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ブッダは慈悲の心を具現する方法として「四摂法 (四つの愛護)を説きました。四つとは、「与えること」(布施)、「やさしく語ること」(愛語)、「ためになることを行うこと」(利行)、「協力すること」(同事)です。詳しい説明は後にゆずりますが、四摂法を国家、社会、家庭のあらゆる人間関係の基本的理念として説き示したのです。
以下で紹介する『六方礼経』というお経(経典)は、この四摂法を中心に説かれたものであると言っても過言ではありません。
(…)「世間は寄り合い、依り合い、縁り合いの場」と考えて、友人関係、親子関係、夫婦関係、師弟関係、労使関係などで「四つの愛護」を実行すれば、必ず平和な人間関係が実現できると、この経典の中でブッダは説いているのです。(pp.17)
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『六方礼経』の六方の由来は、東西南北・上下の六つの方角である。この経典は、六つの方角へ漫然と礼拝している資産家の息子、シンガーラ青年に対して、釈尊(=ブッダ)が、方角に礼拝するとき込めるべき正しい意義を述べ、もって特に世俗生活の倫理を説いたものである。東・西・南・北・上・下の六つの方角について、親子・師弟・夫婦・友人・労使・聖俗の六つの関係を配置して説く。
当たり前のことを説くのが現代では大切なのかもしれないが、その捉え方は私には一面的に思える。この本の著者は、この教えが、在俗のいずれ財産を相続する立場の者へ向けられていることをしばしば述べる。釈尊ですら在俗の者には「その程度」しか語り得なかったと考えられれば、私には慰めがある。
2009-02-20 15:02:49 (JST) in 心理学 経済的動機付け 仏教 中国思想 道を語り解く | 固定リンク
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『
仏陀のいいたかったこと』(田上太秀)を読んで、十二縁起(十二因縁)と八正道を自分なりの言葉で表してみた。引用はすべて同書からで、他書は引用の引用である。
2009-02-17 12:21:57 (JST) in 仏教 神学・教学 | 固定リンク
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『
統合失調症あるいは精神分裂病』(計見一雄, 講談社選書メチエ, 2004/12/10) によると、フロイトは「人間の最も基本的な衝動とは何か」という問いに eros (生の本能、libido) と thanatos (死の本能) と答えたという。これについて、著者は、発達心理学では thanatos ではなく aggression だという。ハルトマンが言いはじめたそうだ。
しかし、私はやはり thanatos でいいのではないかと思う。自己と同じであるにもかかわらず、自己と違うものを消去しようとする garbage collection のような単一化欲求こそ thanatos ではないか。
2006-02-04 16:53:32 (JST) in 心理学 仏教 | 固定リンク
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仏教は、信者が新たな真実を語る預言者、すなわち、ブッダになることは肯定したが、教えを神の責任とすることを禁じた。そして、信者は、自分が必ずしも信じていないものを信じよと説く「方便」を語ることができるが、その方便を使った効果については、自らの中に確信がなければならないとする。
一方、キリスト教は、神の名のもとに教えをただ信じることを求めるが、信者が新しい真実を語る新たな預言者になることを否定した。そして、信者は、預言者ではないがゆえに、自分の伝え聞いたものを確証する手段を持たないが、自分の信じているものとして教えを語ることができる。
一方から見れば、他方は無責任に映るが、一概にどちらが誠実だとは言い難い。
仏教徒には、仮に神がいるのだとしても、人に欲望と理性を与えた以上、自分達が人のためにすることが、本当に人のためになるのならば、結果的にそれは神の評価するところになるはずであり、逆に、神にこだわることで争いをするのは無益であるという考えがある。
キリスト教徒には、神がいるのにその栄光を無視することはできないはずであり、神が人に理性と欲望を与えた以上、現世的な利益を追求することに関しても、相応の解釈によって何らかの理由が導けるという考えがある。
信徒を「受益者」という視点でみれば両者の違いというものは、それほど大きくないのかもしれない。
更新: |
01/02/08 |
初公開: |
2006年02月04日 16:36:17 |
2006-02-04 16:36:17 (JST) in 仏教 キリスト教 神学・教学 | 固定リンク
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煩悩を良心によらない自由意志、仏性をイデア、正見を理性、功徳を救いの確信とする。
仏教の問題は外の革新を求めて行動する意欲の少なさにある。もし、これを変えようとするならば、たとえば《
四諦》を次のようにすれば良いのではないか。
2006-02-04 16:35:41 (JST) in はじめにお読みください 仏教 神学・教学 | 固定リンク
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仏教は無神論であるといわれることがあるが、仏教は神や霊魂の存在を否定はしない。ただ、出家者は、神や霊魂の存在を必要条件として、儀式や道徳を導くことがないだけである。仏教の教義は、神がいようがいまいが、人々が究極的に求めるものとして設けられている。
出家者が神や霊魂を信じていてもかまわない。ただ、違う神を信じる出家者どうしが神のことを語りあえば、しばしば、より大切なことを見失いがちになる。そのような出家者にとっては、仏教の教義に基づくことこそ、そういったことを避けるための方便となる。仏教は、こうして、その土地に残る宗教と結び付き、発展してきたのである。
ただし、このような態度こそが、神をないがしろにするものであると考える宗教もある。もし、出家しようとするものが、そのような神を信じていたのならば、人々の幸せのために、敢えて外道に堕ちよと説かねばならない。一神教の信者にすれば、この点を指して無神論というのだろう。
更新: |
01/02/09 |
初公開: |
2006年02月04日 16:34:44 |
2006-02-04 16:34:44 (JST) in 仏教 | 固定リンク
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