裁判員制度の人数構成に関する私案
2009年までに裁判員制度が実施されようとしています。遡ること 1999年に設置された《司法制度改革審議会》で、その議論がなされているときから何度か審議会にネットで匿名の投書をするなど、私は注目していました。
まず、私は陪審員制度に賛成でした。とくに、世間の関心が高い裁判についてだけでも良いから陪審員制度は必要だと思っていました。
よくいわれるように、裁判官の独善を防止することや、市民の司法に関する教化が主な理由ですが、それ以外にも理由はあります。関心の高い裁判について陪審に掛け、結果的に陪審員が世論とは逆の結論を出すことで、民の判断の独善や、陪審員を攻撃しえないマスコミの独善もただすことができると考えるからです。
裁判員制度は、問題があるとは考えていましたが、やり方によってアリかなと思いました。ただ、裁判官の主張だけが通るようにならないために、裁判員制度の人数構成や手続きにはアイデアが必要だと思いました。
今回は、主に人数構成のアイデアをその理由と共に紹介します。
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人数構成と手続き
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人数構成と評決の手続きは次のようにすべきだと考えます。
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ある程度の人員と除々に増やす理由
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つまり、裁判員はあらゆる場合において、少なくとも裁判官より3人多くなります。
全員参加の議論をするためには、7人か8人ぐらいが限度だと聞いたことがあります。それを越えると、お互いに牽制することが多くなり、議論に参加することを簡単に諦めてしまったり、自分よりも良い意見を他人が持っているので、その人にまかせておけば良いなどと考えたりするようになります。
最高裁事務局は、裁判官3人市民2人のドイツ型の参審制の導入を求め、裁判官3人市民9人のフランス型の参審制は「十分な議論もなく、すぐ多数決になり、言いっ放しになる。」と評したそうです。
8人を越える12人で議論をするフランス型は、必然的に「議長」が裁判官になりがちで、プロの裁判官の意見を聞いたがために市民が自分の「未熟」な意見を言い出しにくくなるところに問題があるのだと想像します。
一方、プロとアマには当然差があります。裁判官の意見だけが通る「雷同裁判」をなくすためには、プロとアマにはある程度の人数差が必要でしょう。ドイツ型の問題はまさにその部分にあると思います。
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裁判員だけで議論する前に、裁判官が論点に関してディベートをして見せます。裁判官一人による review では、意図せずに偏った意見になってしまうことがあります。本人さえ意図しないだけに、別の人がその偏りを修正するのはたいへん難しくなります。2人の裁判官が、敢えて偏った意見でディベートをすることで、裁判員が偏った意見に影響されることを極力避けようとします。
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評決の途中で裁判官を0から順に増やしていくので、プロが直接関与しない議論から、徐々に議論に対するプロのリードが強くなることを想定しています。はじめの人数は少ないので、「すぐ多数決」にもならないと考えます。
また、常に奇数で評決することで、優勢な意見が際立つようにしています。これにより、どちらか一方に少数派としてのプレッシャーがかかることになります。もちろん、それほどのプレッシャーではないでしょうが、発言しなければ負けると感じられるほうが、議論が進めやすいのではないでしょうか。
評決が必要な多数に到らない場合、2人ずつ裁判官を足していきます。しかし、それでも意見がまとまらない場合、最終的には裁判官の「職業上の良心」を頼って、多数になることを祈るしかありません。誤解を恐れずに言えば、不誠実の罪は裁判官が負うべきだということです。
裁判の論点を整理した2人の裁判官も、評決に参加する際は、前のディベートのポジションと逆の態度を取ってもかまいません。これにより職業裁判官の「判決の責任者」としての独立性を担保します。
ところで、はじめに裁判員だけで議論させるのは、裁判員の「リーダー」となる人間を決めるためです。
議論をする人数がある程度大きくなると、議論を取りまとめるリーダーが必要になり、それは自然発生的に何人か現れます。そして、この(複数の)リーダーが議論の結果に大きな影響を与えます。
このとき、プロである裁判官が最初から議論に参加すると、かなり高い確率で裁判官がリーダーになってしまい、裁判員の独立性が失われることになりかねません。この事態を避けるために、裁判員の中からリーダーが生まれるよう、まず裁判員だけで議論させるのです。
一端、ある裁判員がリーダーとなると、彼に責任感が生まれ、裁判官の恣意的なリーダーシップにも対抗できるようになる可能性が高いと考えます。
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意見が判決に一致している裁判官が判決理由の作成をするのが望ましいですが、一致していなくてもかまいません。こういうことは現行の裁判でもあると井上様の文にもありました。判決理由の作成は「判決の責任者」としての職権には含めず、それが自分の良心と違っていてもかまわないと考えます。
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裁判の合理化のためにも、読み上げられる判決文そのものに煩雑な判決理由を付す必要はなく、判決理由の詳細は、その決定のプロセスも含めて別の形で情報公開されるべきだと考えています。その上で、判決文だけでなく、それ以外の資料を含めて、上告の理由にできるようにすれば良いでしょう。
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評決の人数の理由
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一端、「無罪」であると宣言した本人が、「有罪」であると意見を翻すことを避けるためにこのような問い方をさせます。これは一応、「無罪判決は上告できない」という現状と異なるシステムを念頭に置いているのですが、将来、そういうシステムになっても齟齬がないように、このような条件を考えています。
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裁判員による評決で「無罪」が過半数に1票だけ足りない場合、たとえ裁判官全員が「有罪」と判断しても、「有罪」にはなりません。(例えば、裁判官4人裁判員7人の場合、裁判員が4人有罪で3人無罪としているとき、裁判官4人が全員有罪としても、有罪は確定しません。)
つまり、裁判員の「無罪」(仮)評決は裁判官の評決だけでは覆りません。「有罪」評決には裁判員の責任を強く求めます。
裁判員による評決で「有罪」が優勢となっても、いまだ評決成立には至らないとき、少なくとも裁判官全員が「無罪」と判断すれば、「無罪」になります。(例えば、裁判官6人裁判員9人の場合、裁判員が6人有罪で3人無罪としているとき、裁判官5人または6人全員が無罪とすれば、無罪になります。)
つまり、裁判員の「有罪」(仮)評決は、裁判官の評決で覆りえます。「無罪」評決には「有罪」評決ほどの責任を求めません。
実は、以上のような特徴が成り立つように裁判官と裁判員の人数を調整しました。
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一人の反対者の理由
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何の議論もなく「有罪」が決まらないよう、全員が「有罪」評決に賛成することを禁じています。
これは古代ユダヤ法の裁判を参考にしています。私はこの制度を弁護士という制度がなかった時代、弁護士を半自動的に立てるための制度だったと解釈しています。
どんな極悪犯の裁判にも弁護人がいます。そのような弁護人はそれだけで反感を買うことがよくあります。たとえ、法廷の別室であっても、怒れる「シロウト」を眼前にして何の職業的弁明もなく弁護に回ることは裁判官にとっても強いプレッシャーないし裁判官全員の社会的立場の危険がかかるかもしれません。
そのとき、このような制限があるとそれに責任を置しつける形で、弁護人的な役割が安全になされるようになると考えます。
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一人の特別警備員(観察者)の理由
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事務官の表面上の職務は、評決に新たに加わる裁判官を呼んだり、暴行などがあった場合に警備員を呼んだり、トイレへの案内をしたりといった雑用です。しかし、事務官には隠れた大きな役割があり、それは「傍観すること」です。議論に参加しない冷静な人間の目の存在が、議論をする人間の客観性を保持するのに役立つはずです。
私は、この効果は意外に大きいのではないかと思っています。
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裁判員の排除の制限
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最後に、アメリカでは、偏見を持っていることを理由として、特定の陪審員を排除できる制度があります。これには、もっともらしい理由で、論理的でない陪審員を排除するという実際的な面があります。しかし、これは一般に認めるべきではないと考えます。偏見を持っている人数が、たまたま、世論と違って大きく偏っている場合に限り、その人数を調整できるに留めたほうが良いでしょう。
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最後に
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以上、裁判員制度について提案しました。司法の常識を知らないために逸脱した部分や、当たり前のことを述べている部分、私の作文の未熟さで判読できない部分があるかもしれません。私のひとりよがりの意見や提案が、取り入れられることはほとんどないと思いますが、何かの参考としてお役立ていただければ幸いです。
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参考
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更新: | 01/04/11-01/04/14, 2006-10-24 |
初公開: | 2006年10月25日 00:00:04 |
最新版: | 2006年10月25日 20:24:06 |
2006-10-25 00:00:01 (JST) in 司法制度 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (1)
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受信: 2009-02-18 12:41:27 (JST)
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