「ヨブ記」を読む
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序
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ふと何かを思い出し、「私が悪い」とつぶやくのが私の口ぐせで (参: [cocolog:81686700])、その「無意識」に「何とかしないと……。」を続けて気付きを得ようとすることがよくある。最近、それを「悪い」んじゃなくて「ダメ」なんだなとそもそもの部分で気付いて、「私はダメだ」と言うようにしてみた。今は、そんな諦めと自責のはざまを「無意識」のレベルでせめぎ合ってつぶやきが出てくる。
「神が人を義 しいとするのはどういうことか。」「全知全能の神がいるならなぜ悪が存在するのか。」「しばしば善人が苦しみ、悪人が恵まれるのはなぜか。」……『旧約聖書』中の一書『ヨブ記』では、ときに「神義論」と呼ばれるそんなテーマが対話風の物語を通じて論じられる。
ずっと以前に《自由意思と神の恩寵》で、神の全知を仮定すれば自由意志が(ほぼ)否定されるが、それがキリスト教では「主流」だったと論じた。でも、ヨブ記の物語中の神は《予定説》が示すような超然とした神ではない。この物語には「全能の神が望めば全知から離れて人に自由があるようにもできるはずだ」との論を引き受けてくれるような「神の顕 われ」がある。『ヨブ記』における「神の顕われ」は聖書の他の顕われとは異なっている。
私が義しかったとはもう思えない。その上でギリギリできる義しさに踏んばることももうできそうにない。生きているその「存在」だけが地道さになったかのようだ。私に、平伏するヨブに嫉妬する「悪さ」はもうなく、それを無関心にやりすごす「ダメさ」があるだけだ。今もまだ、恵まれている。しかし、この先は暗くしか見えない。そのたわいもない苦しみに、あの夜、地道であろうとした自分を思い出し、その感謝の灯 を覗き込む。
2015-03-16 18:11:56 (JST) in 旧約聖書ひろい読み 道を語り解く | 固定リンク | コメント (3) | トラックバック (0)