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2009年2月17日 (火)

仏教への教義:十二縁起と八正道

仏陀のいいたかったこと』(田上太秀)を読んで、十二縁起(十二因縁)と八正道を自分なりの言葉で表してみた。引用はすべて同書からで、他書は引用の引用である。

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2009-02-17 12:21:57 (JST) in 仏教, 神学・教学 | | コメント (3) | トラックバック (0)

2007年6月 8日 (金)

悪の犠牲の「自動人形」にも救いあれ

忘却からの帰還:慈悲深い神と魂の存在を信じる者に幸いあれ》に「神が人間を創造したなら、モラルは高まる」というに対する対抗議論として次のようなことが述べられていました。

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前提:

1.
超越的な(transcendant)神が存在する。
2.
その超越的な神は慈悲深い(benevolent)
3.
その超越的な神が、魂を創造して、人間が誕生したときに吹き込む[霊魂創造論]
4.
魂を吹き込まれないと、「人間と見分けがつかないが、魂のない」自動人形になる


この世界に悪は存在しない

神が慈悲深い(2.)のであれば、悪など存在してはならない。従って、悪や苦難が存在するように見えても、実際には悪や苦難が存在しない。
この世界には、悪の犠牲となる人間はいない。 "悪"の犠牲となるのは自動人形である

(…)


誰かを殺せたら、その誰かは自動人形である


補足になるのでしょうか。間違っていれば指摘してください。

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2007-06-08 22:33:27 (JST) in キリスト教, 神学・教学 | | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年2月14日 (火)

聖餐論、聖体論争

聖餐式とは、キリストの処刑前夜に、自らの血と肉として、信徒にパンとぶどう酒を勧めたことに由来する儀式である。

ルターの説は、聖餐式とは、「神への契約の存続」の象徴である犠牲(キリストの血と肉であると同時にパンとぶどう酒であるもの)が天に召されることを祝い、「キリストの言葉による新たな契約」を結ぶ儀式であるとするものである。ルターは、カトリックが平信徒にはぶどう酒を与えなかったことを、改めた。

ルターとツヴィングリ、および、カルヴァンの時代になされた聖餐に関する論争は、このパンとぶどう酒を「犠牲」として見做すか否かが最大の争点であった。

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2006-02-14 21:43:34 (JST) in キリスト教, 神学・教学 | | コメント (0) | トラックバック (1)

象徴の利用形態

何がしかの象徴(物・行為)を用いる方法には次のものが考えられる。

1.
「真理」の一部としての象徴の刷り込み
2.
知的好奇心を刺激するための象徴
3.
「自発的」信仰表現としての象徴
4.
強制的信仰の許しまたは免罪符としての象徴

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2006-02-14 17:20:27 (JST) in 神学・教学 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年2月 4日 (土)

魂の座

意志の働きが、脳の動きによって説明できるようになった場合、霊魂がどのように意志を持つかが問題となる。次のようなモデルが考えられるだろう。

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2006-02-04 16:51:34 (JST) in 神学・教学 | | コメント (1) | トラックバック (1)

神の全知性

全知性を強調して四次元上の全知性しか考えないことは、神が予測し得ない決定を行える者を神が「創造しえない」と考えていることを意味する。すなわち神の全能性に疑問を呈しているのである。もちろん、そのような創造をできるとした場合は、神の全知性は過去の事実と将来の可能性の認識や大まかな計画に限られることになる。

全知性を強調すると、創る苦しみはあるかもしれないが、人にわかる間違いがあると考えることは難しくなる。この立場における自由意思は、人間は自由意思があると認識するのみで、実際にはないということになる。

全能性を強調する立場のほうが、いろいろバリエーションを考えることができる。

グノーシスでは、全能の創造神、全知の至高神といった解釈になるのだろう。
更新: 01/07/14
初公開: 2006年02月04日 16:50:46

2006-02-04 16:50:46 (JST) in 神学・教学 | | コメント (0) | トラックバック (0)

神は至善か、暴君か

神はどのような人間にも平等に接し、自由に選択する人間一人一人に最良の結果をもたらすよう努力して下さるのか、はたまた、神は己れの栄光のみのために、または、人間全体として最良の結果になるように、人を動かすのであって、人はその予定に従うだけであるのか。

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2006-02-04 16:49:41 (JST) in 神学・教学 | | コメント (0) | トラックバック (2)

義認説と予定説

信仰義認説は、「信仰のみによって、原罪ある人が罪なきもの、すなわち、義と認められる」というルターの唱えた説である。義認説の目的の一つは「良心」が傲慢さであることを常に意識させようというものであろう。

予定説は、「ある人が救われるかどうかは、人からみれば非合理的かもしれない神の永遠の営みの中に予定されている」というカルヴァンの説である。これは「神の恩寵」説をより具体的な方向に展開した解釈の一変形といえる。

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2006-02-04 16:42:15 (JST) in キリスト教, 神学・教学 | | コメント (0) | トラックバック (1)

仏教とキリスト教:教えの誠実さ

仏教は、信者が新たな真実を語る預言者、すなわち、ブッダになることは肯定したが、教えを神の責任とすることを禁じた。そして、信者は、自分が必ずしも信じていないものを信じよと説く「方便」を語ることができるが、その方便を使った効果については、自らの中に確信がなければならないとする。

一方、キリスト教は、神の名のもとに教えをただ信じることを求めるが、信者が新しい真実を語る新たな預言者になることを否定した。そして、信者は、預言者ではないがゆえに、自分の伝え聞いたものを確証する手段を持たないが、自分の信じているものとして教えを語ることができる。

一方から見れば、他方は無責任に映るが、一概にどちらが誠実だとは言い難い。

仏教徒には、仮に神がいるのだとしても、人に欲望と理性を与えた以上、自分達が人のためにすることが、本当に人のためになるのならば、結果的にそれは神の評価するところになるはずであり、逆に、神にこだわることで争いをするのは無益であるという考えがある。

キリスト教徒には、神がいるのにその栄光を無視することはできないはずであり、神が人に理性と欲望を与えた以上、現世的な利益を追求することに関しても、相応の解釈によって何らかの理由が導けるという考えがある。

信徒を「受益者」という視点でみれば両者の違いというものは、それほど大きくないのかもしれない。
更新: 01/02/08
初公開: 2006年02月04日 16:36:17

2006-02-04 16:36:17 (JST) in キリスト教, 仏教, 神学・教学 | | コメント (0) | トラックバック (0)

仏教への教義:四諦の独自解釈

煩悩を良心によらない自由意志、仏性をイデア、正見を理性、功徳を救いの確信とする。

仏教の問題は外の革新を求めて行動する意欲の少なさにある。もし、これを変えようとするならば、たとえば《四諦》を次のようにすれば良いのではないか。

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2006-02-04 16:35:41 (JST) in はじめにお読みください, 仏教, 神学・教学 | | コメント (2) | トラックバック (1)

神の前での平等

「神の前での平等」とは、「人の判断には限界があり、いかに優秀な人であろうと、そうでない人であろうと、神の全能さの前では平等であるから、人は人に対して謙虚でなければならない」という考えと解釈できる。

これは、「良い努力」と「良い結果」の「良さ」の判断を疑う、「神の恩寵」と「自由意思」に対する第三の価値観であると同時に、ほとんどの論争における第三の価値観と言えるだろう。ただし、あまりこれを強調すると、権威を認めないアナーキズムに陥ることになる。

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2006-02-04 16:32:19 (JST) in キリスト教, 神学・教学 | | コメント (0) | トラックバック (1)

自由意思と神の恩寵

神の恩寵の下で自由意思を認めるかどうかは、キリスト教圏では古くから論争となっており、現在でも決着をみていない難しい問題である。(ペラギウスとアウグスティヌスの論争)

ここでいう自由意思とは、「自らの良心に従った自由な判断とそれに基づく行為」を意味する。それに対する神の恩寵とは、「神がその慈愛によって、人の前に示した良い結果」を意味する。「自由意思」の自由は、神ではなく人にその決定を委ねられた判断や行為の自由のことである。その自由があるならば、(神の定めた範囲内かもしれないが)人の力で結果を変えうることになる。

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2006-02-04 16:31:19 (JST) in キリスト教, 神学・教学 | | コメント (0) | トラックバック (2)

教義の内発性と外部の影響

特定の宗教者が、ある教義が、外部の宗教の教義からの転用であることを認めず、あくまでも自分達の歴史的なバックボーンからの内発的なものであり、創始性があると主張することがある。

多くの場合、この宗教者の意見はある意味で正しい。つまり、そのような教義に目覚め、それを迫害の可能性がある中で強く主張しようとする人間は、やはりその人生から内発的にその教義をつくり出したという自負があるからこそ、迫害と戦えるのである。

しかし、一方、それが今日まで教義として受け継がれるためには、その教義が受け入れられる基盤というものがなければ、難しい。この受け入れる側の事情として外部の宗教の教義の影響があることは、大いに考えられることである。

ところで、その「外部の宗教」についても、それがそれまで受け入れられていた根本的な理由があるはずである。その理由をあげるならば、「外部の宗教」の影響ではなく、「内発的」だと言えるが、その理由は多くの場合、「教義」の内発性を主張する宗教にとっても「外部的」な要因となる。
更新: 01/02/05,01/02/21
初公開: 2006年02月04日 16:30:39

2006-02-04 16:30:39 (JST) in はじめにお読みください, 神学・教学 | | コメント (0) | トラックバック (0)