浮かぶ。
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現代の遺伝に関する知識を持った我々にはまだらでない家畜からまだらなどの家畜が産まれることに驚きはない。ラバンの家畜と交尾させる必要は見出さない。それでも、木束が必要でない以上、私は、後者のほうが「科学的」であり、創世記成立後の世代は、だいたいがそう解釈してきたとは思う。
しかし、同時に私は、前者のような解釈の余地を、この書の著者は残したのではないかと考えたい。つまりヤコブもどこかでそういう「魔術」的な見方を持っていたと読みとる。前者の解釈がヤコブを一神教へと導いたと考えるからである。
重要なのはヤコブの世界認識である。ヤコブにはこのころ次々と子供が産まれている。動物の繁殖を前者のようにとらえたヤコブは、人間というものをどう見なすだろうか。
ヤコブは、まだらなどの家畜を直接掛け合わそうとせず、むしろ、家畜がどのようにイメージを抱くかに着目したのだ。もし、ヤコブがこの方法により目的の家畜を得られていたとしたらどういうことになるだろうか。
その家畜は人の提示したイメージに従って、産みわけができる個体、ということになる。
ヤコブが家畜に欲したのはこの特徴であると、私は考える。このような汎用的 特徴さえ持っていれば、こちらが用意するイメージを家畜たちに理解できるものにさえすれば、どのように望んだ個体も得られるようになるだろう。
本当にそのような個体を「実現」できるなら、必要なのは、まだらや、ぶちといった外見でも、丈夫であるという特徴ですらないのだ。
そして壮年のヤコブは、ヤコブが家畜に期待したように、神がヤコブに期待するものを感じ取った、と私はとる。人は神のイメージを実現できる個体になっていくことが吉 いのだ。
「神とはそのようなものだ」と読み込むのはここでの正しい解釈と思う。この「物語」を書いた人もそのような意味を見出して欲しかったと私は思うし、そう解釈する者は多数者ではなくとも、私の前に少なくなかったはずだ。
ヤコブは一神教ということの意味を、そのときは、イメージを実現できるということが評価基準でありそれ唯一つであればいいことによって、捉えたのではないだろうか。
だが、現代の畜産の観点からは問題がある以上、古代でも、ヤコブの見識が問われていくのは当然である。「家畜」にわかるイメージを創るとはどういうことかも、ヤコブ(とその係累)は悩むことになるだろう。
ヤコブは兄弟すら出し抜くことをよしとした。その結果、彼はイエをほとんど追い出され、親戚のもとに身を寄せることになった。その途中、星空の下で、彼は地上のすべての氏族が自分と関係を持つようになると神が告げる夢を見る。…すべての「長」となること、もっともイメージの実現に優れること、それが生きたものの目的になるとヤコブは想ったかもしれない。
親戚のもとで結婚したヤコブは、繁殖も含めた家畜の管理を任される。人の管理のもといつか「自由」になる日を夢み、管理者として優れた働きをするようになる。ヤコブの群れの中にはまるでヤコブが羊になったかのように優秀そうな羊もいただろう。だが、それがどれほど彼の役に立っただろうか。
何十年も親戚のもとに留まっていたヤコブは、半ば強引に独立をはかり、昔兄弟と暮らしていた地に戻ってくる。ヤコブは、かつての自分の行いが恨みとなって残っているのではないかという恐れを抱いている。
ヤコブは兄弟と争うことも、再び出し抜くこともできただろう。すべての「長」となれるならば、当然、ここでどう行動しても良いはずである。だが、ヤコブはそうしなかった。
ヤコブが群れを二組に分けたのは互いに争わせるためでない。
ヤコブは、むしろ「神」と争うことになる。ヤコブが争い、おそらく別人格「イスラエル」としたのは自然淘汰の考えだったと私なぞは思う。
それも束の間、ヤコブの子供達が淘汰することを当然視するような行動に出たり、兄弟の間で争いをするようになる。そしてヤコブが一番かわいがっていた賢いヨセフが、彼の前から消えてしまう。ある解釈によれば、ヨセフは、親戚に産みの遅い羊を押しつけたヤコブに生まれた産みの遅い母からの子である。
だが、このヨセフがエジプトで苦労ののちに大きな権力を掴み、やがてヤコブ達の困窮を救うことになる。ヨセフを大きくしたものは何だろうか。「獅子は我が子を千尋の谷に突き落とす」ではないが、人がもち人と支えあうことになりうる知恵は、どのように世を介していくのか。
ヤコブはヨセフの子供に祝福を送るとき、その腕を交差させる。私はここに突然変異のイメージを見出してしまう。ヤコブは孫達に予想したことについて、その不条理としかし、運命的必要性を見出しているに違いない、と私は思う。
社会には、ある種のことに気付かせない構造があるように思えることがある。それが意図的なものかどうかは別として、何かを見えないはずの「私」が気付くようになったというのは、それを気付きうる変化が起きているということかもしれない。それは、社会にとって大きな意味がある。
その「運」(幸運かどうかは知らないが)を誰かに帰することなく、自分のものだと考えるなら、その変化すらも備えられた社会の仕組の中にあるのかもしれないが、それは社会の構造を変えうる。
ヤコブだけが家畜を飼っていたわけではない。だが、ヤコブが気付くことによって、または、気付くようになったことで、イスラエル(=神は争う)という人格をヤコブが社会が統合していった。この社会もヤコブが気付いたことの遠い帰結なのである。
私が、このような考えに致るようになったことを思う。なぜ信仰を求めるでもない私のような人間が旧約聖書を手に、このような「解説」をしているのか。私は、社会に何を求め、どう過ごしていこうか。
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参考
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更新: | 2008-07-25--2008-08-24,2009-02-13,2009-03-16 |
初公開: | 2009年02月18日 12:40:08 |
最新版: | 2012年05月29日 05:09:07 |
2009-02-18 12:40:03 (JST) in 旧約聖書ひろい読み 創造論と進化論 | 固定リンク | コメント (2) | トラックバック (0)
コメント
投稿: JRF | 2009-03-16 17:23:54 (JST)
投稿: JRF | 2012-05-29 05:11:57 (JST)