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2015年3月16日 (月)

「ヨブ記」を読む



[くだ]っていく道すじ。別に上にいたわけでもない。でも、下っていく。ずいぶん力が落ちた。あのころアレでも力があったほうなんだなぁ。……と、振り返りつつ、別にそれはいい、私はそれでいいとした。振り返って詳しく見ることまでは億劫だからしない。地道に。元から下にいたんだとしても、「地道さを」と思い……夜道を歩いたことがあった。

ふと何かを思い出し、「私が悪い」とつぶやくのが私の口ぐせで (参: [cocolog:81686700])、その「無意識」に「何とかしないと……。」を続けて気付きを得ようとすることがよくある。最近、それを「悪い」んじゃなくて「ダメ」なんだなとそもそもの部分で気付いて、「私はダメだ」と言うようにしてみた。今は、そんな諦めと自責のはざまを「無意識」のレベルでせめぎ合ってつぶやきが出てくる。

「神が人を[ただ]しいとするのはどういうことか。」「全知全能の神がいるならなぜ悪が存在するのか。」「しばしば善人が苦しみ、悪人が恵まれるのはなぜか。」……『旧約聖書』中の一書『ヨブ記』では、ときに「神義論」と呼ばれるそんなテーマが対話風の物語を通じて論じられる。

ずっと以前に《自由意思と神の恩寵》で、神の全知を仮定すれば自由意志が(ほぼ)否定されるが、それがキリスト教では「主流」だったと論じた。でも、ヨブ記の物語中の神は《予定説》が示すような超然とした神ではない。この物語には「全能の神が望めば全知から離れて人に自由があるようにもできるはずだ」との論を引き受けてくれるような「神の[あら]われ」がある。『ヨブ記』における「神の顕われ」は聖書の他の顕われとは異なっている。

私が義しかったとはもう思えない。その上でギリギリできる義しさに踏んばることももうできそうにない。生きているその「存在」だけが地道さになったかのようだ。私に、平伏するヨブに嫉妬する「悪さ」はもうなく、それを無関心にやりすごす「ダメさ」があるだけだ。今もまだ、恵まれている。しかし、この先は暗くしか見えない。そのたわいもない苦しみに、あの夜、地道であろうとした自分を思い出し、その感謝の[ともしび]を覗き込む。

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2015-03-16 18:11:56 (JST) in 旧約聖書ひろい読み 道を語り解く | | コメント (3) | トラックバック (0)

2009年2月20日 (金)

『六方礼経』にちなみ、友ならぬ知り合いの道を語り解く

『六方礼経』そのものではなく、それをもとに書かれた道徳書『ブッダが語る人間関係の智恵 − 「六方礼経」を手がかりに』(田上太秀)の主に第一章「友人とのつきあい」を読んで、友のない私が、友というよりも知り合いの道を語り解こうと思う。

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ブッダは慈悲の心を具現する方法として「四摂法[ししょうぼう] (四つの愛護)を説きました。四つとは、「与えること」(布施)、「やさしく語ること」(愛語)、「ためになることを行うこと」(利行)、「協力すること」(同事)です。詳しい説明は後にゆずりますが、四摂法を国家、社会、家庭のあらゆる人間関係の基本的理念として説き示したのです。

以下で紹介する『六方礼経』というお経(経典)は、この四摂法を中心に説かれたものであると言っても過言ではありません。

(…)「世間は寄り合い、依り合い、縁り合いの場」と考えて、友人関係、親子関係、夫婦関係、師弟関係、労使関係などで「四つの愛護」を実行すれば、必ず平和な人間関係が実現できると、この経典の中でブッダは説いているのです。(pp.17)


『六方礼経』の六方の由来は、東西南北・上下の六つの方角である。この経典は、六つの方角へ漫然と礼拝している資産家の息子、シンガーラ青年に対して、釈尊(=ブッダ)が、方角に礼拝するとき込めるべき正しい意義を述べ、もって特に世俗生活の倫理を説いたものである。東・西・南・北・上・下の六つの方角について、親子・師弟・夫婦・友人・労使・聖俗の六つの関係を配置して説く。

当たり前のことを説くのが現代では大切なのかもしれないが、その捉え方は私には一面的に思える。この本の著者は、この教えが、在俗のいずれ財産を相続する立場の者へ向けられていることをしばしば述べる。釈尊ですら在俗の者には「その程度」しか語り得なかったと考えられれば、私には慰めがある。

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2009-02-20 15:02:49 (JST) in 心理学 経済的動機付け 仏教 中国思想 道を語り解く | | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月16日 (月)

道を語り解く − 教え説くのではなく

易経』(繋辞上伝)

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一陰一陽これを道と[]う。これを継ぐものは善なり、これを成すものは性なり。


道の先に目的地があっても道がそこで終わるわけではない。でも道を往く私には終りはあって、一生があって、一年があって、一日がある。あるとき立ち留まって逡巡する。この光陰をどうしのぐべきなのか、と。

自分には知識も、努力によって身につく能力もないことをときに感じる。私が人に伝えられる価値があることを何か言っているとすれば天賦の才からのものだ。ただし、ここでの「天賦の才」とは一般人とは優れているということをまったく意味しない。ただ時と場所を得て論を継いだだけのことだ。それが善かったとなるならありがたい。

意味があるように見えるものに意味はない。その意味がないものに意味をこめていくのは自分だ。…こういう「道」を説く言説に昔はよくつまづいた。今も嫌いじゃない。ただ、「自分」が「意味をこめていく」というのは少し違うか。それほど能動的であることを私はよしとはしなくなった。自分があることで意味が残余していく。それは確かでもなく、確かであることを願うでもなく、でも、習い性のまま寝て起きるうちに何かをなしていて、自分が願っていたことに気付くこともあり……。

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2009-02-16 14:30:42 (JST) in はじめにお読みください 中国思想 道を語り解く | | コメント (0) | トラックバック (1)