なぜ人を殺してはいけないのか
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理想化された経済史的解答
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まず、「現代の人」が「昔の自然状態」から考えつくような解答を与えよう。
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人は一人では生きられない。
すべての人が武器を取り、お互いがお互いを監視し続けなければならないのならば、他にできる仕事は少なくなる。
災害があるとしても、侵略があるとしても、それに備えるために人は寄り沿わねばならない。武器を持つ者だけではだめで、誰かが武器を作ったり、農作業をしたり、知的活動をしたりしなければならない。
誰かが人を殺すようなら、それに備えて武器を持つものを増やさねばならないが、そもそも殺しあってるヒマはないのである。
だから人を殺してはいけないのである。
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人はうたぐり深い動物である。
誰かが殺されたとき、次に私が殺されないという保障が欲しくなる。
一人殺した人間は次にもまた一人殺すかもしれない。もし誰かが誰かを殺そうとしていることが明らかであったとしよう。その危険は私にもおよびかねないとする。私がその危険を感じ、私が誰かを殺せば、今度は私が他人にとって危険な存在となる。他人はよってたかって私を殺そうとするかもしれない。
私が殺さないということを示すことによって、互いに殺さないという信用の輪の中に入る必要がある。
だから人を殺してはいけないのである。
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人の生ははかないものである。人の賢さは有限である。
自分と他人が離れて住んでいることで、自分に振りかかった災厄を他人は逃れていることがある。自分達がいつか困ったときでも、他者に余祐があって助けてくれるかもしれない。
子供達は言うことを聞かなくなり、しだいに自分とは異なる価値を持っていくものである。自分はすべてを伝えられないうちにやがて死ぬが、子供達と同世代の誰かは自分が伝えたかった経験に似た経験をしているかもしれない。他人は、自分の子孫などに彼らが忘れた何かを伝えてくれるかもしれない。
人は世代に渡って「旅」をし、様々なものを身につけ育てながら往来する。育てる前のタネは「罪」ですらあったかもしれない。それでも将来の子孫どうしがなぜか必要としあってつがうかもしれない。
自分ではない他者がどこかで生きていたほうが良い。誰かがときに自分の代わりをしてくれる、または自分にできないことをしてくれる。そういう保険をかけるために自分と異なる者であっても、いや逆に異なるがゆえに生かしておいたほうが良い。
だから人を殺してはいけないのである。
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経済史的解答における犯罪者
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「分業」「信用」「保険」それぞれが、それぞれを補う。しかし、それにも限度があるだろう。
「分業」では、経済的理由など生きるために「他人」を殺す者を排除できない。「信用」では、ちょうど逆の構図の牽制と復讐の連鎖を止められない。「保険」では、「一人ぐらい死んでも変わらない」という無責任の広がりに対抗できない。
私の意見が正しいというバイアスを持って見ると、次のような示唆があるように思う。
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こういったことが「法理」として必要になるのは、ここにもう一つの重要な問いが隠れているためである。
それは「仕方なく人を殺してもよいのはどういうときか」という問いである。
その「一般的な問い」は危険への導きである。人は一方で生死を操る者であり、他方で残酷な機械であるからだ。人は「仕方ない」状況をワザと選ぶこともできれば、人を「仕方ない」という状況に追い込むこともできる。
「これこれこういうときは仕方がない」というのを具体的に法定せず、あくまで一般的正義を具体的事情に沿って弁証していくというのが、法の智恵なのだろう。
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経済史的解答の組織的展開
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「仕方なく」ではなく「積極的に」人を殺すことを組織が求めていくこともある。
私の意見が正しいというバイアスを持って見ると、次のような展開があるように考える。
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必要として導き出したと感じる。
分業して同じことを繰り返す努力だけでは不十分で、未知の領域を知っておかねば将来は危ういという保険的思考が、未知の物を見つけたものが優位になるという競争の正当性を生む。競争は何らかの格差を認めることを意味するが、それが社会の分業であり続けるためには分配を行う必要がでてくる。これを管理する支配が必要になる。
信用の輪は大きくても小さくても良いが、より効率的に生活するためには分業が必要になるため、その分業ができるだけの人口を支えていくための共同体が生まれる。だが、共同体となっても「他者」が(誰かの子供としてだけでなく) 生まれてしまうため、それを共同体の同意のもと力をもって排除し、または排除すると威嚇すための権力が必要になる。
他者は自動的に現れるとは限らず、誰かを犠牲にすることは慎重にしないと信用の輪が崩れる。そのため自分のできる範囲の犠牲を出す実験が正当化される。実験が規模を必要とし残酷性を増すとき、その犠牲を最小にするためには、信用の輪を越えた分業を可能にしていかねばならない。そのため自由さが認められながら見えにくさを保つ特権が必要となる。
これらの見方からは、前節の「人を殺してはいけない」という理由が薄れていく様を想像できる。支配をより効率化するために、他の支配層をなくしたり、一部の人間が先導して「革命」を起こす。「死刑」による信頼回復がはかられ、公正さの暴力による輸出が行われる。人を「辺境」に追いやったり、人が人を試すために見えない囲い込みの中で虐待が行われたり、新しい兵器(殺す準備という保険)がパワーバランスを壊し戦争を起こしてしまう。
こう考えると、私がこれまで述べてきた解答はせいぜいアナーキーな人間や、このようなフィクションを受けいれようとする人々にしか通用せず、複雑な社会にとっては無意味なものなのかもしれない。
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説得力のある解答とは?
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以上が私の解答で、合理主義的で、ある種の理想化を前提とした議論である。これでは多くの人は満足しないかもしれない。前節で示した無意味さ以外にも満足できない理由はありうる。
満足しない理由の一つが、そもそもなぜ「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いが発せられるようになり、それが驚きをもって迎えられたことに、この答えは対応していないということがある。
人が自然に持っている「殺してはいけない」という信念を「復活」させるという意味で説得力のある答えが、多くの人が求めるものなのだろう。
満足しない理由のもう一つが、さらなる問いへの答えとして十分でないというものだろう。この問いに続く、「なぜ人は殺しあってきたのか」「なぜ許さなければならないのか」「なぜ他の生き物は殺してもよいのか」などという問いにトドメを刺すことが求められるからである。
新しい問いをそれぞれわけて考えることもできる。だが、そうやって各論に入ると「屁理屈」をこねまわしていると捉えられてしまう。または、考える過程で、どれかに矛盾する答えがあったり、今でもオープンな問いがあれば、答えていないのと同じだと捉えられてしまう。だから、枝分かれさせるような答え方が好まれない面もあろう。
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他者の解答
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1997年8月15日(金)の朝日新聞のテレビ欄によるとその番組『筑紫哲也のニュース 23』はTBSで23:30から0:55放送「僕たちの戦争'97…東京・神戸・ドイツ…高校生たちのそれぞれの戦争 灰谷健次郎・柳美里と本音で語る」とある。
大江健三郎氏の「一文」は1997年11月30日(日)の朝日新聞 第4面に載ったもののようである。当時、朝日新聞はシリーズ「21世紀への提言」として様々な識者による提言を毎月掲載しており、このときは大江氏が「誇り、ユーモア、想像力」という題、「子供に自然にあるはず、人間らしさの芽 病んだ社会を笑いのめす若い心育てよう」という副題で書いている。
少し長くなるがこの「一文」を引用しよう。核となる部分がとらえにくく本当は全文を引用したいが、著作物の公正な利用としてやや問題があるかもしれないので、一部略す。
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大江健三郎氏の答えは、まさにこの問いへの「驚き」をそのまま伝えようとしたものである。ここからはじまる議論という長い解答のまず最初の一打だったのだろう。その射程は、この問いがふと個人から発されるようになった「世界の危機」からの個人的そして地球的な回復、すなわち、想像力で架橋された世界をあいかわらず前提として次の世紀に「若者」が実現するべき「自然な回復」に向けられてる。
問いが出てからずいぶんと時間もたち、多くの人が解答している。「なぜ人を殺してはいけないのか」を Google で検索するといくつかのサイトに言及があり、『なぜ人を殺してはいけないのか』(小浜 逸郎, 洋泉社, 2000年) という新書も出たようだ。
もちろん、私が最初の節で書いたようなことをよりソフトに、またはハードに表現したようなサイトもある。また、今この節でやっているようなメタな解答によって、議論の方向性を示すようなサイトもある。
他にも印象に残る論説があった。
この問いは「自分が誰かを殺したい」と述べるものではない。しかし、ストーリーとして「殺したい」と思わせる状況を想像させて、そこからの感情的反発を得ようとする解答の仕方があるようだ。これは、まだ、「信念」が残っているという前提のもと、有効だと考えているのだろう。
また、問題になった本人が「死刑になりたくない」と言ったことからか、あえて正面から解答せず、事後のリスクを重視し、殺された人の周囲や社会からの反撃、さらには、殺す際のリスクを強調する意見もあるようだ。問うた主体に応じた解答を用意する、または恐れを用意するということだろう。
なお、先の新書は、いろいろな「倫理的質問」の一つとしてこの問いを取り上げている。その章(第八問)で、まず「若者」に次のようなことを問い質したかったと述べる。
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その上でおそらくそうではない「若者」について「文脈にもよる」が次のように「当たり前に答えておけば十分」とする。
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私は「若者」ではないが「心の用意」がない人間なのでこの答えが与えられると思うのだが、はじめに「きまり」を持ってくるあたりにカチンとくるだろうし、「互いに殺し合う」のもそう簡単に起こるとは想像しがたいので、もし私が「若者」なら「解答者」をバカにしたいような衝動にかられただろう。まぁ、おそらく普通の人はそうやって心に留めれば良いということでもあるのだろう。
そういう答えを出してから著者は「人はなぜ殺してはならないと決めるようになったか」と問い直して、解答している。それを「心の用意」がない私はなんとも言いようがない。この新書は上の私の解答をだいたい書いたあとに読んだので影響は受けていないが似た部分もあるはずで、さらに私よりもずっと優れた部分もあるはずだが、私には判断できない。
ただ、この新書の最初の章(第一問)「人は何のために生きるのか」で原理に名前を付さない理由として次のように述べている。
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この点、私は反省すべきである。これこそ上の私の解答の方法である。ページに制限がないのをいいことに作業仮説まで載せているということだろう。このページをご覧の方々にはすでにわかりきったことであったのかもしれないが、私の解答に乱用があることはご留意いただきたい。
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参考
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投稿時期(2006-12-15)の「なぜ人を殺してはいけないのか」に関するブログ
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| 更新: | ,2006-11-29,2006-11-30,2006-12-11,2006-12-15,2008-02-07 |
| 初公開: | 2006年12月15日 17:58:53 |
| 最新版: | 2008年02月07日 21:57:22 |
2006-12-15 17:58:48 (JST) in 法の論理 | 固定リンク | コメント (1) | トラックバック (1)
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「人を殺してはいけない」という規範は、戦争を始めとした現代社会の問題を考える上で重要なものである一方、メディアや客観性との関係でコミュニケーションの特性を考える上でも重要な規範です。今回の記事では、「人を殺してはいけない」という規範がどうやって成立しているか、情報学的観点から整理してみたいと思います。... 続きを読む
受信: 2007-03-05 13:38:05 (JST)
コメント
更新:大江健三郎氏の「一文」よりの引用を加えた。
投稿 JRF | 2008-02-07 21:58:28 (JST)