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前提:
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1. |
超越的な(transcendant)神が存在する。
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その超越的な神は慈悲深い(benevolent)
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3. |
その超越的な神が、魂を創造して、人間が誕生したときに吹き込む[霊魂創造論]
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4. |
魂を吹き込まれないと、「人間と見分けがつかないが、魂のない」自動人形になる
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この世界に悪は存在しない
神が慈悲深い(2.)のであれば、悪など存在してはならない。従って、悪や苦難が存在するように見えても、実際には悪や苦難が存在しない。
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この世界には、悪の犠牲となる人間はいない。 "悪"の犠牲となるのは自動人形である
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誰かを殺せたら、その誰かは自動人形である
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補足になるのでしょうか。間違っていれば指摘してください。
2007-06-08 22:33:27 (JST) in キリスト教 神学・教学 | 固定リンク
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進化論が教える自然淘汰と適者生存は、それらのみではあまりにも乱暴に聞こえる。「環境要因」と呼ばれる部分におしこめられたモノや、DNA の後天的変化を否定するあまり、配偶者決定時などの後天的形質の役割が過少評価されているように、私は感じている。
そういった素朴な進化論に対抗するために、「イメージによる進化」と「形質の重ね合わせ」という概念を唱えたい。
2006-06-17 19:49:53 (JST) in キリスト教 ユダヤ教 創造論と進化論 疑似科学 | 固定リンク
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『
ギリシャ正教』を読んでそこで取り上げられているドストエフスキー作『カラマーゾフの兄弟』に興味を持った。
『大審問官』は『カラマーゾフの兄弟』の中でももっとも有名な部分である。兄のイワンが弟のアリューシャに「叙事詩」として語る物語が、この節そのものとなる。その物語のあらすじは、異端審問の嵐が吹き荒れるスペインに、なぜかキリストその人が訪れるのだが、イエズス会の老大審問官がそうと知りながらキリストを捕らえ、キリストに福音書の「悪魔の誘惑」を用いて説教をするというものである。
2006-03-06 22:13:52 (JST) in 書籍・雑誌 キリスト教 | 固定リンク
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私が持っている本で略解と「名著」以外は通読したものを紹介します。
2006-03-06 03:56:25 (JST) in キリスト教 参考文献・リンク集 | 固定リンク
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聖体の秘蹟(聖餐式または聖体機密)で用いられるパンとぶどう酒の扱いは、キリスト教の宗派によって異なり、変遷がみられる。
2006-02-15 20:54:49 (JST) in キリスト教 | 固定リンク
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聖餐式とは、キリストの処刑前夜に、自らの血と肉として、信徒にパンとぶどう酒を勧めたことに由来する儀式である。
ルターの説は、聖餐式とは、「神への契約の存続」の象徴である犠牲(キリストの血と肉であると同時にパンとぶどう酒であるもの)が天に召されることを祝い、「キリストの言葉による新たな契約」を結ぶ儀式であるとするものである。ルターは、カトリックが平信徒にはぶどう酒を与えなかったことを、改めた。
ルターとツヴィングリ、および、カルヴァンの時代になされた聖餐に関する論争は、このパンとぶどう酒を「犠牲」として見做すか否かが最大の争点であった。
2006-02-14 21:43:34 (JST) in キリスト教 神学・教学 | 固定リンク
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信仰義認説は、「信仰のみによって、原罪ある人が罪なきもの、すなわち、義と認められる」というルターの唱えた説である。義認説の目的の一つは「良心」が傲慢さであることを常に意識させようというものであろう。
予定説は、「ある人が救われるかどうかは、人からみれば非合理的かもしれない神の永遠の営みの中に予定されている」というカルヴァンの説である。これは「神の恩寵」説をより具体的な方向に展開した解釈の一変形といえる。
2006-02-04 16:42:15 (JST) in キリスト教 神学・教学 | 固定リンク
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仏教は、信者が新たな真実を語る預言者、すなわち、ブッダになることは肯定したが、教えを神の責任とすることを禁じた。そして、信者は、自分が必ずしも信じていないものを信じよと説く「方便」を語ることができるが、その方便を使った効果については、自らの中に確信がなければならないとする。
一方、キリスト教は、神の名のもとに教えをただ信じることを求めるが、信者が新しい真実を語る新たな預言者になることを否定した。そして、信者は、預言者ではないがゆえに、自分の伝え聞いたものを確証する手段を持たないが、自分の信じているものとして教えを語ることができる。
一方から見れば、他方は無責任に映るが、一概にどちらが誠実だとは言い難い。
仏教徒には、仮に神がいるのだとしても、人に欲望と理性を与えた以上、自分達が人のためにすることが、本当に人のためになるのならば、結果的にそれは神の評価するところになるはずであり、逆に、神にこだわることで争いをするのは無益であるという考えがある。
キリスト教徒には、神がいるのにその栄光を無視することはできないはずであり、神が人に理性と欲望を与えた以上、現世的な利益を追求することに関しても、相応の解釈によって何らかの理由が導けるという考えがある。
信徒を「受益者」という視点でみれば両者の違いというものは、それほど大きくないのかもしれない。
更新: |
01/02/08 |
初公開: |
2006年02月04日 16:36:17 |
2006-02-04 16:36:17 (JST) in 仏教 キリスト教 神学・教学 | 固定リンク
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「神の前での平等」とは、「人の判断には限界があり、いかに優秀な人であろうと、そうでない人であろうと、神の全能さの前では平等であるから、人は人に対して謙虚でなければならない」という考えと解釈できる。
これは、「良い努力」と「良い結果」の「良さ」の判断を疑う、「神の恩寵」と「自由意思」に対する第三の価値観であると同時に、ほとんどの論争における第三の価値観と言えるだろう。ただし、あまりこれを強調すると、権威を認めないアナーキズムに陥ることになる。
2006-02-04 16:32:19 (JST) in キリスト教 神学・教学 | 固定リンク
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神の恩寵の下で自由意思を認めるかどうかは、キリスト教圏では古くから論争となっており、現在でも決着をみていない難しい問題である。(ペラギウスとアウグスティヌスの論争)
ここでいう自由意思とは、「自らの良心に従った自由な判断とそれに基づく行為」を意味する。それに対する神の恩寵とは、「神がその慈愛によって、人の前に示した良い結果」を意味する。「自由意思」の自由は、神ではなく人にその決定を委ねられた判断や行為の自由のことである。その自由があるならば、(神の定めた範囲内かもしれないが)人の力で結果を変えうることになる。
2006-02-04 16:31:19 (JST) in キリスト教 神学・教学 | 固定リンク
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