「ヨブ記」を読む
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序
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ふと何かを思い出し、「私が悪い」とつぶやくのが私の口ぐせで (参: [cocolog:81686700])、その「無意識」に「何とかしないと……。」を続けて気付きを得ようとすることがよくある。最近、それを「悪い」んじゃなくて「ダメ」なんだなとそもそもの部分で気付いて、「私はダメだ」と言うようにしてみた。今は、そんな諦めと自責のはざまを「無意識」のレベルでせめぎ合ってつぶやきが出てくる。
「神が人を義 しいとするのはどういうことか。」「全知全能の神がいるならなぜ悪が存在するのか。」「しばしば善人が苦しみ、悪人が恵まれるのはなぜか。」……『旧約聖書』中の一書『ヨブ記』では、ときに「神義論」と呼ばれるそんなテーマが対話風の物語を通じて論じられる。
ずっと以前に《自由意思と神の恩寵》で、神の全知を仮定すれば自由意志が(ほぼ)否定されるが、それがキリスト教では「主流」だったと論じた。でも、ヨブ記の物語中の神は《予定説》が示すような超然とした神ではない。この物語には「全能の神が望めば全知から離れて人に自由があるようにもできるはずだ」との論を引き受けてくれるような「神の顕 われ」がある。『ヨブ記』における「神の顕われ」は聖書の他の顕われとは異なっている。
私が義しかったとはもう思えない。その上でギリギリできる義しさに踏んばることももうできそうにない。生きているその「存在」だけが地道さになったかのようだ。私に、平伏するヨブに嫉妬する「悪さ」はもうなく、それを無関心にやりすごす「ダメさ」があるだけだ。今もまだ、恵まれている。しかし、この先は暗くしか見えない。そのたわいもない苦しみに、あの夜、地道であろうとした自分を思い出し、その感謝の灯 を覗き込む。
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はじまりの枠物語とヨブの独白
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『旧約聖書略解』によると、ヨブ記は、「枠物語」と呼ばれる散文調の部分が導入部(1:1から2:13)と終端部(42:7から42:17)にあり、その間に韻文調の詩文の対話が続いて構成される。ヨブ記の成立には、まず枠物語があって、その後、詩文部が挿入され、さらにその詩文部にエリフの弁論と呼ばれる後代の挿入があり、全体としては紀元前5世紀前半に書かれたと概 ね考えられているようだ。
ところで、旧約聖書は「宗教書」であるにもかかわらず、「死後の生」への言及は驚くほど少ない。義人が「死後救済」されるなどということはヨブ記の時代には言えなかったと見るべきほどだ。序の問いの一つ「しばしば善人が苦しみ、悪人が恵まれるのはなぜか。」に「死後に帳尻を合わせるからだ。」という答えはなくなる。
逆に言うと、いつ義人が救われるのかと言えば、その生のうちと考えるべきで、神の介入=奇蹟があることをむしろ信じ続けることが必要とされていたのだと私は考える。それが「生ける者の神」への信仰だったと言えよう。
ヨブ記は、神が知るヨブという義人について、その義しさが本物であるかを試そうと「悪」のサタンが神にもちかけるところからはじまる。
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ヨブに苦難が次々とふりかかる。まず財産が失われ、息子・娘たちが事故で死ぬ。それでもヨブは神を非難しようとはしなかった。それを見て、さらにサタンは神に「骨と肉に触れる」許可を求め、「命だけは奪うな。」という約束で、ヨブに病いを患わせた。それでも、ヨブは神に対し「唇をもって罪を犯す」ことをしなかった。
さて、この記事の序で述べた問いの一つ「全知全能の神がいるならなぜ悪が存在するのか。」にヨブ記ではサタンという「悪」を神は(創造して)そばに置いていることが明言される。以前私が《イエスはサタンか》で言及した「自分から苦難を起こし、その苦難を解決することで自分への信仰を篤くしようとする『悪霊の頭』としての『神』への信仰」にやや近い立場にも見える。中東もさらに東にいけば、「光」と「闇」の対立といったモチーフも出てくるわけだが、ここで「サタン」が「神」に従属するのは、「光」と「闇」の対立モデルの明確な否定という意味があるのかもしれない。
そして、ヨブの元に三人の友人、エリファズ、ビルダド、ツォファルがやって来る。彼らはヨブを一目見て、その死期が近いと思ったことだろう。七日七晩、ヨブを前に座って話かけることができず、やがて、ヨブのほうから口を開いた。
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奇蹟ももう望まないヨブにとって、神を呪わずに「自分」に対してできる最大の憤りの表現が、生まれた日を呪うことだった。「東」からさらに東に行けば転生概念が出てくる。生まれた日を呪うところがギリギリという思考法によって、「前世の罪」といった転生概念は受け容れないことを暗に主張している面もあるのかもしれない。
ここから友人達との対話がはじまる。
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ヨブとエリファズの第一回対話
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エリファズが「愚か者」にも「無知な者」にもならぬようと釘をさし信じにくい偽りの未来を見てでも後の世のためになるよう最期を過ごせなどとヨブに言い含む。ヨブは「陰府」に言及し何もかも受け容れないわけではないことを示しながらも、「神」に抵抗する。それに私という読者は驚く。
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「もし私がそれを受け容れるなら、受け容れる私達という存在は本当に私達が望む姿になっているのか?」と友の誠実さとともに従順さを求める共同体が担う不可知な知識への確信をヨブは問うのだと思う。そこにただよう重い空気が読める。
ヨブ記をいきなり最後まで読んでしまうと、その重い空気が「えーっ」と声を出したくなるぐらいあっけなく、「なかったことにされる」と言っていいだろう。もちろん、重い問いが消え去るわけではない。ただ、多くの人が重い空気を背負ったまま生きていくわけではないから、私や読者のあなたのように立ち止まって読む者以外には、重い空気を「お払い」してしまうのだろう。
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ヨブやエリファズの言葉に出てくる「風」や「幻」からは、「幽霊」のようなものを私は想像する。獅子という言葉も出てくる(04:10)が、死とは転がった動物の骨であるなどという「土人」的アニミズムの世界を空想させようとしていると私は読む。ただ、フロイトが関心を持ったトーテミズムのようなものが、この地でこの時代にまで残っていたとは思わない。ヨブなどが持っている論理性は十分な都市性と共にしかないだろう。
それでも、衣食住が足りて、それで失われたものがあり、その代わりとしての抑圧を作らねば、先々あやういという保守的判断というのは、必ずあったようにも思うし、「辺境」で生きるものはそういう判断に自己正当化の根拠を見出すこともあっただろう。ただ、そういう判断に対し「もうそれはいいのでは?」という薄い直感も流れているのだと思う。
それはある種の伝統については「滅びの予感」を受け容れていることになるかもしれない。現代でも、アフリカの部族宗教がその「野蛮性」とともに残るべきなのかという視点はある。ただ、彼らから見れば、まさに我々こそ辺境にあるのだろうし、そこからなされる「文明側からの言説」自体が現実の「呪縛」として今捉えられているかもしれない。
そういえば、サッカー日本代表元監督の岡田武史氏がインタビューで「呪縛」という言葉を使ったことに驚いたことがある。そういう言葉を使ってしまうあたりが、管理者の呪縛みたいなもので、スポーツマンなら、そこは身体表現におけるおかしさとして表に現れるものをとらえるべきではないかと感じた。不具合を捉えるためのモデルとして得体の知れない言葉ではなく、身体的実践や譲っても物理理論を中心とした何かでないと、共通理解がえられないとすべきではないかなどと思った。もちろん、これは私が陥っている偏見である。
肉体を極めたもの同志で成り立つ言外の理解はあるとしても、他者の理解をメディアで成り立たせねば、現代という時代のスポーツはままならないのかもしれないから、インタビューされるものとしては、ああ答えるしかなかったのかもしれない。
議論が脇に逸れた。
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「正義の呪い」などというものがあるだろうか。人を呪わば穴二つという。呪いは見さかいがなく、呪ったことを知る本人をしばしば襲うものだ。呪いが共同体で言外に有効になるならば、それは知らず知らずのうちに「常識のない者」を襲い、必要以上の自制を促すものとなる。考え方の自由の喪失は商売をする彼らにとっても痛手となる。
ヨブは生まれた日を呪った。絶望をぶつける相手は自分でなければ、共同体が「呪われる」。だが、その自分はもう霊も砕かれている。普通に考えれば、日を共同体で呪っても、その人が生まれたことを記憶してもらう程度のものにしかなりようがない。しかし、日を呪うことが本当に悪をもたらすことはないのだろうか。
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ヨブは偽りを拒んだ。呪いは言葉からしかならないものではない。
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ヨブとビルダドの第一回対話
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今、ネットを覗くと「おすすめ」の商品やサービスが表示される。まるで天使のように人を導き、コンテンツと共にあっという間に過ぎ去る。いつの間にかプライバシーに係わるような連携が起き、「適切なもの」を強制的に表示する。ネットのサービスの多くを安く、ときには無料で使う以上、断われるものではない。
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パピルスからは紙ができる。古代、紙に書かれた言葉はすぐに滅びる。人の噂も七十五日。しかし、だからと言って、「罪」が、プライバシーが、記録されていないはずはないという考え方はありうる。
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噂の中には中傷もある。嘲笑されていて、笑っている人間に腹が立つというのはもちろんあるが、嘲笑されるように人を陥れたものがいたとすれば、我々はそこに何を感じるべきだろうか。
何者かを陥れようとし、実際陥れれた者について「どういうコンプレックスを持っていたか」とは第三者は問える。しかし、実際その立場にあれば、嘲笑によって劣後した「私」の指摘が、その態度こそが嘲笑の元となったのだとその指摘が許されない雰囲気をつくっていく。
仲介者がいれば「私」が回復されるとは単純にはいえない。仲介者が自分に嘲笑が向くリスクを負ってもなお、仲介者自身にもある「コンプレックス」と向き合う必要があると私は考えるからだ。だが、そうしても「私」自身が回復されることはありえないくらい稀だろう。
そういう「仲介者」が社会の構成者となった次の時代がある。それで満足できれば幸運というぐらいだ。
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「仲介者」の話はひとまずおいておこう。少し戻って、では「嘲笑されるように陥れ」ようとするものはどうして「生まれた」のか。人生の中でそういう感情を身につけてしまうのは常態としてあろう。しかし、それを「私達」という社会が是認しているのはなぜだ。
「たとえ一時は「悪」がのさばるとしても正しい「我々」の数が多くなる」といったとき、「悪」は「嘲笑されるように陥れ」ようとする「我々」を含み、かつ、無関心を装いながら引き込まれ、私達自身が「悪」となっていることに気づくことがある。そこに「我々」ではない「悪」の位格を求めてしまう無意識が生まれるのではないだろうか。いつか「悪」は「嘲笑されるように陥れ」ようとしなかった私達からも結局は正しかったと是認されてしまう。その構造は、自然に他者が私達を陥れようとしているのではないかという恐れにつながる。
エリファズの問いに、ヨブは量りのイメージをもって答えた。そこから死の際に心臓を量ることで罪の重さを見るという機械的な「量刑」を見出す。だが、ビルダドの問いに対してヨブが求めたのは仲介者の働きだったと私は見る。その働きが必要だからこそ逆に「裁判」のイメージをもってきたのだと。「量刑」と「判決」は別の起源を持つと私は思う。
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ヨブは苦しみから人生の皮肉ではなく危惧をひろった。「悪」の判決とも、なんとでも取れる笑いを今はしりぞけた。
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ヨブとツォファルの第一回対話
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今生きている正しい者の数や、最終的に生き残る正しい者の数が問題ではない。今、ヨブは正しいと認められたいのだ。だから、ツォファルの問いには、天すら終ったあとに「それ」が起こると受け取れる解答をしたのではないか。
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「生きている正しい者の数が問題ではないから、裁きは天も終ったあと」とした。しかし、それは一面において応報がなければ人は正しく在りえないという認識を示すものであり、また一面において人の必要によって神が働くという認識を含むものである。
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しかし、議論を先取りするようだが次のようにも述べる。
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私は神の正しさ、神義論を問題にしている。この態度が強慢というならそもそも神義論を語る価値はない。ただ、この段階では、ヨブは、そのあたりのことを気にしてだろう、神にとっての正しさを自己の正しさとは別に論証しようとはしてないと私は見る。むしろ、自らの「被造物性」を強調する。
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ツォファルのほうは知恵というより知識を問題にしている。それにはヨブから星に関する発言が出て、それに刺激された面があるのではないか。
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星の神々をはりつけにできれば、永遠を手に入れることができるだろうか。灰となった知恵の木を再び芽吹かせることができるだろうか。
形而上学を極めることは、天の摂理を知るということだけでなく、天の摂理に影響を与えるほどの学問を遺すということ。……だろうか?
人が死んで星になるというイメージを持てば、神の摂理……人の死の摂理を明らかにし、異議を唱えていくということは、夜空に姿を刻むようなことである。それがないということは人の運命は変わらなかったと見なされよう。
知恵者としての自分を明らかにすることはより明るい星であったことを示すようなものだ。逆にいえば、明るい星となるように自分を位置付けることが、ヨブに求められているとツォファルは言い含めているのではないだろうか。
ヨブは答える。私達の知恵に関して「永遠は、ないよ」。
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14:12 |
は再度引用した。
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トートロジーはいつだってトートロジーだが、記号が継がれなければ、解読されないことも出てくる。記号を記号と読める者もいなくなるかもしれない。文字に神聖性を付与してもそれは永遠の属性をもたないだろう。ちなみに唯名論は、一方の極において、文字(列)の永遠性の信仰があったのではなかろうか?
知識はむしろ蘇えるものか。そちらに賭けてみるべきか。そうか自らを知識とすることこそ……どうだというのだろう? 《魂の座》の記事で「人の霊は、神の中の記憶のよう」というモデルを私は紹介したことがある。ヨブは交替のときを待ち望む、と述べる。
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ヨブの現況を見れば、「苦しむことが人生」ということがヨブが対話しようとする「神」の望むことか。
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ミルチア・エリアーデは『世界宗教史 1』の中で「屈葬」は「再生」の願望を意味しているということを否定するものは何もないという。再生は、天にだろうか、終末にだろうか、転生だろうか、それはわからない。ヨブは、そこに不安を感じたからだろうか、これまでは死を望んでいたのに、生を求めるかのように医者のようではないと友たちを嘲 った。
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ヨブとエリファズの第二回対話
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ツォファルとの問答のあと、再びエリファズとの問答になる。第二回対話はこれまでの救いを含んだ問いかけによらず、ヨブの「地獄往き」をすすめることになる。
最初に読む印象は、ヨブが三人から見捨てられたというもので、解釈のすすめかたによって、それが表面上はそうだというだけで真理追及がその意図にあるのではないか、と思うようになるかもしれないが、やはり、三人の激怒を起こす部分があったと考えるのが正しいだろう。
問いかけを通じてヨブは「神」に向き、三人は遺される人々に向く。……といってもよいだろう。つまり死に往くものの印象を操作しようとする三人と、それを神に向きあうことでかわしていくヨブ、が今の読者には見えうる。でも、ヨブは、そこまでうまくかわせてはいないという印象をもつのが本当は正しいかもしれない。
外部というものはある。読者であるあなたと私を含めその外部というものもあるのだから、確かに印象操作というものが一定の効果を持つ。「いや、それも計算に入れてるのですよ」なんて嘯 くほど虚しいが、それと争ってみようとすることは、神の正しさを問うことが間違いでないように、私は間違いではないと思う。
三人の怒りは何なのか、その怒りのもととなる部分は示唆しておいた。だが、その怒りから何を導き出すかは三者三様に異なることとなろう。
ヨブは激昂するが逆らわない。私は、戦争を言祝 ぐようなことはしないよう自分に言い聴かせて、この先、書いていかねばならない。
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困難に遭 ったとき、それが避けられなかったものならいっそう、人は何かの応報を見出してしまう。「いや、何かの応報ではない」という理性もはたらくだろうが、一度そう感じてしまったものは拭 えない。拭ったつもりでも他の人が感じていて、社会的にそういった感覚がくすぶる。それにどう対処するか。
無理に拭おうとすれば、「無意識下の不安」とかいうヤツが頭をもたげることがある。やりすごそうとすればいいのか。一度その言説にのっかってみて様子を見たり、そのようにのっかってみるものが出たあと目に見えるようになったものを叩くのがいいのか。でも、結果としてそれがもたらす「破局」の大きさは、許容しがたいものだ。
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日常を(再)構築していくこと。きっとそれが大事なことで……というより私にはそれ以外思いつかず……、こう、荒れる心には「今そんなことにかかずりあうのか」というようなことを、その心の表出と折り合いながら、積み重ねていくことが、「残りの者」にできるわずかなことだと考える。
平和な国・時代に生きる者の自己正当化が過ぎるだろうか?
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ある言葉が使われていることに、ある者の影響を見出し、その「ある者」の他の言説がおかしいからとその「ある者」全体ひいてはその関係性を否定する。それ自体はおかしな話だが、共同体の自己防衛の方法としては有効なこともありえるのかもしれない。
その言葉に相当する概念をその共同体の言葉で話すように強制する。ただし、そうやって言葉だけが置き換えられただけの概念自体は認める。それは、真実であることが共同体に届かなくなることを防ぎながら、「ある者」の概念を疑う契機を与えて、その概念の直截的な影響は避ける良い方法なのかもしれない。
それが良い方法だったからだろうなどと私は想うのだが、言葉を使うことに対するコンプレックスみたいなものが是認されている場面があるようだ。言葉と、信用や時代感覚を結びつけるのは議論の本質からほど遠いと思うのだが、言葉に関するコンプレックスが容認されるためそれが肯定的に捉えられている。
確かに、古典解釈をやったりしていると、言葉に対する理解がとても大切だというのはわかる。しかし、そこで使われる理性的な言語理解と、巷にあるコンプレックスが結びつくようには思えない。
何かそこには、まったく別系統で出てきたものが、一方の好評価のために「誤って」他方も是認される構図があるように思う。
でも、それはどこまで悪いことなのだろうか? 人と人が手を結ばねばならないことがあったとき、そこでムリを押して手を握ったことがどこまで悪だというのだろう。むしろ、その違いをことさらに暴 き、脆いものを危うい立場に追い込むことのほうが「悪い」、少なくとも分別のないことではなかろうか。
エリファズは再び問いはじめる。
最初の人間を自分のことだと擬するようなおかしな神秘主義に陥ったりしてはいけない。自分を天使のようなものと思ったりしても、特別な奥義に到達したと思い違いをしたりしてもいけない。……そう思ってしまう瞬間がきっと誰しもありえるが……それは、あたり前に誤解でしかない。
そういったことを罪と感じるような雰囲気が、まず、ある。少年のころの疑問が今口をついて出ようとするからといって取り乱してはいけない。まず基本的な尊敬の念についてもう一度確認せよ。
昔から祖先崇拝があったし、それは今の信仰にも接続されている。
はじまりは侵攻できる土地を与えるというものだったかもしれない(参: 聖絶)。だが、今やそれらを繋ぐものは、父祖が侵攻を受けなかったこと、すなわち正しければ自らを含む子孫が侵攻をされないという信心によっている。
悪人というものを「あなた」に擬えよう。悪は滅ぼされるべきである。「あなた」は今や侵攻を受ける。あえて述べる。悪人であったことを受け容れよ。
ヨブは答える。
「あなたたち」は慰めるふりをして苦しめる。私は本当に苦しんでいる。
私は死んだのちも、幽霊のようにここを見ている。見守るべき子孫がなくても見ている。さぁ、お望みのことを言ったぞ。だが、恨みをもって何かをしえるだろうか。何かができることが「我々」にとって良いことか。あいかわらず敵意をもちつづけるのは「あなたがた」だ。
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ちゃんと読むと、ヨブもエリファズも私が書いたようにまでは言っていない。
「因果応報論」と単純に切って捨てるのではなく、より外側にある「余計なこと」をふんだんに取り入れて読んでみるのが本稿のスタイル。ただ、独善的になりすぎて、私の文を解釈しにくくなっていることは認めざるを得ない。
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ヨブとビルダドの第二回対話
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この書には「幽霊」には否定的な文脈があると見てよいだろう。一方で、死んだ者が幽霊のように見守るということが、租先崇拝の感覚でもある。
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ある人の感覚では決して相容れないはずのものが、「その次の世代」の感覚では両立している。ならば、やはり失われたものがあるのではないか?
それを取り戻すにはどうしたらよいのだろう? 取り戻す必要があるかどうかは、とりあえず不可知として。
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人の怒りは厳しく受けとめ、自戒としていく。「普通の大人」ならば、いってしまえば、それだけだ。自戒となっていれば、何かの対策を講じるなどしていくうちに徐々に状況が、自分が、改善されていく。
しかし、怒りに対して、反発によって隠さねばならないほどたじろいだり、卑しいと見てしまうほどおびえたりする人々、場合によってそうなる人々がいる。その背景には、暴力の記憶があるのではないかと私は勘ぐる。
いや、そもそも怒りとは暴力に結びつけるべきものであり、そう受け取らなくなった私のほうがひねくれてしまっているのだろうか?
正しい結果ならば受けいれる。何かが怒るとき、そこには、慣習的なものにすぎないかもしれないが、正しさがある。それは受け容れる……いや、私だけならば受け容れても良いだろう。私はそういう人だし、そうありたいと思っているとさえ言っていい。
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それは社会への信頼と言っていい。だが、その怒りが家族や他人に及んでいるなら、私が黙っているのが正しいことだろうか。それでも今の社会ならば私は、より正しい方法を探しながらも、それが自分の身辺に起こったという結果には、納得……、いや、受け容れるだろう。
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人を嘲笑するためだけに怒りを偽装して、何かができるなら、恐らく怒りがなくても、それができる。怒ったものが嘲笑しているとしても、それは嘲笑のためになされたのではなく、怒っても埋めきれない思いを嘲笑で埋められないかと試しているだけだ。
少し人間理解がロマンティックすぎるだろうか? でも、指導的立場にあるものはそういった幻想をひきうけなければ、生命がない。それが人間社会の一面ではないか。
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「生命がない」……。それは本人達にとってはもはや暴力ではないかもしれないが、周辺に生きる者の中には必ず暴力としてそれを記憶する者が出てくるだろう。
暴力の記憶へのおびえから来る暴力はもちろん正しくない。だが、その元となる記憶として「だけ」残る「暴力」は裁けない。
……それは正しいはたらきとさえ言っていい。
ならば、その「おびえ」も正しいものと受け容れるべきなのか?
その「おびえ」は裁きがありえないことの永遠の不安、と言ってしまってよく、その解消として「救い主」の待望が生まれたのではないか。という仮説を私は思いつく。
ビルダドとヨブの二回目の問答は、一回目が裁判に関するものでそれが継がれていると考える。そして、「嘲笑」に対するモチーフとして「怒り」があると考えた。
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一回目にはパピルス(08:11)という言葉が出たが、二回目の岩や石碑のイメージは支配権とその交替が表わされているように思う。その結果として以下の「救い主」の主張に致ったと私は考える。
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まず、この認識が先にあってそこから逆に「哲学」してみたのが、この節の解釈だった。
支配者も人で、その支配者に率いられるのも人間である。いろいろな人にいろいろなストーリーが与えられている。ヨブも僕 (19:16)を持っている。ヨブもある面では支配者だったわけで、支配される側にも来歴があったことだろう。
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ヨブとツォファルの第二回対話
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前節で、当然出てくる「失われたもの」をとりもどすのに暴力的なものを使うのが有効かという疑問について。
支配の移転ということまでが「法」的に正しいとすると、「失われたもの」を強制するというのは結局、新しい「法」で対応するという枠でとらえられると考える。
そうなったときそれが「失われたもの」に対応するとはいえ、それとはまったく別の機構を持つものだと思う。ただその「法」の「裁き」の対象となるものではなしに、付随的に出てきた「おびえ」のようなもの、それは、むしろ「失われたもの」に直結することがあるように思う。
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しかし、その「おびえ」のようなものが、どういう具体的な形になるかは、偶然の作用が強く、たくんで「失われたもの」を復活させるというのはできない。逆に、たんくんでなされればそれは「法」のようなものとなって、まったく違う原理の支配するところになるだろう。
その「おびえ」が一度できてしまえば、それを生長させるやり方はありえるのだと思う。《錬金術》や《象徴の利用形態》のような話ということになるかもしれない。だから、まぁ、先の問いには「不可能ではない。すぐにはムリだが……」と不本意ながら答えることになると思う。
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もう一点。怒りを自戒と結びつけることについて、少しはっきりしないというかもやもやしたものが私の中に残っている。「自」戒とするというのは、戒めをそのもととなった「怒った人」(の権威)に結びつけないということ。
それを結びつけようとすることは控えられるし、控えるようになる構造があるように思う。ただ、それが「自」戒とすることの意味だと受けとられると、私の中の感覚とは違う。説明するのが難しいが、だいたいのところを説明してみよう。
それは「聖なるもの」と「俗なるもの」との違いと言えば良いのだろうか。『世界宗教史 2』の解説に次のように書かれている。
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私は『マタイによる福音書』22:21の「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」という言葉について独自の解釈を持っている。それは、Gifted なアイデアをパブリックに実現したりして「神のものは神のものに」するだけでは不十分で、やはり、国から受益したんだということにちゃんと税金でそれを返すというのをしないと、国が、宗教みたいに道徳を押しつけてくるようになる。それは「自由」な集団として避けねばならない。……というもの。 (参: [cocolog:81757811])
「国」の「法」と聖性を帯びていく「おびえ」は同じ現れとしないというのが「控えるようになる構造」をとる「知恵」なのだと私は考える。私はまだまだ力不足でうまく説明できたか自信がないが先に進もう。
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ツォファルはなぜヨブの答えを「非難」と感じてしまったのだろう? 超然としようとすれば、できたはずなのに。ヨブが望む「黙っている」に近いことができただろうに。
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私は「幽霊」だとか「救い主」とか、はっきり言ってしまっているが、ヨブはそんなことは「実は」言っていない。
彼らの時代にも、現在の普通の世間にあるように、矛盾のある言説が流通していただろう。人々は自分の中でなんとか折り合いをつけ、いくつかの言説はばかげたものとして斥けていくものだ。
そして、ある種の概念については嘲笑を自らのうちに抱くようになっているかもしれない。
そうして内心シニカルに見ながらも、世間体から「うそ」(っぽいこと)でごまかすこともしている。それなのに、そういった概念をヨブがうまくすくっていったように見えた。
そこから反省することで自分の「罪」が意識されたということだろうか。
言説だけではない。応報という概念は、言説ならぬ事実にさえ矛盾しているように映っていただろう。言説の通りに事実は起こらないし、事実を解釈した言説は互いに矛盾する。
ヨブが言説をすくいとったことは、ある人にとっては希望になったかもしれないが、ツォファルにとっては、そうでない側面があった。救いなどあってはならないという思いもあったのかもしれない。
ツォファルはヨブに非常に特殊な知的訓練のあとを読みとろうとしたのではないか? そうやって自分が納得したかったのではないか?
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「……ヨブがそうでないならば私がやってきたことは何なのだ。私に救いはないのか?」
他の二人が三度発言するのに対し、ツォファルは二度しか発言しない。形式が崩れているともいえる。しかし、そのツォファルへのヨブの答えらしきものは他の二人への質問のあと答えられるが、これまでのような「答え」はないように見える。答えがないのが答えだという気はないが、これまでとは違う。
ツォファルの「問い」にあるのは「あなたは私と同じだ」という責めではないか。ならば、ヨブへの非難は、すなわち自らへの非難となってはねかえることになる。
ここからの三人とヨブとの問答は、ヨブへの「地獄往き」のすすめが、それを下じきにしながら、「自らの罪の告白」大会(!?)のようになっていく。自分達の罪の記憶というものに焦点がうつっていくと見ていいのではないか。
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金山でどういう労働がされているだろうか。銅の製錬がおこなわれている村の周辺に病はなかっただろうか。「工場」ではどういう人々が働いていたのか。街のほんのはずれにスラムのようなものがなかっただろうか。
そういったことに気付かずすごす人がほとんどだったのだろうか。それとも、あたり前に目の前にあったのだろうか。
知っているということが罪と向き合う鍵のようなものだたかもしれない。黙っていることが労りとは、実感として持つものがいただろう。
「私はそうではないが、逆らったからといって不幸になるわけではない。お互いそういう生き方がある……でやってきたではないか」というのがヨブのツォファルに対するとりあえずの答えではないか。
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その場の重い雰囲気はなくなった、なくなっていっているかもしれない。でも、ヨブのところから帰る人は、このままでは、現代の鬱のようなものをかかえて過ごすことになるのではないだろうか。
ここまで本稿を読んだ人は、ヨブ記だけは最後まで読んでおくようおすすめする。
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ヨブとエリファズの第三回対話
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ヨブ記を読む人は、ヨブに自分を投影してしまう、とあったが、それは本当だと思う。私にもあてはまる。もちろん、ヨブだけでなく、その「周り」についても私の世界理解のようなものが反映されているのだろう。
前節で鬱っぽくなったのは、要するに私が暗いということだろう。まぁ、いいさ、次を考えよう。
エリファズはヨブにいう。
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ヨブは義人であると読者は知っている。おそらく周りの者もそう気付いている。とするならば、エリファズが述べているのは誰の「罪」なのだろうか?
「清くない者すらあなたの手の潔白によって救われる。」(22:30)と述べるとき、まず救われようとしている者は誰なのか。
「世の中には応報がある。人為を超えた応報がある。」と信じさせようとしてきた者が現実に認識するのは、自らが応報の行使者になりながら、その受苦者となることをこばもうとする意志の葛藤である。
その葛藤が、エリファズの言をねじまげる。
エリファズには指導者としての責任があるだろう。その強迫された余裕が発言に善意の衣を着せている。
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ヨブはその矛盾に人為の「応報」をすべきだろうか。
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ヨブはまず自分に罪がないことをもう一度述べようとする。真に苦しむものは正義を求めながら「自分は犠牲になってもいい」(05:09 意訳)などとは言わない。「なぜ、滅ぼし尽くされずにいるのか。」そこに希望を敢えて見出す。
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……いや、違うな。そこに希望を見出そうとするのは、本物の苦境を知らず、「真実」を受け容れられない私だ。ヨブは希望がさらに裏切られるように自分を追い込むことはしない。滅ぼされるまでにさらに苦しむことになるかもしれないという予感を呼びおこし、憤る。
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共に不正にあずかっているという幻想をうち砕きながら、憤る。
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そして全能者の力を痛みとして自分の中に抱きながら、それが信じれるなら痛みがヒドくなるかもしれないことをわかりながら、全能者の働きのない現実を非難する。
……正義になお期待しているという見方もできるということは指摘しておく。
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ヨブとビルダドの第三回対話
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ビルダドは述べる。「神は(…)最も高いところに平和を打ち立てられる。(…) 人の子は虫けらにすぎない。」
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ヨブは答える。
人を助けようとしたことをあるだろう。たとえ、それが裏切られる結果に終ったとしても。大人になって、そういった思いを捨てていたとしても。
人の子が、ビルダドのいう「虫けら」のわけないだろう!
今までの議論で、「創造主」に対する信頼が薄れてしまったかもしれないからうれしくないかもしれないが、私は「あなた」からも「創造主」の息吹を感じるよ。
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どうしようのないもの(そんなものがいたとして)も、生かされている。
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世界はワンダーに満ちている。
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だから……。
これから先も生きていく者が、そんな哀しいこといわないでくれ。
そんなふうに、ヨブは「怒って」いるのだと思う。
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少し多幸的解釈すぎたか。
ヨブもその友人達も異教的応報論に触れていたかもしれない。そこまで射程に置いて彼らは応報を論じていると私は考えてみた。
ヨブと友人達の間に悪感情がまったく抱かれなかったわけではないだろう。私の解釈がそう見えにくいものになったのは、死に際してある、人の悪感情を「昇華」してきた、各宗教の努力を援用したがゆえであろう。
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ヨブの独白
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そうしてヨブは言った。「断じて、あなたたちを正しいとはしない。死に至るまで、わたしは潔白を主張する。」(27:05)
ヨブは、これまでのような「キワドイ真理」ではなく、まるで三人が主張し彼が否定したようにさえ見える「あたり前の真理」を代わりに主張する。力・応報・知恵、そして人に求められる倫理である。
おそらくそういった「あたり前の真理」というものは素朴すぎる。すべての人は裏切られるといってよい。ただ、裏切られたとしても、総じては、そういった素朴なものを信じられるように生きることも可能なのだろう。それがヨブの病に至るまでの生ではなかったか。
だが、義人ヨブですら疑問を胸に抱き続けるしかなかったということは、きっと「この」辺境にも、違う季節が訪れたと見れるのかもしれない。これから先、そこに生きるものは決してヨブのような信念は持てないかもしれない。
ヨブが死んで終りというわけにはいかないのだろう。ヨブの主張はここで終るが、物語はもう少し続いていく。
……先を急いだ。少し戻って、ヨブの主張をいくつか詳しく見よう。今の私が、自分を棚に上げて、ヨブが潔白だ、または主張しても安全だ、と思うところに疑問をさしはさめないわけではない。
ヨブは「すべて命あるものの目にそれ(知恵と分別)は隠されている。(…)その道を知っているのは神。」(28:21-23)と述べているが、ならば、神は命を持ったものではないのだろうか? 生物とは違っていても命があるのかもしれない。時間的にどう超越しているかもわからない。そこまで言い切って良いものか。
ヨブは「わたしより若い者らがわたしを嘲笑う。彼らの父親を羊の番犬と並べることすらわたしは忌まわしいと思っていたのだ。」(30:01)という。こういった差別意識は現代に生きる私からすると潔白なように見えない。思い出して見れば私にもそういうところがあったという反省がならばわかるが……。
ヨブは自分に姦淫の罪があれば「わたしの子孫は根絶やしにされてもよい。 (…)わたしの妻が(…)よその男に犯されてもよい。」(31:08-10)とまでいう。たとえ自分に罪がないからと言っても、そこに厳罰を認めることは、結果、他者に暴力を加えることを許すことにならないか、などと私は考えてしまう。
あと、蛇足だが、ヨブの言葉に「太陽の輝き(…)を仰いでひそかに心を迷わせ口づけを投げたことは、決してない。」(31:26-27)とあるが、当時そういう習慣があったことがわかって興味深い。でも、これを裁かれるべき罪だというのは、そういう人々を呪っているのと何が違うのだろうか。
まぁ、確かに大した問題ではなく、そういう部分も持っているのは、人間的だという点で好意すら抱ける。そこもまたヨブが義人たる所以なのかもしれない。
ヨブは、当時その辺境にあった、矛盾がほの見える様々な「神」や「死後」に関する概念について、意味をつないでみせた。それは「強い人」がある種の精神状態に陥ればできてしまうものなのかもしれないなどと私は想う。
だが、そうやって通ったスジは、果たして生きていくものにどれほど意味があるのだろうか。現実的な方向だけから見れば、他の地方から来るものに迷わされないで済むといったメリットがあるだろうが。
一方で、これまで場合に応じて部分を否定することで守られていたモラルが守られなくなるという面があるかもしれない。
死に至ろうとするものに「何かができた」と思わせることは精神に良いことだと私なんかは思う。年をとったヨブと三人の友人にとってみれば、実は心安らかになる結果が得られたのかもしれない。
でも、これから先、つながれた意味を生きる若い世代は、本当にそれでやっていけるのだろうか。
ここでヨブ記には若いエリフが「突然」登場することになる。エリフの論は後代の挿入だという説(むしろ定説)があるが、いずれにせよ若い世代がどう感じたかが焦点となる。
今の若い人達は公立の大学すら教育費が大変だと聞く。哲学系は、文庫本もけっこう高い。しかも、読むのに時間がかかってバイトなどもやってられないのではないか。
「高い」といったものの、単行本の価格を考えたら、あれでも十分安いんだろう。もしかすると、哲学が、金があってひまがある人のものに「戻った」というだけなのかもしれない。
もう一つ私の口ぐせを紹介すると「まぁ」。説明とかするとき、気づかないうちに挟んでいる。言い訳のための留保を残しておきたいって心理の現れだろうか。学生のころは、これで注意されたものだった。
逆にいうと、「まぁ」がない他者の意見は自分にはストレートすぎるように聞こえているのかもしれない。
本来ここで読解をやめるつもりだったが、後学のためにもう少しだけ解釈を載せておく。
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エリフの弁論
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13:20でヨブは「若い日の罪をも今なお負わせられる」のが正しいのかと神に訴える。若いときは「罪といわれるものは罪だ」として終るのが社会というものだが、人生を振り返るときは若いときに罪を犯したことが罪で留まろうはずはない。
創世記 08:21で神が「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」と述べる。むしろ、ヨブは正しい。罪でないと信じていることを罪だと認めるほうが罪に定められるだろう。
特に社会が許さねばならないはずの己の罪に罰を求め魂の安息を得ようとするのは、これから先の若くある者すべてに対して罪となるだろう。若い罪を罪に留まらせず、その生き方の中に昇華していけば、社会と対峙した自分の周りに規律としての罰と許しが染み出してあるだろう。
そうありたいと今の私は思う。自分のあるべき姿を自己を通り越して若者に投影してしまうのは、迷惑でしかないかな……。:-)
北森嘉蔵は『ヨブ記講話』(p.205)でエリフを「神は偉大である」しか言ってない旨を述べ、切って捨てる。他に後代の挿入と見て軽くみるような解釈も多い。しかし、並木浩一『「ヨブ記」論集成』(p.281以下)によると、中世盛期のサアディア、マイモニデス、トマス・アクィナスはエリフを高く評価していたようだ。誰も答えない彼に「ぼっち」の私が反応しよう。
次の時代を生きる若者は、我々よりも詳細な世界理解を若者全体として担わねばならない。神の「奇蹟」を望むことにおいてではなく、その詳細を理解してより大きな視点で神の「驚異」を捉える必要がある。創造主の驚異の解明は、その偉大さの当然の証明となろう。
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神は、エリフを神の知恵の示し方の一つとして私達に見えるようヨブ記の中に召喚したのだと思う。私の今書いているものもそういうエリフ的現われの一つだろう。これが健全な現われと見なされることを私は願う。
三人の友人の「出身地」をどこに割り当てるかも興味深い話題だ。ヨブの星座への言及に反応したナアマ人ツォファルはメソポタミア流域だろうか。ヨブが陰府への言及をもって答え自然宗教に詳しいテマン人エリファズはエジプト的でもありながら、フェニキア的でもあるということで海岸ユダヤ人すなわちイスラエルあたり。仲介者を求めるあたりシュア人ビルダドはローマ人と言いたいところだが、内陸ユダヤ人すなわちユダあたりに考えればいいのだろうか。上の部分から、エリフはギリシアの影響を受けているのかなと思う。まぁ、これらは私の偏見を超えない。
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夢に多くを求めてはならない。人の無意識はその人の意識したことと違うことは認めるべきだが、神の現れとは異なるはずだ。もちろん、だからといって夢を見ることを拒んではならない。それは神の業かどうかわからないが、自分の身体が必要と思って見せるものかもしれないからだ。
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執り成す者はその誠実さという犠牲を払って立たねばならない。通じなければ、彼もまた疑われる。それは若さゆえの無謀に近い。ただ信じれば答えがあるというならば、ヨブはこんなに苦しまなかった。
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神が御自分にのみ心を留めても、人間は塵に返らないように神は望んでいるかもしれない。その心が離れていると感じるからといって、生きていることに感謝を忘れるべきではないし、この先、生きることに絶望すべきではない。
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確かに私が過ちを犯したとして、神に負担が生じるほど神は弱くはあるまい。だが、神は愛する神でもあるはずだ。背くにいたったその理由を弁明できるよう心を強く持つべきだ。
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他者が神に逆らうことがどれほどのことだろうか。我々から見て逆らっているように見えることが、神の深い配慮を示してきたというのが、この旧約聖書の神ではなかったか。
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悪い行いを見ることになるのは不幸だ。苦悩によって試されるのはその時だ。私には何ができるだろう。
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大地が震えることがあっても、それを安易に神の怒りと見るべきではない。全能ではない人間にとって、そういうことはしばしばあって、そこから立ち直ることこそ神はご覧になっていると考えることが、よりよき生を過ごすよすがとなりうる。
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光があるから神の顕現だとは限らない。自分の力及ばぬ何者かが語りかけることはあるかもしれない。だが、それを神と信じてしまうことに罪はないと思いたい。そしてだからこそそれを疑うことにも罪はないと信じたい。
エリフはこれからも若く生きる者がどういう信仰に踏み届まればいいか模索している。いつの時代も、若さを生きるということは、真実の可能性を留保していくことではないか。真実を留保して神の位は高くなり「全能者を見いだすことはわたしたちにはできない。(37:23)」「彼は力と公義にみち、大いなる義を持ち、答えることをしない。(関根訳 37:23)」「人の知恵はすべて顧みるに値しない。(37:24)」だが、そこに神が登場する。
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神の顕現
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ヨブ記 第38章、神が嵐の向こうに顕現する。
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この「神」をどう捉えるかは悩みどころである。この書がつくられた当時の雰囲気において神を登場させるのには、どのような意図があるとして良いのだろう。一種の預言のように読むべきなのだろうか。
ユダヤ教は、はじめ、戦争での勝利などのご利益を望んでの神の崇拝だったため、他の神との併存などが避けられなかった。それが、王国が北と南にわかれ北王国が先に滅亡したとき、滅亡は北王国が神との契約における義を果たしていない罪の状態にあったからだという神学が隆盛となったため、一神教が強固なものとなった。
やがて、南王国も滅亡し、バビロン捕囚からさらにペルシアの緩い支配に変わったとき、ペルシア帝国の命令で律法を作ったため、それを以降変えることが難しくなる。しかし、律法はそのはじめから矛盾を含む複雑なものだったため、全てにおいて正しい在り方というのはそもそもできない。そこに「知恵文学」が成立する。
人が知恵を付けたことで、自分がずっと正しいことをしてきたと思える人が出てきた。しかし、神の前で何が正しいかは神の問題であって、いかに自分の知恵のおよぶところで正しくとも、神に正しいと認めてもらえると考えるのは、神に自分の掟を押し付ける行為にすぎない。神にとって人が優位に立つ「神の前での自己正当化」の問題が起きた。
……といった論だった。そして、ヨブ記において、苦しむヨブに友人達が
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神の顕現に私が抱いた印象に「神は人の掟から自由である」という言葉はうまく重なる。
ここで顕われる神は、《神は至善か、暴君か》で言えば「至善」のモデルに近いが、やや暴君的でもある。ただ「暴君」というよりは「素朴」という言葉のほうが似合う。とても「悪霊の頭」という印象はない。もしこれが人であれば、「知」の人であるとは思えない。それでも神の質問に全て答えられる人間はいまい。その「知」が人を超えるところに神の自由さがあるのだと思う。
もちろん、自由に見える顕現が確かにヨブへの応答であるとわかる人もあるのだろうし、わかろうとすることを諦めてはならないのだろうが、私にはわかり得ない部分が多くて当然なのだともわかる。
神はその顕現の途中でヨブに尋ねる。
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神は原始の怪物、ベヘモットとレビアタンを紹介する。
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義人ヨブを造ったとき怪獣ベヘモットも造られていた。この発言はヨブを安心させたであろう。
私の妄想体験に引き寄せ、ここの解釈を行き過ぎよう。
ヨブは、神よりも正しいという主張を引き受けることで、ならば自分も神または神的存在なのではないかという「恐怖」に襲われる。ヨブ記の神は、創造の知識を問うことで、創造主としての責任を他者のものとして信じさせてくれる。ここに旧約聖書の神が創造主であったことが救いの認識をもたらす。「自分は創った者ではない。だから神ではなく、我々が神に求めたような責任から自由である」。だがそれは創造者に責任があるという「無意識」を肯定することでもある。
では、我々は世界を二次創作することはないか。二次創作に責任はないのか、それとも二次創作には責任を問うほどの価値はないのか。
次元の形は単純なものでなく、輪廻転生や時間遡行のような完全なループをもたなくとも、今の創造が過去の事象を産んでいる……ヨブや私が過去から現代を越え未来へと向かう一部に創造者としての責任を負っているということはありえないのか。
いや、もしかして仮にそうであったとしても、それが人間としての一生で自分が負える責任に留まっていれば善い、ということではないか。そういう救いの認識は得られないだろうか。逆にそうでなければどうなるというのだ。神に求めた責任を死後に負うとでもいうのか。
私は統合失調症を得たとき、ある種の「顕われ」に会った。《テレビが裏切っている - 精神分裂病時に考えたこと》に書いたファラオのような影、新しい宇宙の創造、そして私の責任で創ったとされるサイボーグ的な動物(つまり「ベヘモット」)の映像を観たように思った。
私が神と共に、「右の手(40:14)」たる罰の恐ろしさを表すベヘモットを創ったというとき、神は私の想像外のレビヤタンを創造していたことを世に知らしめるだろう。そういえば、レビヤタンは、最初のヨブの告白(03:08)にも出ていた。私は病いのずっと以前《水竜狩り》という小説を書き、竜が最後「自殺」をするという筋書きを書いた。その「レビヤタン」はもしかすると神が倒してくれていたのかもしれない……。
例えば、創世記 04:20-04:22 のカインの末裔の話、トバル・カインが鍛冶師になったなどという職業集団説明説話は、ノアの洪水の前に出てくるが、洪水で皆滅んだとすると説明の意味がなくなる。何かのトリックがあるとも読める。そういうふうに、過去としては別世界であるが未来において統合されるこの世界に創造者としてヨブや私が責任を負っているということはないのか。
未来で呪ったことが過去の自らの民族に影響する……。未来を呪うような法理を容認してきたことが今に影響していることはありえるとしてもそのような「混乱」はありえるのか。今や「神」は生きる物から学ぶこと、現実から学ぶこと、だけでなく空想から学ぶことの大切さを述べているのではないか。世界が「地球」として一体となり、バベルの塔やノアの箱舟が「空想」としか感じられないような時代になったのなら。
奇蹟によってさえ私の「罪」……間違っていた部分が贖 われるとは私には思えない。だが、それでもこれまで死んでいった人達のために贖えると考えなければならないこともわかる。実際今の時代にも贖われたと感じる人もいるのだろう。
そう感じる人はどういう人なのか。文化の違いは今も未来にも必要ではないか?読者であるあなたが応報の組み立て方の違う人と出会うことは現実だったはずだから。
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終りの枠物語
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ヨブ記の最後、ヨブに、なんと神が和解しようとする。
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神はまず友人たちに和解の捧げ物を求める。私の解釈では友人たちは因果応報を信じ説いたから「罪」があるわけではない。罪ならばもっと厳しい罰があっていい。彼らが自らを貶 めるまでしたそのことを神は論難してくれたのだと思う。この和解はヨブとの和解であると同時に彼ら自身の部族との和解でもあったろう。
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義人ヨブがどう思ったかを想う。ヨブは、死んだ息子達が結局は帰ってこなかったことに憤りを保ち続けたと私は思う。一方でヨブの生活に笑いが戻ったのも事実だろう。そして、そのようなヨブを丸ごと神はやはり義とされたのだと思う。私は「和解」とはこのようなものだと理解している。だがそのようなものとして和解に臨む者に私は和解者としての適格性を望まなくなるだろう。子によってのみ和解は実体的意思を現す。
義人ノアの物語というのは義人ヨブの物語と同じような周辺を持っているのかもしれない。ノアの行動というのは表面的には決して善ではない、洪水が最も恐ろしい災害だった時代に一人だけ逃れるようなことは唾棄すべきこと、しかし、ノアは善とされる、なぜか。神がその(未来の)行為を信頼しうる者が義人。義人は「試練」の後の行動からも義とされる。神はその結果を引き受けるのだ。それが旧約聖書から読みとれる神のその人に対する義しさではないか。
この神と私は……多くの私のような「狂人」は和解できるのだろうか。それには否定的にならざるを得ない。私は何度か統合失調症的症状に陥ったが、他者が(主に私の場合は両親が)助けてくれたため、最初のものほどの妄想には逢っていない。もし、和解の可能性を気付かせるようなものが和解の場が続く間に必ず現れうるなら、神は畏れとともに記憶されることはなかったであろう。旧約聖書の神にとって「異国人」たる今の私に「助け」があるのは、ヨブやノアほどには義しくはなかったが、あのとき義しくあろうとしたことへの対価なのかもしれない。
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参考文献
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更新: | 2015-02-24,2015-03-16,2015-05-01 |
初公開: | 2015年03月16日 18:11:55 |
最新版: | 2015年05月01日 17:45:27 |
2015-03-16 18:11:56 (JST) in 旧約聖書ひろい読み 道を語り解く | 固定リンク | コメント (3) | トラックバック (0)
コメント
投稿: JRF | 2015-05-01 17:49:01 (JST)
とても興味深く読みました。ヨブ・コンプレックスを検索して着いたものですが、
そのうちに記事に「ヨブ記」について書こうと思います。暇でしたら、よろしく。
投稿: 陽秋 | 2020-05-22 17:44:05 (JST)
反応ありがとうございます。陽秋さまのブログの RSS をチェックするようにします。
投稿: JRF | 2020-05-23 14:45:24 (JST)