行動義務と状態義務、努力義務と消極義務
努力のような内心にかかわるものは道徳であって、法ではないという議論がある。むろん、内心を完全に知ることはできないが、現実の裁判では内心を判定することは、ままある。
もちろん、それは内心そのものではなく、内心の結果である外観によってなすのではあるが、それを問題視するならば、偽証かどうかを究極的に知ることはできないし、あらゆる証言証拠もまた無効となってしまうだろう。
実際に努力しているかどうかは内心を見なければわからないが、人が、ある人の行為を努力していると判断することは現実にある。これを、何らかの結果の記述で対処しようとすると、煩雑になってしまい、現実的には、「法を理解する努力」が不可能になってしまうかもしれない。
この場合、法として記述する際は、努力の外観があることについて、「努力」の言葉を使い、その判断には柔軟性をもたせることが合理的になる。
我々は「義務の履行」というと何らかのアクションが起こされることを想起するが、「努力」を評価する場合や、《義務をすべて、対応する権利に帰着できるか?》で見たような例では特定のアクションに帰着するというよりも、ある状態であることが「義務の履行」そのものであると解釈せざるを得ないように思う。
そこで、新たな用語を与え義務を二つに大別したい。
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この用語を使えば努力義務は状態義務の履行に向けた行動義務であり、その状態義務の取消条件と言える。つまり、ある状態になるべきだが、いくつか必要なアクションを(選択的に)履行していれば、目的とする状態を「得なければならない」ということは必ずしもなくなる。
こう考えると、それと双対となるような義務も定義できそうだ。それは消極義務とでも呼ぶべきものである。
消極義務は、ある「行動」を「必要最小限に留める義務」である。これは、たとえば三権分立を脅かすおそれのある捜査など、疑いがあっても、その「疑い」が通常よりも大きくなければ、捜査をしないといった場合に必要とされるものだ。いってみれば、ある行動を起こしたければ先に性善説に立てという義務である。
消極義務は行動義務の履行を抑制するための状態義務であり、その行動義務の履行条件と言える。つまり、ある行動をする義務が定められているが、その付帯条件としてある状態を保っていなければならないというものである。
なお、「慎重」義務としなかったのは、「慎重」には、慎重でも確実にするというニュアンスがあったからで、「消極」によって、やらないことが前提となっていることを明確にする意図がある。
努力義務は、ある理想的「状態」へ向けた努力に対する義務であり、ある「行動」をし続けるだけの努力は、努力義務ではなく、行動を続けているという一種の状態義務だと考える。
ある「状態」への努力の判定基準の一つとして、ある「行動」をし続けることを挙げることはできるが、その「行動」を絶対化するならば、それは努力義務ではなく、行動の客観的基準を明示して普通の義務とすべきである。
ある曖昧な「理想的状態」を保つよう「必要最小限にとどめる義務」は、消極義務ではなく、努力義務として捉えられるべきである。消極性は、行動義務について明確で客観的な基準が存在していることを前提とし、その適用が消極的であることを求めているからだ。
「理想的だが実現困難な状態」を単純な義務とすると、どのような者でも簡単に検挙できるようになってしまう。よって高らかな理想を法として掲げたければ、そのようなことを防ぐために、状態の基準を曖昧に評価する努力義務と検挙の基準を弱める消極義務が同時に必要となろう。
「問題はあるが必要な行動」を起こさずに済むような状態に保つために努力義務があり、それでも必要なときに行動を起こすための根拠として消極義務があると言える。
更新: | 01/02/15-01/02/24,2006-03-21 |
初公開: | 2006年03月21日 18:16:31 |
最新版: | 2006年03月21日 18:16:31 |
2006-03-21 18:16:26 (JST) in 法の論理 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
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