「自由と平等」のレトリック
入札や輸入の条件を緩和し自由にすることで、これまで除外されていた者が機会を得て参入が可能となり、より平等に近づくことがある。
教育の機会を平等にすることで、はじめて、貧しさから脱却する自由を得られる場合がある。
「自由」と「平等」は対立する概念ではない。
条件を緩和することで新規参入を認めた場合、既得権益を持つ者の収入、すなわち物を買う自由は失なわれる。
教育の機会の平等は、能力があるものの足を引っ張ることで実現するように見えるかもしれない。しかし、このような見方は「やる人間は私達が引き揚げなければ伸びない」という考えと対立するときに出てくる考え方である。「やる人間はどうやったって自然に伸びる」という考え方が行き過ぎであったとしても、それさえ「特定の誰か(または何か)が貴重な苗を大切に育てる」自由を否定していない。
ここにあるのは「自由」と「平等」の対立ではなく、「自由」と「自由」のトレードオフであり、「平等」を感じさせる枠組の変容である。
技術革新をはじめ社会の発展は、新商品を買う自由をはじめ、自由を増大させていく。それが新たな所得機会を産み、自由が平等に現実性を与えていくような段階もあるだろう。
しかし、「平等を求める」または広く「社会の変容を求める」といった場合、これまでの自由を犠牲にしなければならないことも多いのが現実だろう。(それでも、全体として自由を増やすような策があると私は信じたいけれども。)
ただ、そのような場合も、平等を自由と対置するレトリックにはまって、まず自由を制限するという考えに及ぶのは避けたい。
また、自由そのもの、または、平等を求める行為による「深刻な混乱」が、今の時代、不可避なものとは思いたくないし、私にできることなら、思わせたくない。
初公開: | 2006年11月07日 19:19:46 |
最新版: | 2006年11月09日 08:15:13 |
2006-11-07 19:19:28 (JST) in 法の論理 | 固定リンク | コメント (4) | トラックバック (1)
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受信: 2007-09-24 18:20:20 (JST)
コメント
更新:「特定の教師」→「特定の誰か」→「特定の誰か(または何か)」と変えた。また、参考に《悪地になった……》を足した。
投稿: JRF | 2006-11-08 22:30:07 (JST)
更新:参考から《悪地になった……》のリンクを削除した。(この間に誰も見てないようですが。)
投稿: JRF | 2006-11-09 08:17:12 (JST)
自由=自分のやりたいことができること。機会の平等のときにだけ現れる状態。
平等=機会の平等のことでした。
機会の平等=差別のない状態。・・・・自由になる。
差別=相手、他人を認めないこと。否定すること。
と、こんな簡単なことが、自分は、なぜ今まで分からなかったのかと、悔やまれます。
今の日本の法律は、自由を基本に作られています。差別をなくすように・・・。
したがって、法律違反は、差別という図式が成り立ちますね。
国内で起こっている事件や事故に照らし合わせてみたらいかがでしょうか。
投稿: 松本 栄司 | 2008-03-02 23:40:38 (JST)
ときどき自由について考えるのですが、私の力不足からか、いまだ松本様のように納得にいたることがありません。自分の考えをつきつめて考えていけば、松本様と同じ結論に達するのかもしれませんが、今のところ、そこにいたれるとは思えません。
松本様のコメントを奇貨として再び考えてみました。でも、やはり、うまいおとしどころは見つかりません。以下につらつらと書いてみますが、それは自分のブログということに甘えて、とりとめのないまま思いを表に出すものです。見苦しければ読み落としください。
……。
実は私はニートで、毎日やりたいことだけをやっている状態といえます。
自由なんでしょうね。いや、客観的には確実にそうです。日々、感謝すべきことも自覚しております。端からは差別的視線をなげかけられているのかもしれませんが、自由です。
機会……は、あったんですよね。私と学生時代に同じ境遇にいた他の人を見る限りそれは確実にあったはずです。噂で聞くところの私の下の世代や他分野とはまた違って、私には未来がありました。
私が挫折することで誰かが機会を得たのかなぁ。うーん、それならまだ救いはあるのですが、この社会、そういうシステムじゃないですしね。「誰も応募しない」というなら別ですが、一人がやめれば、そこに一人が入るというのではなく、単にその年の枠のうちの一つがつぶれる。それだけなんですよね。その枠は「青春」というものを賭けて用意されたものですから、突然その枠に該当するものを募るコストを考えれば、その対応も自然なものかな、と思います。
私は、ですね。恥ずかしながら、機会を作り出す者になりたかったのですよ。今の自分をかえりみれば消えいりそうに恥ずかしいですが、今も、ちょっとそうなりたいのですよ。恵まれた自分の責務として、新しい機会を一生を賭けてでも、求めていくべきだ……なんて、甘いですけど、本気で思ってたりするんです。
こういうの(私)を「自分探しの罠にはまった」とでもいうんでしょうね。今さらそこから動けない。ある意味、「自由ではない」んでしょう。
差別がある社会。ああ、そうなんでしょうね。別にコンプレックスのあらわれとかでなく、実際に差別があるんでしょう。そういう差別がある状態では私のような者の「自由」など問題ではないです。差別からくる機会の不平等がなくなる「いつか」まで脇目もふらず戦いはなされるべきなのでしょう。
法律違反に追い込まれる人もいる。そうですね。私もいつかそうなりそうな気がします。きっとそれは潜在的な差別状態が顕在化するということなんでしょうね。差別問題という枠にはまれればきっと社会が振り向いてくれるでしょう。引き込もりがワーキングプアとなってはじめて労働問題となったときのように。さしずめ、その枠は「人生」というものを賭けて用意されているんでしょう。
法律で機会をあたえていく。すばらしいです。法をつくる人間を信頼できる社会はすばらしいです。法が支配する社会に差別がない。時代ごとに新しい差別問題がつくられるはずなのに、それがないとは!そういう時代はほめたたえられるべきです。
……。ちょっとヒガミっぽい話になってしまいました。すみません。
アファーマティブアクションもとりいれられるほど、私が機会をつくり出し、それを分配できるようになれば、と夢想することもあります。それに向けて、できること……。まぁ、今のペースであれば、大したことはできませんが、このトシ(35)になれば、ゆっくりやっていくしかないと少し悟ったので、焦らず、やりますよ。
長文にお目を通していただき、ありがとうございました。
投稿: JRF | 2008-03-03 19:33:13 (JST)