「結果」の平等、「機会」の平等
「結果」の平等は、一見、「結果」重視に思えるかもしれないがそうではない。これは、同じ「努力」をしたのならば同じ「結果」になるよう、「結果」のほうを操作すべきだという「努力」重視の考え方である。「結果」重視の人々は、むしろ、良い「結果」が得られるように「努力」するべきであるが、得られた「結果」はどのようなものであれ、甘受しなければならないと考えがちである。
「機会」の平等は、ある時点において、それまで努力をしていようがいまいが、平等なスタートラインに立てることを保証し、それ以降はたとえ運が悪かったとしても、それを受け入れなければならないという思想である。結果を報酬で量る必要は本来ないのだが、分配を経ない結果で大抵の人が評価できるものとなると報酬しかなく、普通は報酬を得る公正な方法をいかに整備するかが中心的な話題となる。
「機会」の平等は「結果」の平等の単純な対立概念ではない。成長期には「努力」重視で、収穫期には「結果」重視に移行する概念と捉えるべきであろう。
結果の平等の実現においては、努力の判断が難しいため、努力を強制し、その強制についてきたものを努力したと判断しがちである。よって、強制されていない努力をしても、評価されにくいのが問題となる。
努力を見るときには、仕事を与えてみて、それをとにかく最後までやるかどうかを見る。しかし、仕事を与えるという時点で、すでにどういう仕事を与えるかという評価が入っているのである。つまり、努力できるかどうかを見ていると同時に、自分の評価が正しかったか否かを見ているのであるが、自分の評価や仕事の与え方が間違っていることに気づかず、それを相手が努力をしていないと解釈する危険がある。
機会の平等の実現においては、結果の判断が難しいため、てっとり早く指標に現れる成果だけを重視することになる。よって、指標の外に大きな被害をもたらしていても、なかなか気づかないようになるのが問題となる。
機会の平等も「平等」を名乗る以上、特許制度などの何らかの動機づけの必要性を認めている。
機会の平等の力点は、「運」またはそう見えるものを評価しようとするところにある。特に新しい技術の登場などで、どういう「努力」が結果に結び付くのかわからない場合は、機会の平等を重視しようという風潮が強くなるのは当然ともいえる。
更新: | 00/11/20,00/12/12,01/01/27,01/05/02,06/02/04 |
初公開: | 2006年02月04日 16:45:26 |
最新版: | 2010年06月16日 22:47:54 |
2006-02-04 16:45:26 (JST) in 経済学 法の論理 | 固定リンク | コメント (1) | トラックバック (2)
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コメント
更新:typo 「特に新しい技術の登場なので」→「特に新しい技術の登場などで」。
投稿: JRF | 2010-06-16 22:50:02 (JST)