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2006年12月15日 (金)

なぜ人を殺してはいけないのか

理想化された経済史的解答


まず、「現代の人」が「昔の自然状態」から考えつくような解答を与えよう。

分業


人は一人では生きられない。

すべての人が武器を取り、お互いがお互いを監視し続けなければならないのならば、他にできる仕事は少なくなる。

災害があるとしても、侵略があるとしても、それに備えるために人は寄り沿わねばならない。武器を持つ者だけではだめで、誰かが武器を作ったり、農作業をしたり、知的活動をしたりしなければならない。

誰かが人を殺すようなら、それに備えて武器を持つものを増やさねばならないが、そもそも殺しあってるヒマはないのである。

だから人を殺してはいけないのである。

信用


人はうたぐり深い動物である。

誰かが殺されたとき、次に私が殺されないという保障が欲しくなる。

一人殺した人間は次にもまた一人殺すかもしれない。もし誰かが誰かを殺そうとしていることが明らかであったとしよう。その危険は私にもおよびかねないとする。私がその危険を感じ、私が誰かを殺せば、今度は私が他人にとって危険な存在となる。他人はよってたかって私を殺そうとするかもしれない。

私が殺さないということを示すことによって、互いに殺さないという信用の輪の中に入る必要がある。

だから人を殺してはいけないのである。

保険


人の生ははかないものである。人の賢さは有限である。

自分と他人が離れて住んでいることで、自分に振りかかった災厄を他人は逃れていることがある。自分達がいつか困ったときでも、他者に余祐があって助けてくれるかもしれない。

子供達は言うことを聞かなくなり、しだいに自分とは異なる価値を持っていくものである。自分はすべてを伝えられないうちにやがて死ぬが、子供達と同世代の誰かは自分が伝えたかった経験に似た経験をしているかもしれない。他人は、自分の子孫などに彼らが忘れた何かを伝えてくれるかもしれない。

人は世代に渡って「旅」をし、様々なものを身につけ育てながら往来する。育てる前のタネは「罪」ですらあったかもしれない。それでも将来の子孫どうしがなぜか必要としあってつがうかもしれない。

自分ではない他者がどこかで生きていたほうが良い。誰かがときに自分の代わりをしてくれる、または自分にできないことをしてくれる。そういう保険をかけるために自分と異なる者であっても、いや逆に異なるがゆえに生かしておいたほうが良い。

だから人を殺してはいけないのである。
経済史的解答における犯罪者


「分業」「信用」「保険」それぞれが、それぞれを補う。しかし、それにも限度があるだろう。

「分業」では、経済的理由など生きるために「他人」を殺す者を排除できない。「信用」では、ちょうど逆の構図の牽制と復讐の連鎖を止められない。「保険」では、「一人ぐらい死んでも変わらない」という無責任の広がりに対抗できない。

私の意見が正しいというバイアスを持って見ると、次のような示唆があるように思う。

罪ある者でも生かそうとする「保険」と自分やその子は罪を犯すことがあり、それに厳しくあれないという「信用」の限界が、刑からの許しを示唆する。

複讐のための条件を欲する「信用」と武器をとる者が常にいるわけではないという「分業」の限界が、正当防衛を示唆する。

職業的にまかさなければならない「分業」と無責任を正当化してしまう「保険」の限界が、過失責任を示唆する。


こういったことが「法理」として必要になるのは、ここにもう一つの重要な問いが隠れているためである。

それは「仕方なく人を殺してもよいのはどういうときか」という問いである。

その「一般的な問い」は危険への導きである。人は一方で生死を操る者であり、他方で残酷な機械であるからだ。人は「仕方ない」状況をワザと選ぶこともできれば、人を「仕方ない」という状況に追い込むこともできる。

「これこれこういうときは仕方がない」というのを具体的に法定せず、あくまで一般的正義を具体的事情に沿って弁証していくというのが、法の智恵なのだろう。


経済史的解答の組織的展開


「仕方なく」ではなく「積極的に」人を殺すことを組織が求めていくこともある。

私の意見が正しいというバイアスを持って見ると、次のような展開があるように考える。

分業と保険が競争を、競争の上でも信用がなりたつよう分配のための支配を、
信用と分業が共同体を、共同体が保険として公正のための権力を、
保険と信用が実験を、実験を見えないよう分業し犠牲を活かすための特権を、


必要として導き出したと感じる。

分業して同じことを繰り返す努力だけでは不十分で、未知の領域を知っておかねば将来は危ういという保険的思考が、未知の物を見つけたものが優位になるという競争の正当性を生む。競争は何らかの格差を認めることを意味するが、それが社会の分業であり続けるためには分配を行う必要がでてくる。これを管理する支配が必要になる。

信用の輪は大きくても小さくても良いが、より効率的に生活するためには分業が必要になるため、その分業ができるだけの人口を支えていくための共同体が生まれる。だが、共同体となっても「他者」が(誰かの子供としてだけでなく) 生まれてしまうため、それを共同体の同意のもと力をもって排除し、または排除すると威嚇すための権力が必要になる。

他者は自動的に現れるとは限らず、誰かを犠牲にすることは慎重にしないと信用の輪が崩れる。そのため自分のできる範囲の犠牲を出す実験が正当化される。実験が規模を必要とし残酷性を増すとき、その犠牲を最小にするためには、信用の輪を越えた分業を可能にしていかねばならない。そのため自由さが認められながら見えにくさを保つ特権が必要となる。


これらの見方からは、前節の「人を殺してはいけない」という理由が薄れていく様を想像できる。支配をより効率化するために、他の支配層をなくしたり、一部の人間が先導して「革命」を起こす。「死刑」による信頼回復がはかられ、公正さの暴力による輸出が行われる。人を「辺境」に追いやったり、人が人を試すために見えない囲い込みの中で虐待が行われたり、新しい兵器(殺す準備という保険)がパワーバランスを壊し戦争を起こしてしまう。

こう考えると、私がこれまで述べてきた解答はせいぜいアナーキーな人間や、このようなフィクションを受けいれようとする人々にしか通用せず、複雑な社会にとっては無意味なものなのかもしれない。


説得力のある解答とは?


以上が私の解答で、合理主義的で、ある種の理想化を前提とした議論である。これでは多くの人は満足しないかもしれない。前節で示した無意味さ以外にも満足できない理由はありうる。


満足しない理由の一つが、そもそもなぜ「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いが発せられるようになり、それが驚きをもって迎えられたことに、この答えは対応していないということがある。

人が自然に持っている「殺してはいけない」という信念を「復活」させるという意味で説得力のある答えが、多くの人が求めるものなのだろう。


満足しない理由のもう一つが、さらなる問いへの答えとして十分でないというものだろう。この問いに続く、「なぜ人は殺しあってきたのか」「なぜ許さなければならないのか」「なぜ他の生き物は殺してもよいのか」などという問いにトドメを刺すことが求められるからである。

新しい問いをそれぞれわけて考えることもできる。だが、そうやって各論に入ると「屁理屈」をこねまわしていると捉えられてしまう。または、考える過程で、どれかに矛盾する答えがあったり、今でもオープンな問いがあれば、答えていないのと同じだと捉えられてしまう。だから、枝分かれさせるような答え方が好まれない面もあろう。


他者の解答


この問いが有名になったのは《mki-063:なぜ人を殺してはいけないのか―道徳と倫理の根底》(今はGoogleなどのキャッシュにしかない)によると次のような経緯があったようだ。

>
なぜ人を殺してはいけないのか。この問いについては1997年の夏にちょっとした「事件」があった。終戦記念日にちなんで、筑紫哲也氏がキャスターを務めるテレビニュース番組『ニュース23』(TBS制作)が企画・放送した「ぼくたちの戦争'97」という特集コーナーで、高校生たちが大人たちと討論する中、一人の高校生が大人たちに何気なくこの問いを投げかけたのだ。しかし、そこにいる大人たちはこれにうまく答えられなかった。ご記憶の方もいるだろう。遅きに失するが、思うところがあって、この問いについて愚考をめぐらせてみたい。

討論の背景としては、少年による凶悪な殺人事件が相次ぎ、それについてどう思うかということがあった。その高校生自身は素直に「どうしていけないのかを教えてほしい」というニュアンスで尋ねただけで、大人たちを詰問するような意図はなかった。それが証拠に「自分は死刑になりたくないからという理由しか思い当たらない」のだが、と続けている。大人たちは予期せぬ問いにどう答えたら良いものかわからず、恥をかかされた格好になったわけだ。

その後、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いにどう答えるかが各所で話題となり、ノーベル賞作家大江健三郎氏も朝日新聞に一文を認めた。そこで大江氏はこの問いを発すること自体に不道徳を嗅ぎ取っている。つまり、なぜこのような問いを発してしまうのか、それこそが問題だと論じたのである。この「道徳的」な物言いは、現代における「言葉狩り」、つまりは思考封鎖のタブーにつながっている。

殺人だけではない。例えば「反戦」は無条件、無根拠に道徳的だとされる。戦争や軍隊、また改憲について語ること自体で好戦主義者だと見なされるのは周知のことであろう。また「男女平等」や「差別反対」、また「民主主義」といった言葉なども「道徳的」な力を持っている。道徳の前には、さすがの事実や正義もひれ伏すようなあり様である。しかし、言語矛盾的だが、現代の道徳は果たして本当に道徳的であるのか。



1997年8月15日(金)の朝日新聞のテレビ欄によるとその番組『筑紫哲也のニュース 23』はTBSで23:30から0:55放送「僕たちの戦争'97…東京・神戸・ドイツ…高校生たちのそれぞれの戦争 灰谷健次郎・柳美里と本音で語る」とある。

大江健三郎氏の「一文」は1997年11月30日(日)の朝日新聞 第4面に載ったもののようである。当時、朝日新聞はシリーズ「21世紀への提言」として様々な識者による提言を毎月掲載しており、このときは大江氏が「誇り、ユーモア、想像力」という題、「子供に自然にあるはず、人間らしさの芽 病んだ社会を笑いのめす若い心育てよう」という副題で書いている。

少し長くなるがこの「一文」を引用しよう。核となる部分がとらえにくく本当は全文を引用したいが、著作物の公正な利用としてやや問題があるかもしれないので、一部略す。

>
■ 直観に逆らう無意味な問い

テレビの討論番組で、どうして人を殺してはいけないのかと若者が問いかけ、同席していた知識人たちは直接、問いには答えなかった。

私はむしろ、この質問に問題があると思う。まともな子供なら、そういう問いかけを口にすることを恥じるものだ。なぜなら、性格の良しあしとか、頭の鋭さとかは無関係に、子供は幼いなりに固有の誇りを持っているから。そのようにいう根拠を示せといわれるなら、私は戦時の幼少年時についての記憶や、知的な障害児と健康な子供を育てた家庭での観察にたって知っていると答えたい。

人を殺さないということ自体に意味がある。どうしてと問うのは、その直観にさからう無意味な行為で、誇りのある人間のすることじゃないと子供は思っているだろう。こういう言葉こそ使わないにしても。そして人生の月日をかさねることは、最初の直観を経験によって充実させてゆくことだったと、大人ならばしみじみと思いあたる日があるものだ。

■ 公正な教育で自信なくすか

誇りの感覚。人間に自然にある深いもの、ゆずれぬものとして、それをいうけれど、このところ私が子供たちの誇りの感覚にてういて考えることがしばしばあったのは、すでに最近ともいえぬほど永い間マスコミをにぎわせている、新しいナショナリズムの現代史教育論に呼びさまされてのことだ。

(…)

人間の自己中心の思い込み、あやまちをしやすいことについて反省をもたらされても――それがまず人間らしさの教育の基本である――どうして新しい子供らの自信と誇りが損なわれるだろう?いったん傷ついても、よし、自分らは明日のアジアでこれとは違う人間関係、国の関係をつくろうと思いたつのが、若い人間本来の自然な回復の力ではないか?

むしろ、成人して国際的な環境で仕事をする時、現代史への無知と、そのおかげで克服できなかった鈍感さを思い知らされて味わわねばならぬ苦しみと、もう償いようはないのかと打ちのめされる思いについてなら、私自身経験してきた。そこからの立ちなおりと、それをさせてくれた、アジアとアメリカ、ヨーロッパの批判者たちの寛容についても深く記憶している。

(…)

さきに引用したヒーニーの言葉に、二十世紀の文学が引き受けた、人間の想像力の特質は示されている。かつて若い私も、自分の生きている世界と社会の危機と感じられるものを、自分の個人的な危機から引き離すことができず、なんとか小説に表現して乗り越えたいと思った。

■ 危機のサイン 個人だけ過剰

わが国で、いま隆盛をきわめるサブ・カルチャーとはまた別のシリアスな文学が若い読者を失っている。責任のなかばは、私ら文学にたずさわる者にある。しかし、もう半分は、若者たちがオーデン的な想像力を鍛えようとしないことにあると思う。新しいガイドラインによってこの国の危機はアジアの危機と一枚岩にされたし、この国の環境や核の課題は、世界の危機でもある。子供ら、若者たちの個人的な危機のサインは過剰なほどだ。しかし、それらを似通ったものとしてとらえる想像力が、新世代に欠けているのではないか?

(…)

また文学による想像力の訓練は、大人の衰弱が、あるいはもっと悪い意図的な企みが、社会と個人について作り出す硬化したモデルに対して、それらを笑いのめすユーモアを育てる。若者らともども、われわれ大人も子供だった昔を思い出して、誇りとユーモアをそなえた自分と、社会、世界への束縛されない想像力を回復しようではないか。どうやって人を殺さないようにするか、それを地球的な制度として次の世紀に実現するためにも、まず必要なこととして。



大江健三郎氏の答えは、まさにこの問いへの「驚き」をそのまま伝えようとしたものである。ここからはじまる議論という長い解答のまず最初の一打だったのだろう。その射程は、この問いがふと個人から発されるようになった「世界の危機」からの個人的そして地球的な回復、すなわち、想像力で架橋された世界をあいかわらず前提として次の世紀に「若者」が実現するべき「自然な回復」に向けられてる。

問いが出てからずいぶんと時間もたち、多くの人が解答している。「なぜ人を殺してはいけないのか」を Google で検索するといくつかのサイトに言及があり、『なぜ人を殺してはいけないのか』(小浜 逸郎, 洋泉社, 2000年) という新書も出たようだ。

もちろん、私が最初の節で書いたようなことをよりソフトに、またはハードに表現したようなサイトもある。また、今この節でやっているようなメタな解答によって、議論の方向性を示すようなサイトもある。

他にも印象に残る論説があった。

この問いは「自分が誰かを殺したい」と述べるものではない。しかし、ストーリーとして「殺したい」と思わせる状況を想像させて、そこからの感情的反発を得ようとする解答の仕方があるようだ。これは、まだ、「信念」が残っているという前提のもと、有効だと考えているのだろう。

また、問題になった本人が「死刑になりたくない」と言ったことからか、あえて正面から解答せず、事後のリスクを重視し、殺された人の周囲や社会からの反撃、さらには、殺す際のリスクを強調する意見もあるようだ。問うた主体に応じた解答を用意する、または恐れを用意するということだろう。


なお、先の新書は、いろいろな「倫理的質問」の一つとしてこの問いを取り上げている。その章(第八問)で、まず「若者」に次のようなことを問い質したかったと述べる。

切実な必要からその問いを絞り出しているのか。
倫理や道徳の起源と系譜について真剣に考え続けていくだけの心の用意があるか。


その上でおそらくそうではない「若者」について「文脈にもよる」が次のように「当たり前に答えておけば十分」とする。

>
「それは大事なきまりとなっているからで、このきまりを破ってもいいことになるとみんなが互いに殺し合いをするようになりかねず、そうすると社会が目茶苦茶になってしまうからだ」。


私は「若者」ではないが「心の用意」がない人間なのでこの答えが与えられると思うのだが、はじめに「きまり」を持ってくるあたりにカチンとくるだろうし、「互いに殺し合う」のもそう簡単に起こるとは想像しがたいので、もし私が「若者」なら「解答者」をバカにしたいような衝動にかられただろう。まぁ、おそらく普通の人はそうやって心に留めれば良いということでもあるのだろう。

そういう答えを出してから著者は「人はなぜ殺してはならないと決めるようになったか」と問い直して、解答している。それを「心の用意」がない私はなんとも言いようがない。この新書は上の私の解答をだいたい書いたあとに読んだので影響は受けていないが似た部分もあるはずで、さらに私よりもずっと優れた部分もあるはずだが、私には判断できない。

ただ、この新書の最初の章(第一問)「人は何のために生きるのか」で原理に名前を付さない理由として次のように述べている。

>
(…)というのも、そういう命名行為を初めのほうでしてしまうと、しばしば神秘的で独りよがりな断定に陥りやすく、本来、思考を発展させていくための作業仮説にすぎないものを、いつの間にか公認の原理であるとして乱用する結果になりがちだからである。


この点、私は反省すべきである。これこそ上の私の解答の方法である。ページに制限がないのをいいことに作業仮説まで載せているということだろう。このページをご覧の方々にはすでにわかりきったことであったのかもしれないが、私の解答に乱用があることはご留意いただきたい。


更新: ,2006-11-29,2006-11-30,2006-12-11,2006-12-15,2008-02-07
初公開: 2006年12月15日 17:58:53
最新版: 2008年02月07日 21:57:22

2006-12-15 17:58:48 (JST) in 法の論理 | | コメント (3) | トラックバック (1)

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受信: 2007-03-05 13:38:05 (JST)

コメント

更新:大江健三郎氏の「一文」よりの引用を加えた。

投稿: JRF | 2008-02-07 21:58:28 (JST)

「なぜ人を殺してはいけないの?」

この問いは、1997年8月15日、 TBS ニュース23》故筑紫哲也がキャスターを務めたテレビ番組『ニュース23』が企画・放映した「ぼくたちの戦争’97」という特集コーナーで、高校生たちが大人たちと討論する中、ある高校生がこの問いを投げかけ、さらに「自分は死刑になりたくないからという理由しか思い当たらない」のですが、と続けています。この生徒は大人からの本当の答えがほしかったのです、大人達に救いを求めていたのです。

しかし、キャスターの筑紫哲也はもとより、ゲストとして同席していた大江健三郎、その他の所謂知識人達も、誰一人、答えることができなかったのです。

同年、朝日新聞で大江健三郎の「誇り、ユーモア、想像力」と題されたコメントが掲載されました。(朝日新聞 1997.11.30 朝刊)

「テレビの討論番組で、どうして人を殺してはいけないのかと若者が問いかけ、同席した知識人たちは直接、問いには答えなかった。(中略)私はむしろ、この質問に問題があると思う。まともな子供なら、そういう問いかけを口にすることを恥じるものだ。そこにいた誰も、右往左往するばかりで、まともに答えられなかったのだ。あれだけの知識人がそろっているのに、子供の質問にすらまともに答えられないのかと、世間は嘲笑した。そのようにいう根拠を示せといわれるなら、私は戦時の幼少年時についての記憶や、知的な障害児と健常な子どもを育てた家庭での観察にたって知っていると答えたいなぜなら、性格の良し悪しとか、頭の鋭さとかは無関係に、子どもは幼いなりに固有の誇りを持っているから。。(中略)人を殺さないということ自体に意味がある。どうしてと問うのは、その直観にさからう無意味な行為で、誇りのある人間のすることじゃないと子どもは思っているだろう。こういう言葉こそ使わないにしても。そして人生の月日をかさねることは、最初の直観を経験によって充実させてゆくことだったと、大人ならばしみじみと思い当たる日があるものだ。」

これは、無慈悲に生徒をなじいるだけではなく、知識人としてはあるまじき「直観」を持ち出してくるとは、全く、人間失格であり、知識人失格と断罪ぜざるを得ません。

「なぜ人を殺してはいけないの?」という問を出した生徒は、一体、何を問うていたのでしょうか。この生徒がコトバに表せない本当の問は何だったのでしょうか。
この生徒は「自分は死刑になりたくないからという理由しか思い当たらない」ということを知っているのです。つまり、私たち「人間社会の秩序を維持」するために、「殺してはいけない」ということぐらいのことは知っていると主張した上で、この生徒は、人間の尊厳を賭けて、実存を賭けて、自分自身で「殺してはいけない」本源的な理由を知りたかったのです。言い換えれば、「主体なき理性」で単に知識として知るだけではなく、「主体ある理性」すなわち意志と感情を伴った全人格を賭して知りたかったのです。

この生徒の切なる問いに答えるには、「一体、私たちに自由はあるのか?」という根本的な問いに答えなければなりません。自由がないところに倫理は成立しません、自然必然の法則に従って生きるだけなら、善悪を問うことはできません。この自然のルール(自然の摂理)に加えて、社会のルール、人間のルールに従うこということになれば、そこには私たちの自由は全くありません。

仏教は「人間の自由」について、既に2500年前に単純明確に答えを出しています。

「私たちの自由とは、自然必然の法則を無視して勝手に生きることではない、生きられるはずもない、むしろ、自然必然の法則に則り、自らのものとして、積極的に自然必然を活用する、すなわち<使然>の立場に立てば自由である。」

「また、社会からの自由を求めるならば、<人知>を客観視し、<人知の専横>を許さないことである。知は真偽、情は美醜、意は善悪というそれぞれの領分かある。<人知>は分別知であり、相対知であり、<関係知>である。関係の中に住む以上自由はない。」

「善悪は<人知>の産物である。善も悪もない世界、それが三昧の世界である。三昧には<自然の知=無知の知>と意志と感情とがある。三昧とはただ物事に<感情移入>し、物事と一つになることである、物事と一致するとき、そこに「慈悲>愛」が現成する。慈悲あるところに悪がある筈がない。善悪に苦しむより、三昧を楽しむことである。」

現代の最大の問題は<知の情意に対する越権><主体なき理性の専横><知の全体主義>なのです。大江健三郎その他の所謂知識人の存在そのものが悪なのです。若者達はこの<知の全体主義>の中で圧死寸前なのです。若者達をこの息苦しい(生き苦しい)世界から救出するには、単純に<感情移入>の骨を伝授することです。<感情移入>とは決して知識ではなく、行為であり、行動であり、体験なのです。<感情移入>のあるところには決して悪はありません、倫理判断に迷うこともありません。若者をして、何事にも<感情移入>ができる自分に、自分自身が仕立て上げられるうように、私たちは大人は、無言で寄り添いながら、機会を与えればいいのです。

[omit-info: 9952 hmac_sha1_base64:dCVb33xdFO4o0vE4yfttFvrlSgc aes_base64:Fzrow00yDAxYfG/LD5/+s5HSCms9LJ88LWznq2EjTCDWJsE]

投稿: eegge | 2016-05-22 04:14:06 (JST)

shoe 例えば「エロ本を買う自由」のためには、社会的な寛容さももちろんですが、本を造るために働く人々が必要です。そして、そもそもカラー印刷技術が発展するためには様々な革新が必要だったことも想像できます。私にとって自由とは「拡大していく自由」で、そこには革新にともなうマイナス面もあろうとは思いますが、それを補う社会のルールも自由に必要なものとして考えられます。社会のルール、人間のルールは、自由のためにむしろ必要なものと私は考えます。

自然必然の法則に従って生きているだけでも、裁きによる善悪とは意味が違いますが、自分にとって善い結果、悪い結果というのはでてきます。「拡大していく自由」も、一つの善い結果でしょう。

感情移入については二者の場合をここでは特に考える必要があると思います。一つは、犯人側への感情移入、もう一つは、被害者側、すなわち、犯人にとっては敵側への感情移入です。

犯人側に感情移入する場合、もちろん、それで犯人のようになってしまうのではなく、犯人の動機を知り、実行に先まわりして手を打つということになるのでしょう。その先には単に感情を知るだけでなく、行動・行為として、犯行を予測し防ぐ何らかの革新的手段の考案があるかもしれません。

犯人となるべき人が敵とみなした側に感情移入する場合、敵から見れば自分もゆえあって悪であることを知るということになるでしょう。自分にとっての善い結果、悪い結果というのは自分勝手な判断ですから、自分にも悪がないわけではないことを知らねばなりません。信用の輪。敵意を敵意で返しては社会は成り立たないことを悟って、共に悪を去る一般的な方法を考案していければ「拡大していく自由」に寄与できるかもしれません。

「考案」は、知の拡大・その全体主義にすぎないといわれるかもしれません。しかし、現状に留まらず、善い結果に賭けていく心の働き(すなわち「起」「機」)は、行為であり、行動であり、体験なのだと私は思います。

「……と思っていました。」ですね。正確には。今の私は「革新」にそれほど夢を抱けなくなっています。

私はこれまでブログでの活動・趣味的なプログラミングを通じて、自分なりに「革新」の方向を目指しているつもりでいましたが、稼ぐまでになるどころかまったく注目を浴びることができませんでした。今になって、そうやって自分がやってきたことがとても無益なことのように思えるようになりました。今までの態度を延長して何かの達成といえることはもうなく、「死んだほうがマシ」だという状態を生きていると思うようになっています。

精神病である私は、尊厳死・自殺幇助・慈悲殺が認められて死なせてもらったほうが楽なのではないかと考えることもあります。もちろん、尊厳死等は、人をそこに社会が追い込んだりするようになるなど副作用が強いため法的には慎重な対応が必要ですが、自分一人で善い悪いを見れば、「死ぬ権利」を認めてもらえる社会のほうが善いように私は感じてしまっています。

そういう思いを抱きながら引きこもっている私は、ボランティアであったり、普通の仕事であったり、革新ではない「何でもないこと」に参加させてもらえることに憧れを抱きはじめています。「何でもないこと」を人と同じくできるということはすばらしいことなのです。昔ならば「人生の墓場」と心の片隅では思っていたかもしれないことを、そう悟るともなく「安息の地」として受け容れ心穏やかに過ごせる。そういう行為・行動・体験に皆が憧れられるならドラマやニュースでやるような「殺人」を犯す者はいなくなるのでしょうね。

なんか、暗い話にしてしまいました。

ともかく。この度は、人の訪れることの少ないこのサイトに、貴重なコメント、ありがとうございました。

投稿: JRF | 2016-05-24 19:07:04 (JST)

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