消費者保護としての私的複製の骨抜き案に反対する
著作権法の次の検討課題の一つとして、第30条の私的複製への制限があがっている。中でも私が危険に感じるのは、「オーバーライド契約」により私的複製を制限できるようにしようとする「適法配信事業者から入手した著作物等の録音録画物からの私的録音録画の第30条適用範囲からの除外」(長い!)である。
サービスのイメージとしては、サーバーでの管理のもと私的複製に相当するような複製物を安価にいくらでも作れるようにするので、「私的複製」そのものは必要なくなるでしょ、というものだろう。
その際、「安価にやらせるかわりに私的複製は認めませんよ」と契約にうたい第30条をなかったことにする(オーバーライドする)。ただ、誰でも「なかったこと」にできると消費者に不利な方向に流れると簡単に予想できるので、「適法」な事業者にのみ限るわけだ。
私が問題としたいのは二点である。
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それらに対応して著作権に関するある事業規制と間接侵害規制への条件を提案する。
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引き継ぐための私的複製は必要
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詳しく述べよう。まず第一点目から。
知的動物である人にとって文化の継承は本質的営みといって良い。しかし一方、この時代までの流れから見て、すべての著作物が文化として次の代に引き継がれることがないのも事実だろう。
引き継がれるものが限られているとすれば、誰が引き継ぐべき著作物を決めるのか。
いつかは死ぬ個人ではなく、公的機関の補助や永続するための機構を備えた私的機関の決定があれば、もちろん、著作物を引き継ぎ易いだろう。しかし、個人がビデオデッキやパソコンを所有できる時代、それを決めるのは究極的に個人であるべきだと私は思う。
個人が「著作物」を残すといったとき、その書いた文章ですべてを残そうとする必要はない。他の人の著作物を使って自分の思いを代弁させたり、その時代性を表したりすることも許すべきだ。それらは大切な思い出の外部記憶なのである。
残した著作物を自分の子供が観なくても誰かが観てくれるかもしれない。著作物を記録したメディアが残っていれば、時の断層を超えうるのである。
しかし、メディアそのものが使えなくなることもある。破損してしまったり、再生をするための機器が手に入らなくなったり。
そのとき、再生できる代替物を市場から再び手に入れることができるだろうか。仮に手に入れられたとしても、とても貴重なものとなっていた場合、それを再び必要とした自分の管理に入れることが、妥当だと思うだろうか。
バックアップとしての私的複製を作ることができるならば、事前に備えることもできるし、壊れたときに同じものを持っている人に頼んでバックアップと同等のことをしてもらうこともできるだろう。バックアップに特別な技術が必要なら、第三者にそれを頼めばいいはずである。
しかし、現在の著作権法は、一部の著作物にこのようなバックアップを禁じることを認めている。それが著作権法 第30条の例外規定である。
自動複製機器を用いた場合の例外規定は、技術や知識のないものが著作物を引き継ぐ機会を実態として奪ってしまった。特殊なメディアを買った者はその知識のなさゆえに、知的継承の機会を奪われるということで本当に良いのか?
技術的保護手段を回避した場合の例外規定は、特定のメディアのバックアップを法的には存在しないようにした。表現の自由を鑑みれば引用の自由もあれば、私的翻案も自由であるべきで、私的複製ができないのにそれをどうやって担保するのか?人格を攻撃するような放送がなされたときその証拠が残りにくくしましたということで良いのか?
そして適法配信事業者に関する例外は、契約によって私的複製をどうとでもコントロールできるようにする。技術的保護手段があっても複製の数が多かったので市場での調達はできた。それが法律だけで対応できない状況になったと認めるのなら、望む人がいたのに複製の存在が期待できないものも出てくるだろう。この方向で本当に正しいのか?
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私的複製を可能とする事業規制
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もちろん、私的複製を無制限に認めれば、すでに正当に所有をしている消費者の不利益となり、著作者のインセンティブにも影響するだろうから、何でもできるようにしろとは言わない。
しかし、著作物を引き継ぐのに個人が責任を持つべきなのだから、「適法配信」のようなことを認めるには次の条件が必要だと私は考える。
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技術的保護手段をほどこされた CD や DVD は貸与可能物として作られていると考えるべきだ。それが「所有」であったというならば、交換するか、公的な複製手段を用意して、バックアップが引き継げるようにすべきである。
それが「所有」でなく「貸与」だと言い張るなら、詐欺としてつかまるか、これから先、バックアップができるものを市場にある程度確保した上で、「貸与」であることを銘記し、「この形式はあなたの知的財産の継承に悪影響をおよぼすオソレがある」旨の警告表示を付すべきである。
コピーワンスのような制限は貸与可能物として望ましいものであるが、バックアップを可能とする方法も確保すべきである。
着うたは、コピーコントロールされていないCDなどの発売を伴わなければ認めるべきではない。
DRMをかけず電子透かしを入れたデータはバックアップ相当物である。他にそこから貸与可能物がいくつか合法的に作れるべきである。その貸与可能物について、例えば再生時にある程度の頻度につきCMが入るといった借用者の権利を制限することで所有者の地位を増すような規制はあってかまわない。
映画の場合、劇場での公開はあえていえば貸与に相当するものになるだろう。この場合、DVDという貸与可能物を提供するまでにある程度の猶予があることになるが、これはそれが劇場公開という「半公表」の形態をとったがゆえに認められるとすべきである。そこからバックアップを可能とするまでにさらに猶予があるとは解釈すべきでなく、むしろ、ある程度の期間ののちに、技術的に破られないなど第三者によるバックアップの補助ができないコピー制限があれば、何らかの対策をとる義務が(最終的には国に)あるとすべきだろう。
放送を合法的機器で記録したものについては正当な所有とみなされ、バックアップが認められるべきである。「半公表」と違い放送は、貸与可能物がない場合は法的に禁止される貸与に相当すると考える。そのため、正当な貸与可能物が私的複製以外になく、放送を視聴できたはずの者が視聴できない状態がある間は、私的複製物が市場に出回ることを許すべきである。有料放送の場合も、それを受信していることについて適当な証明(放送画面とIDの写真をメールするなど)があれば認めるべきである。
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オーバーライド契約は危険
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次に冒頭に挙げたものの第二点目を詳しく述べよう。
私は主張する。
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単に一度見ればいいということではない。穏当な方法が存在しうる限り細やかに、解析し、批判し、再現し、さらに自己表現がそれを内に含んでも超越しうるように「識る」ことができなければならないと言いたい。
超越しうるようにまでして識ろうとする人は稀れであろう。その人がどのようにして正当な対価を払うかは予測できない。だが、文化の営みはそのような人が大きな役割を担うのだと私は想う。誰かがそれを見分けることができるといって、安易に排除することを見過ごしにはできない。
その「稀れ人」が正当な対価を得るまで、どのようにして文化を引き継ぐのか。彼は今どこで育っているのか。
特定の企業にまかせれば、契約によって私的複製を制限しても良いと言う。「契約」ができる人達から見て、私的複製を考慮しなくてもよい著作物があるというわけだ。その著作物を見ているのは本当にそういう人達ばかりだろうか。
そうでない人がいて、私的複製ができないとき、どうすればそれが手に入るかと考えるだろう。柔軟さはいくつものアイデアを頭をよぎらせる。法すら知らない彼らが、契約を知ることはない。胸に手をあてればこれを読む人すべてに似た経験があるはずだ。
育ちつつある人には見える世界がある。彼らは悪意なく世界に抵抗する。
「善意の抵抗」を契約によって封じるとき自由は失われる。彼らは官吏の眼には契約を破る者として悪意の色でマスキングされるからだ。契約を破った責任は官吏にない、とされるのは当然である。
官吏は、適格者もいるはずで、その者の意見を聞けばよいと考えてしまう。だが善意者はその必要性を気づいたとき官吏の前では口をつぐみ、悪意者は善意者を仲間にとどめるために口をつぐむ。
そして人は常に幼さと共にあり、善意の抵抗は常に現れることになっているのだ。
私的複製の条文は目的を保護するものと読める。それを安易に「なかったこと」にできるようにしてはいけない。すくなくともそれは条文と同じ地位にあるものでなければならない。
さらに護るべき目的は、人にとって基本的なものであるから、本来、例外というものは許されるべきではない。足されるものは第31条以下のような権利を広げるものか、意味をはっきりさせるものに限るべきだったと私は考える。
誰かが「しかし、文化の発展のためには著作者側の権利も重要で、何らかの措置は必要だった」というかもしれない。
それに、私は「メーカーが間接侵害を罪とされることを恐れるべきではなかった」と応えよう。
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消費者も影響できる間接侵害法理
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著作権法の将来の検討課題の一つに間接侵害の問題がある。複製を直接つくったりして侵害したわけではないが、道具を提供したりする幇助や、やり方を教える教唆をした場合にも、間接的な侵害として罪に問おうという話である。
例えば、私的複製の例外の自動複製機器に関しては、代わりに「自動複製機器を設置したものは政府の許諾がない限り、著作者の総意に反し著作権を侵害したとみなす」といった規定を創れば良いわけだ。
この方向であれば、事業(など)を規制することにはなるが、私的複製の条文の中に例外規定を設ける必要はなくなるだろう。
もちろん、この方法が採られなかったのは、メーカーが罪を恐れただけではなく、法技術的な問題もあろう。将来の間接侵害まで対象とする一般的な規定にしてしまうとあまりにも強い規定となるし、逆に弱い規定であればそれ以外なら自由なのかということになる。また、上の例であれば「政府の許諾」や「著作者の総意」に基づく差止請求を具体的にどのように構成するかも問題となる。
基本的には製品の規制のような広範な影響をもつ間接侵害の差止については、使いにくい一般規定を設け、限定列挙で実効性を担保していくことが必要だと私は考えている。
ちなみに、以下の本稿では取り上げないが、侵害者とほぼ一体である間接侵害についてはそれとは別の規定を根拠とできるべきだろう。送信者を騙したり不正アクセスやウィルスを使って送信させた者は、実質的な送信可能化権侵害者として罰し、送信者の罪は問わないといった教唆の特殊な形態に対する規定も必要かもしれない。
広範な影響をもつ間接侵害に関する一般規定をつくるにあたり、私は次のようなことが必要だと考えている。
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著作権侵害が親告を必要とする理由の一つとして、本当の利益逸失は検閲や技術・法技術的問題などの何らかの阻害事由によりもたらされており、「侵害」者そのものを非難すべきでない場合があることが挙げられる。
さらに「侵害」が逆に名声を増やすなど人格的利益を増やし、将来の金銭的利益に通じることもありえる。事後的に望ましい影響があったことがわかったならば、告訴の取り下げを含む「和解」ができるようになっている。
広範な影響をもつ間接侵害は何らかの阻害事由を取り除くものとだいたい言ってよい。私的にできる領域を広げることで、暴力的介入のリスクを減らしたのなら、何らかの迫害によって手に取れなかった層に著作物が届いたり、これまで発表ができなかった者が作品を発表できるようになる。この利益は人格的なもので、経済的な利益に過ぎないものは別の対応を求められうる。
間接侵害による訴えがはじまるとき、発表ができるようになった者は「著作者」とみなされず私的翻案や私的翻訳をする消費者の地位に最初はとどまるだろう。しかし、これらが「著作者の総意」の中に含まれていくとき、訴える著作者の団体は変質し、「和解」を選択しやすくなるだろう。
和解適格は、著作者の総意を求める。これは特定の著作者個人の親告を封じるという点で「非親告罪」化を意味する。しかし、総意で「和解」をめざすというダイナミックな過程を必要とする以上、すべてを検察にまかせるわけにはいかない。その意味で適格な機関による告訴を要件とし、さらに裁判の途中でその構成を変えられるような仕組を用意すべきと私は考える。
利益が経済的でなく人格的だと主張してもそれを担保する手段がなければ刑事における「和解」はもたらせられないだろう。消費者権侵害はそのために必要なものである。
人格的な侵害があり誰かが刑罰を受けるという可能性があるがゆえに、私的翻案者などのまだ経済的な地位のないものが、著作者の総意の中で大きな地位を占められるようになりえるのである。
ただでさえ弱い立場になる消費者が対等な交渉ができるようにするには、団体を設立するのも常道であるが、著作権法の枠内では消費者も総意を求められることがあるかもしれない。
著作者達の提供するものの中に消費者が合理的に期待できる十分な権利を保証するものがない場合、対価性の信用が成立しないため、消費者にとっては著作物の利用を不当に禁止されているように映るだろう。
消費者の機関にも適格性を求め争うことで、消費者の「合理的期待」がなぜ実現できないかを著作者達の証人から社会に訴えてもらう必要もあるかもしれない。
例えば、Youtubeやニコニコ動画のようなサイトで私的翻案を公表することが消費者の権利だとしよう。また、著作権者はフィルタを指定することで侵害物を除去できるとする。フィルタが間違って私的翻案を消してしまうこともあるだろう。これをすぐに罪にすることはさすがにできない。
しかし、いくらでも間違って消していいんだと強力なフィルタを故意に設置した場合は、過剰防衛による器物損壊罪に相当する罪に問うべきだろう。これはおそらく一人一人の消費者に対しては正当な防衛の範囲に入るので、消費者が団体として告訴できるような形が必要だろう。
このとき特定の作品がフィルタに引っかかるからダメだという要求はできない。フィルタに対する技術的な制約の中、総意としてどういうフィルタを使っても良いかという合意が求められるだろう。
もちろん、訴訟で解決するのが良いというわけではない。このような保障があることで、限定列挙的な立法をしやすくすることが主な目的である。
例えば、消費者の「識る権利」への侵害を罪としておくことで、113条の5項の「輸入権」は、7年の専有権とした上で、所得が同等か高い国からの正規品輸入への介入がないことについて「識る権利」の侵害とみなす、などとして整理できる。
このような法制がありうるという見地に立つと、私的複製に関するオーバーライド契約は、著作者だけに人格的権利を認めるため、一方的な契約になりやすいという予想が自然に起きる。
むしろ私的複製は「契約の自由」の上にある人格的権利と位置付け、それがあるからこそ契約がスムーズにいくものとすべきである。安易に例外を認めるのは混乱をまねくだけだと私は考える。
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私的複製保証制度と未所有使用補償金
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少し話題がはずれるが、補償金に対する私の考えもここに記しておこう。
私は私的複製は人格的権利だと考える。そうである以上、その保護は制度的に保証すらされるべきものと考える。
紹介的貸与はある程度確保されるべきで、それに補償が必要というなら未所有使用補償金を払っても良い。ただ、消費者に受け容れられる範囲でCM の視聴で置き換えられる部分があるならそれを減額すべきある。受け容れられる範囲を見定めるために「契約の自由」的なものが必要なのかもしれない。
現在コピーコントロールがあるような著作物についても経済的寿命がある程度尽きる将来にはバックアップができるべきだ。私的複製保証制度が必要である。
私的複製保証制度の負担対象は、ひろく再生機器メーカーやCD販売業者も含む必要があるだろう。
経済的寿命が残っているものについても保証するための副作用として未所有使用があるなら、その制度から、未所有使用補償金への支出も認めるべきである。しかし、その補償金ができるだけ小さくなるように私的複製保証制度が組み立てられるべきだろう。
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結論
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最後に言葉をかえて私が大切だと思う部分を繰り返そう。
合理的期待の中、なかなか規制の必要性を理解できず、法で縛らなければならない状況は、抵抗の中に善意からくるものが多く含まれることを示すだろう。善意の抵抗を正当化する法理をもつべきで、それを契約で「くもらせてはならない」すなわち複雑な関係に「幼い者」を追いやってはならない。
基本的な自由を圧し込めるとき誰かが不正を負わねばならない。これを認めるような官僚システムは、不正がはびこっても、それに気づかないようになるだろう。
誰しも自分の子供が「問題」を起こしているのに、誰もが「自分の問題」に悩むようになるのである。まぁ、それはよくあることだ。そのころには「正常」な契約も多数あり、誰もが身動きをとれなくなっている。……
もちろん、これは私の妄想であり、誰からも顧られることもないものだ。だが、その一歩を是非踏み留って欲しいと願っているのは私の本心である。
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関連サイト
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更新: | 2007-10-18--2007-11-03 |
初公開: | 2007年11月03日 23:31:21 |
最新版: | 2007年11月23日 00:41:46 |
2007-11-03 23:31:15 (JST) in 知的財産 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (1)
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受信: 2007-11-06 01:25:21 (JST)
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