2007年11月23日 (金)

デジタル著作権の報酬請求権化に向けて

版を造れば、いくらでもコピーができる。コピーの価格が劇的に下がった時代があった。それは結局、著作者がパトロンや他の収入により支えられるという形から、版の独占を認めそこから著作者が対価を得る形に、転換がなされることにつながった。

しかし、独占権のように強い権利は必要なく、著作者の収入は基本的にはパトロン等に頼る形にして、あとは報酬請求権のような弱い権利を認めれば十分だったのではないだろうか?

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2007-11-23 00:18:12 (JST) in 知的財産, 租税制度 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年11月20日 (火)

無コピーの占有デジタルコピーの譲渡の自由:記録保全主義

集団はそこにあっても、名のついた集団は幻想である。名のついた集団を成り立たせているものを習性として人は担っている。難あって集団を守らねばならないとするとき、その習性にかけて自らを集団の中に埋葬し、希望をそこでつなぐことが求められる。その習性と健やかな関係を保ちたいと人は願う。そこに人の責務が成る。

今の時代、人は、人が為し遂げた大量の知的財産と触れあう。その触れあいに、喜びながら悲しみながら、喜びや悲しみを愉しみながら、それに自らを措定しうることを習う。知的財産は、それが自分のモノと映りながら、誰かの想いが伝わるものとして身に受ける。なぜそれが為ったかわからないところがあっても、ある知的営みがモノと為りうることにその社会の容量を想う。その多くが残りうることを示すことが、振り返ったときこの巨大な人口という集団に望みを見出すことにつながるだろう。モノとなる知的財産を継承することは人の責務である。

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2007-11-20 16:36:17 (JST) in 法の論理, 知的財産 | | コメント (0) | トラックバック (1)

2007年11月12日 (月)

文化祭と著作権の問題から私的翻案を考える

何かを誰かに表現する。そこには不安があり羞恥心があり高揚感がある。多くの人が賞賛する夢を見ても、多くの人に知ってもらいたいと思うのはずっと先のことだ。踏み出せる小さな一歩を確実に前にすすむ。誰かの言ってることなど気にしない、というのは嘘だけど、自分の表現したいことにせいいっぱいでありたい。

人は人を私的な領域に圧し込めることがあった。そこでしか表現できないものがあるように人を追い込んだ。誰かに評されることを期待してはならない。ただ正しく伝えること、そこに思いを込めるのだ。伝えられることを喜んではならない。聞いているということがリスクなのだ。許すな、想像力の込もった表現を。それが彼の出所を示し、怨讐の炎が彼を焼き尽くすことがないように。


表現を私的なものに留める理由には正当なものがある。だが、現在、その理由は幸運なことにコンプレックスでしかないだろう。まぁ、それはできるだけ個人が克服していくべきものとして、じゃあ権利としてそれを掲げるとき重要なものというと、払えるものはできるだけ払う理由を作って著作者の経済的利益を邪魔しないようにするけど、あまり高い金を要求するなら拒否できるようにもするよ、というのがあるだろう。

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2007-11-12 18:39:22 (JST) in 知的財産 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年11月 3日 (土)

消費者保護としての私的複製の骨抜き案に反対する

著作権法の次の検討課題の一つとして、第30条の私的複製への制限があがっている。中でも私が危険に感じるのは、「オーバーライド契約」により私的複製を制限できるようにしようとする「適法配信事業者から入手した著作物等の録音録画物からの私的録音録画の第30条適用範囲からの除外」(長い!)である。


サービスのイメージとしては、サーバーでの管理のもと私的複製に相当するような複製物を安価にいくらでも作れるようにするので、「私的複製」そのものは必要なくなるでしょ、というものだろう。

その際、「安価にやらせるかわりに私的複製は認めませんよ」と契約にうたい第30条をなかったことにする(オーバーライドする)。ただ、誰でも「なかったこと」にできると消費者に不利な方向に流れると簡単に予想できるので、「適法」な事業者にのみ限るわけだ。

私が問題としたいのは二点である。

個人にとって大切な思い出の外部記憶である著作物のメディアが、そう望む者が(断続的に)居つづける間にも、存在できなくなる可能性があること。

オーバーライド契約を許すという「発想」が危険で、不正があらわれそれに歯どめがかからない心配があること。


それらに対応して著作権に関するある事業規制と間接侵害規制への条件を提案する。

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2007-11-03 23:31:15 (JST) in 知的財産 | | コメント (0) | トラックバック (1)

違法サイトからのダウンロード違法化に「反対」する

著作権法 第30条の私的複製への制限として、「違法録音録画物、違法サイトからの私的録音録画の第30条の適用範囲からの除外」、俗にいう「違法サイトからのダウンロード違法化」が検討されている。

私は、下記のように概ねそのような条項を設ける妥当性を認める。しかし、インターネット消費者団体MIAUの活動に足並みをそろえ、「違法サイトからのダウンロードの違法化」に反対すると言おう。

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2007-11-03 23:09:28 (JST) in 知的財産 | | コメント (1) | トラックバック (1)

2007年3月12日 (月)

無党派層のモデルの一案

投票の際、特定の政党を排除するにはどうすればいいかを考えます。

このような選択は一見できないように思えるかもしれません。

しかし、これは、多くの人が特定の政党を排除した残りの政党の中から、くじで投票する政党を選ぶことにより、実現できます。

もちろん、くじで選んでも「特定の政党」を選んでしまうことになるわけです。しかし、他の人も同じようなくじ引きによる選択をすると、十分たくさんの投票者がいれば、「特定の政党を排除する」という選択をしたのと、ほぼ同じことになります。


「通常」のように一つの政党に絞っていくのは責任のある方法ですが、他人を信頼してくじを使うという点において、上記の方法も責任ある方法だと思います。そのような投票行動は上記のようにくじを使ってしか実現できないでしょうから。少なくとも無党派層の無投票よりは責任ある行動だと思います。

無党派層を単純にモデル化しようとすると、「一つの政党に絞る」という選択と「特定の政党を排除する」という選択のせめぎあいとして表現できるのではないでしょうか?

なお、無投票の行動については別段の考慮を必要とするでしょうが、無党派じゃない者の積極的棄権も考えなければならないことは注意を要するでしょう。
更新: 2007-03-12
初公開: 2007年03月12日 11:39:03
最新版: 2007年03月12日 12:17:00

2007-03-12 11:38:30 (JST) in 政治制度 | | コメント (0) | トラックバック (2)

2006年12月15日 (金)

なぜ人を殺してはいけないのか

理想化された経済史的解答


まず、「現代の人」が「昔の自然状態」から考えつくような解答を与えよう。

分業


人は一人では生きられない。

すべての人が武器を取り、お互いがお互いを監視し続けなければならないのならば、他にできる仕事は少なくなる。

災害があるとしても、侵略があるとしても、それに備えるために人は寄り沿わねばならない。武器を持つ者だけではだめで、誰かが武器を作ったり、農作業をしたり、知的活動をしたりしなければならない。

誰かが人を殺すようなら、それに備えて武器を持つものを増やさねばならないが、そもそも殺しあってるヒマはないのである。

だから人を殺してはいけないのである。

信用


人はうたぐり深い動物である。

誰かが殺されたとき、次に私が殺されないという保障が欲しくなる。

一人殺した人間は次にもまた一人殺すかもしれない。もし誰かが誰かを殺そうとしていることが明らかであったとしよう。その危険は私にもおよびかねないとする。私がその危険を感じ、私が誰かを殺せば、今度は私が他人にとって危険な存在となる。他人はよってたかって私を殺そうとするかもしれない。

私が殺さないということを示すことによって、互いに殺さないという信用の輪の中に入る必要がある。

だから人を殺してはいけないのである。

保険


人の生ははかないものである。人の賢さは有限である。

自分と他人が離れて住んでいることで、自分に振りかかった災厄を他人は逃れていることがある。自分達がいつか困ったときでも、他者に余祐があって助けてくれるかもしれない。

子供達は言うことを聞かなくなり、しだいに自分とは異なる価値を持っていくものである。自分はすべてを伝えられないうちにやがて死ぬが、子供達と同世代の誰かは自分が伝えたかった経験に似た経験をしているかもしれない。他人は、自分の子孫などに彼らが忘れた何かを伝えてくれるかもしれない。

人は世代に渡って「旅」をし、様々なものを身につけ育てながら往来する。育てる前のタネは「罪」ですらあったかもしれない。それでも将来の子孫どうしがなぜか必要としあってつがうかもしれない。

自分ではない他者がどこかで生きていたほうが良い。誰かがときに自分の代わりをしてくれる、または自分にできないことをしてくれる。そういう保険をかけるために自分と異なる者であっても、いや逆に異なるがゆえに生かしておいたほうが良い。

だから人を殺してはいけないのである。

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2006-12-15 17:58:48 (JST) in 法の論理 | | コメント (1) | トラックバック (1)

2006年11月 7日 (火)

「自由と平等」のレトリック

入札や輸入の条件を緩和し自由にすることで、これまで除外されていた者が機会を得て参入が可能となり、より平等に近づくことがある。

教育の機会を平等にすることで、はじめて、貧しさから脱却する自由を得られる場合がある。

「自由」と「平等」は対立する概念ではない。

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2006-11-07 19:19:28 (JST) in 法の論理 | | コメント (4) | トラックバック (1)

2006年10月25日 (水)

裁判員制度の人数構成に関する私案

2009年までに裁判員制度が実施されようとしています。遡ること 1999年に設置された《司法制度改革審議会》で、その議論がなされているときから何度か審議会にネットで匿名の投書をするなど、私は注目していました。


まず、私は陪審員制度に賛成でした。とくに、世間の関心が高い裁判についてだけでも良いから陪審員制度は必要だと思っていました。

よくいわれるように、裁判官の独善を防止することや、市民の司法に関する教化が主な理由ですが、それ以外にも理由はあります。関心の高い裁判について陪審に掛け、結果的に陪審員が世論とは逆の結論を出すことで、民の判断の独善や、陪審員を攻撃しえないマスコミの独善もただすことができると考えるからです。

裁判員制度は、問題があるとは考えていましたが、やり方によってアリかなと思いました。ただ、裁判官の主張だけが通るようにならないために、裁判員制度の人数構成や手続きにはアイデアが必要だと思いました。

今回は、主に人数構成のアイデアをその理由と共に紹介します。

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2006-10-25 00:00:01 (JST) in 司法制度 | | コメント (0) | トラックバック (1)

2006年9月11日 (月)

シリアルナンバーや ID、ポイントの譲渡を可能とする場合の考察(違法取引や資金洗浄の防止方法等)

ネット上でシリアルナンバーや ID の譲渡をできるようにするのは技術的には容易であり、ソフトウェアなどが財産性を強く帯びるにつれ、このような機構も必要になってくるだろう。

しかし、これを単純に認めてしまうと、違法取引の際にシリアルナンバーや ID をさも匿名の現金のように用いたり、盗んだクレジットカードで買ったシリアルナンバーを売り捌いて現金化する資金洗浄(マネーロンダリング)を許すことになる。

これはシリアルナンバーや ID だけでなく、場合によっては ID についたポイントの譲渡でも可能となる。

そこで大規模な資金洗浄を封じながら、シリアルナンバーなどの譲渡を許すにはどうすれば良いかを考察した。

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2006-09-11 17:41:06 (JST) in 電子金融 | | コメント (0) | トラックバック (0)