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2006年12月15日 (金)

なぜ人を殺してはいけないのか

理想化された経済史的解答


まず、「現代の人」が「昔の自然状態」から考えつくような解答を与えよう。

分業


人は一人では生きられない。

すべての人が武器を取り、お互いがお互いを監視し続けなければならないのならば、他にできる仕事は少なくなる。

災害があるとしても、侵略があるとしても、それに備えるために人は寄り沿わねばならない。武器を持つ者だけではだめで、誰かが武器を作ったり、農作業をしたり、知的活動をしたりしなければならない。

誰かが人を殺すようなら、それに備えて武器を持つものを増やさねばならないが、そもそも殺しあってるヒマはないのである。

だから人を殺してはいけないのである。

信用


人はうたぐり深い動物である。

誰かが殺されたとき、次に私が殺されないという保障が欲しくなる。

一人殺した人間は次にもまた一人殺すかもしれない。もし誰かが誰かを殺そうとしていることが明らかであったとしよう。その危険は私にもおよびかねないとする。私がその危険を感じ、私が誰かを殺せば、今度は私が他人にとって危険な存在となる。他人はよってたかって私を殺そうとするかもしれない。

私が殺さないということを示すことによって、互いに殺さないという信用の輪の中に入る必要がある。

だから人を殺してはいけないのである。

保険


人の生ははかないものである。人の賢さは有限である。

自分と他人が離れて住んでいることで、自分に振りかかった災厄を他人は逃れていることがある。自分達がいつか困ったときでも、他者に余祐があって助けてくれるかもしれない。

子供達は言うことを聞かなくなり、しだいに自分とは異なる価値を持っていくものである。自分はすべてを伝えられないうちにやがて死ぬが、子供達と同世代の誰かは自分が伝えたかった経験に似た経験をしているかもしれない。他人は、自分の子孫などに彼らが忘れた何かを伝えてくれるかもしれない。

人は世代に渡って「旅」をし、様々なものを身につけ育てながら往来する。育てる前のタネは「罪」ですらあったかもしれない。それでも将来の子孫どうしがなぜか必要としあってつがうかもしれない。

自分ではない他者がどこかで生きていたほうが良い。誰かがときに自分の代わりをしてくれる、または自分にできないことをしてくれる。そういう保険をかけるために自分と異なる者であっても、いや逆に異なるがゆえに生かしておいたほうが良い。

だから人を殺してはいけないのである。

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2006-12-15 17:58:48 (JST) in 法の論理 | | コメント (3) | トラックバック (1)