« 2006年1月 | トップページ | 2006年3月 »

2006年2月 4日 (土)

英米法と大陸法

大陸法は議員の発案を立法機関で合意する形で発達した。これは制定時には議員が、運用時には市民が、内心で判断できるように、意思形成を重視する形で法体系が整備された(意思表示論など)。その信条は「誠実な内心の動きは保護されなければならない」というものであろう。よって、罰則を与える際の根拠は、社会的制裁よりも自力更正を重視することになる。

一方、英米法は判例法として発達した。その結果、第三者である裁判官や陪審員が裁判時(法律の運用時)に客観的にみて確かめられるものを重視する形で法体系が整備された(約因論など)。その信条は「結果からしか判断できないし、判断が (社会に)もたらす結果を重視する」というものであろう。よって、罰則を与える際の根拠は、自力更正よりも社会的制裁を重視することになる。

そもそも判例法や立法機関を重視するようになったのはトラックバックにあるような説の影響でもある。自分達で立法する大陸法の思想の背景には「一部分かもしれないが、自分達の力で法という普遍性を確立できる」という思想が見えるし、判例を重視する英米法には「人の力では、垣間見える普遍性を暫定的に明文化していくことしかできない」という思想が見える。
更新: 00/11/21
初公開: 2006年02月04日 16:38:37

2006-02-04 17:38:43 (JST) in 法の論理 | | コメント (0) | トラックバック (1)

「結果」の平等、「機会」の平等

「結果」の平等は、一見、「結果」重視に思えるかもしれないがそうではない。これは、同じ「努力」をしたのならば同じ「結果」になるよう、「結果」のほうを操作すべきだという「努力」重視の考え方である。「結果」重視の人々は、むしろ、良い「結果」が得られるように「努力」するべきであるが、得られた「結果」はどのようなものであれ、甘受しなければならないと考えがちである。

「機会」の平等は、ある時点において、それまで努力をしていようがいまいが、平等なスタートラインに立てることを保証し、それ以降はたとえ運が悪かったとしても、それを受け入れなければならないという思想である。結果を報酬で量る必要は本来ないのだが、分配を経ない結果で大抵の人が評価できるものとなると報酬しかなく、普通は報酬を得る公正な方法をいかに整備するかが中心的な話題となる。

「機会」の平等は「結果」の平等の単純な対立概念ではない。成長期には「努力」重視で、収穫期には「結果」重視に移行する概念と捉えるべきであろう。

続きを読む "「結果」の平等、「機会」の平等"

2006-02-04 16:45:26 (JST) in 経済学 法の論理 | | コメント (1) | トラックバック (2)

2006年2月 3日 (金)

「不断の努力」がないことに基づく一部翻案権停止の主張

公共の福祉(憲法12条)の著作権に対する優越から翻案権の一部停止を主張します。別ディレクトリにあります→《フィギュアの写真の著作権に対する見解
初公開: 2006年01月31日 17:20:14

2006-02-03 01:30:07 (JST) in 知的財産 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年2月 1日 (水)

『顕示的消費の経済学』を読んで

顕示的消費の経済学』(Roger Mason)を、主にその中で参照されるものを読みながら、自分なりの消費者心理のモデルを考えてみる。

続きを読む "『顕示的消費の経済学』を読んで"

2006-02-01 03:22:56 (JST) in 経済学 | | コメント (0) | トラックバック (0)