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一陰一陽これを道と謂う。これを継ぐものは善なり、これを成すものは性なり。
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道の先に目的地があっても道がそこで終わるわけではない。でも道を往く私には終りはあって、一生があって、一年があって、一日がある。あるとき立ち留まって逡巡する。この光陰をどうしのぐべきなのか、と。
自分には知識も、努力によって身につく能力もないことをときに感じる。私が人に伝えられる価値があることを何か言っているとすれば天賦の才からのものだ。ただし、ここでの「天賦の才」とは一般人とは優れているということをまったく意味しない。ただ時と場所を得て論を継いだだけのことだ。それが善かったとなるならありがたい。
意味があるように見えるものに意味はない。その意味がないものに意味をこめていくのは自分だ。…こういう「道」を説く言説に昔はよくつまづいた。今も嫌いじゃない。ただ、「自分」が「意味をこめていく」というのは少し違うか。それほど能動的であることを私はよしとはしなくなった。自分があることで意味が残余していく。それは確かでもなく、確かであることを願うでもなく、でも、習い性のまま寝て起きるうちに何かをなしていて、自分が願っていたことに気付くこともあり……。
2009-02-16 14:30:42 (JST) in はじめにお読みください 中国思想 道を語り解く | 固定リンク
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煩悩を良心によらない自由意志、仏性をイデア、正見を理性、功徳を救いの確信とする。
仏教の問題は外の革新を求めて行動する意欲の少なさにある。もし、これを変えようとするならば、たとえば《
四諦》を次のようにすれば良いのではないか。
2006-02-04 16:35:41 (JST) in はじめにお読みください 仏教 神学・教学 | 固定リンク
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特定の宗教者が、ある教義が、外部の宗教の教義からの転用であることを認めず、あくまでも自分達の歴史的なバックボーンからの内発的なものであり、創始性があると主張することがある。
多くの場合、この宗教者の意見はある意味で正しい。つまり、そのような教義に目覚め、それを迫害の可能性がある中で強く主張しようとする人間は、やはりその人生から内発的にその教義をつくり出したという自負があるからこそ、迫害と戦えるのである。
しかし、一方、それが今日まで教義として受け継がれるためには、その教義が受け入れられる基盤というものがなければ、難しい。この受け入れる側の事情として外部の宗教の教義の影響があることは、大いに考えられることである。
ところで、その「外部の宗教」についても、それがそれまで受け入れられていた根本的な理由があるはずである。その理由をあげるならば、「外部の宗教」の影響ではなく、「内発的」だと言えるが、その理由は多くの場合、「教義」の内発性を主張する宗教にとっても「外部的」な要因となる。
更新: |
01/02/05,01/02/21 |
初公開: |
2006年02月04日 16:30:39 |
2006-02-04 16:30:39 (JST) in はじめにお読みください 神学・教学 | 固定リンク
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私はキリスト教徒ではありませんが、よく言われるように旧約聖書は知識の宝庫ですし、キリスト教徒でない日本人からは軽視されることもある新約聖書も、当時の地中海圏の神学的問題について一つの結論を呈示したものとして、大変興味深いものです。
2006-01-28 23:29:43 (JST) in はじめにお読みください 新約聖書ひろい読み 旧約聖書ひろい読み | 固定リンク
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