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2007年11月12日 (月)

文化祭と著作権の問題から私的翻案を考える

何かを誰かに表現する。そこには不安があり羞恥心があり高揚感がある。多くの人が賞賛する夢を見ても、多くの人に知ってもらいたいと思うのはずっと先のことだ。踏み出せる小さな一歩を確実に前にすすむ。誰かの言ってることなど気にしない、というのは嘘だけど、自分の表現したいことにせいいっぱいでありたい。

人は人を私的な領域に圧し込めることがあった。そこでしか表現できないものがあるように人を追い込んだ。誰かに評されることを期待してはならない。ただ正しく伝えること、そこに思いを込めるのだ。伝えられることを喜んではならない。聞いているということがリスクなのだ。許すな、想像力の込もった表現を。それが彼の出所を示し、怨讐の炎が彼を焼き尽くすことがないように。


表現を私的なものに留める理由には正当なものがある。だが、現在、その理由は幸運なことにコンプレックスでしかないだろう。まぁ、それはできるだけ個人が克服していくべきものとして、じゃあ権利としてそれを掲げるとき重要なものというと、払えるものはできるだけ払う理由を作って著作者の経済的利益を邪魔しないようにするけど、あまり高い金を要求するなら拒否できるようにもするよ、というのがあるだろう。
独占権への制限としての私的利用


通常の商品の場合は価格が高いときは買わない、別のものを買うという選択肢がある。そして無理な価格設定をするような生産者は、究極的には他からの新規参入などを受けて市場から退場する。

著作物の場合は、文化の発展のために生産への参入に制限を課すことを特別に許しているため、理屈では、不当に高い価格が提示されることがありえる。チョコレートを造る業者が決まっていて、業者がどれだけ価格を釣り合げても、誰もそこに参入できないようになっているといった感じだ。別のものを買えばいいというのは真理だが、それがないとダメという人もやっぱりいて、その人にとっては不当性と自分をどう折り合いをつけるかという人格的問題となる。

この「独占権」に対抗するのには、複製機が安価でなかったときには元から少し変えたものを同じ物から作ったもの(翻案)とみなさず実質的に海賊版を認めることなどもあったのだろうが、現在、基本は私的利用という「消費者の権利」 (著作者達から見れば独占権への制限)を使うことになる。


文化祭の演劇をめぐり大紛争


最近、この点を考えさせられる報道があった。2007年10月18日TBS系列のニュース23という番組の《著作権料を払うか否か、文化祭の演劇をめぐり大紛争!》という特集である。残念ながら私は放送を観られなかったのだが、ネットで複数のブログ等をあたったところ次のような問題が起きているらしい。

文化祭で演劇で上演することについて、著作者に上演許可を得ようと指導しているところがある。今年からそのようなことをはじめた学校もあるようだ。

文化祭の上演は、だいたい著作権法 第38条の営利を目的としない上演に該当するため許可はいらないというのが通説。

しかし、文化祭では時間が限られていること等もあって、脚本を短くするなどの改変がなされており、これが著作権法 第20条の同一性保持権を侵害するとして権利料を要求されるケースが出てきている。

これは人格権である同一性保持権が私的利用に優越すると解されている著作権法 第50条を根拠とする。

特に欧米からの請求で強いものがあり、1件あたり10万円を超える請求もあるようだ。

(ところによって)演目は生徒が決めるらしく、交渉の手間はそれほどかけられない。


……とはいったものの、実は問題は最後の二つだけで、単に、生徒自身が欧米作家と直接手紙をやりとりすれば相手を満足させられるのだが、その手間を引き受ける生徒がいないということなのかもしれない。

ただ、ここまで問題がクローズアップされたということは、それ以上の解決もまた求められているのだろう。本稿ではそれにこたえようと試みる。


目指す解決の概要


私は、はじめ「欧米からの高額請求」を知らず、文化祭のような「大きな機会」では上演許可の交渉を経験するのも教育の一貫としては望ましいため、むしろ「営利」は認めるのが結果妥当であると考えた。その代わりに、同人誌なども完全な合法化をすべきという主張を持つ私は、同一性云々は不当なものとして却けるべきだと考えた。

ところが、1件あたり10万円を超える請求もあることを知り、場合によっては「営利」も否定できるようにすべきと考えるようになった。

現在差し迫った問題としてこれをどうするかについては私は答えをもたないが、長期的には、次のように法律を解釈し、場合によっては立法していくことで解決すべきだと私は考えている。

同一性保持権は文意のみに限定する代わりに、新たに継承性保持権を創り、「「続編・外伝」などとして公の認知を狙って投機をしたものは公的人格権としての継承性保持権を侵害する」とする。または第50条の逆転などからそう解釈しなおす。

上演が「公的」であっても脚本は私的翻案に留まり、「継承性保持権」侵害はないとする。上演自体が私的翻案であることもありえる。仮に翻案権が及ぶとしても非営利であれば、権利料はゼロ円にしなければ権利濫用である。(ただし、「営利」として「上演」権料は払ったほうがよい。)

主に請求対価によって「私的」範囲が定まるとする。ただし、赤字だからといって権利料が無料になるわけではなく、逆に1円だからといって必ず払わなければならないわけでもない。成人かどうかも範囲を決める要素の一つだろう。


順を追って説明する。


継承性保持権を創る


同一性保持権を定める第20条1項は「第二款 著作者人格権」にあり次のようなものである。

著作権法第20条1項
著作者は、その著作物及びその題号の同一性を保持する権利を有し、その意に反してこれらの変更、切除その他の改変を受けないものとする。


つまり、出版社であろうとも勝手に文章やタイトルを変えてその人の意見として発表してはならず、そこは著作者の人格的な権利として保護するよ……というのがもともとの文意であろう。解釈上問題となる「意に反して」は、意を確かめなければ変えてはならないという意味ではなく、逆に、意に反してないと第三者が思えるなら出版社が勝手に変えても良いという意味だったのだと私は思う。

これが現在では上の文化祭の例から同人誌を含むパロディまで、おそらく当然、続編に関しても、意識され、二次的な創作全般をコントロールするための法理となっている。

なぜ、こうなったか。

ある作品の二次的な創作が流通したとき、それが単に二次的な創作物に留まらず、原作品の公的なイメージまで変質させることがありえ、特にその「間違ったイメージ」が著作者の意図したものとされることを恐れたのだろう。

それについては、単に財産的補償をすればよいということはなく、著作権法 第115条の名誉回複等の措置も必要な場合もあるとして、根拠となる人格的権利が必要とされ、そこに同一性保持権を後付けで充てはめたのではないかと私は推測する。

私は、現代の同人誌文化などを妨げる危険があるものとして、この拡張解釈は不当と思う。


もちろん、同人誌など著作者の製作物の恩恵を受けたものについて、一定の支払いが必要なものもあるだろうが、それについては、すでに財産権として第27条に翻案権がある。

著作権法第27条
著作者は、その著作物を翻訳し、編曲し、若しくは変形し、又は脚色し、映画化し、その他翻案する権利を専有する。


これを限定的にとらえることで逆に同人誌やパロディを正当化するという試みがあって、そうであるがゆえに同一性保持権を持ち出すことも多いのかもしれない。

しかし、私はむしろ翻案権を広範に認め、何らかの形で一部支払いを行うようにするのが健全な姿と考える。後述のように同時に著作権法 第48条の私的翻案も広めに解釈することで、そのバランスをとっていくべきだと考えている。

著作者の中には同人誌を嫌がる者もあるだろうが、「翻案」のほとんどは著作者の人格に影響するとまでは言えない。それを「許可」したとなれば人格的な問題も出てくるが、著作者が関知しない強制許諾に近い形なら、受忍すべき範囲に留まるとすべきだ。(強制でも「許諾」というとアレなんで「包括裁定」とか別の言葉にすべき。)


Wikipedia:ドラえもんの最終回》の同人誌のように、それが公的な認知を獲得してしまうことについては私は肯定的だが、著作者の意図が誤解されることにつき確かに名誉回復が必要で、単に同人誌に「ことわり」を入れたり謝罪広告をするだけでは実質的には不十分な面もあろう。もちろん、上のように第20条を文意解釈のみにして著作者の続編や外伝に保護がなくなるのも、なんともマズい。

そこで、同人誌を個人出版することの自由を確保しながら、著作者が企業的出版をコントロールし続けられるための法として、次のように規定すれば良いと私は考えている。

著作者は、その著作物の継承性を著作者の公的人格に保持するため、公けの認知を狙った投機から保護を受ける権利を有する。


ポイントは「投機」という言葉である。続編や外伝を宣伝をともなって出版したり、誤解をまねくような形態で出版することを禁じることができるよう意図している。はっきり言って、個人出版と企業的出版を明確にわけるのは難しいのだが、ここに曖眛さを閉じ込めるのである。


放言すると今でも上のような「継承性保持権」のみに留めるような解釈も可能であると私は思う。著作権法 第43条(私的翻案)と著作権法 第50条のあわせ技を用いるのである。

著作権法第50条
この款の規定は、著作者人格権に影響を及ぼすものと解釈してはならない。


この規定は、同一性保持権などの人格権が私的利用に優越されることを表しているというのが通説である。しかし、条文では「優越してはならない」と書いておらず「影響を及ぼすものと解釈してはならない」とあるだけだ。

そこで、こういうことは通常危険だが、この解釈を逆転させるのである。つまり、第43条には私的翻案の規定があるが、それが同一性保持権に「影響を及ぼ」していると「解釈してはならない」。すなわち、影響を及ぼさないと解釈するのである。

私の解釈では、私的翻案も含め私的利用は独占的利用に対抗するものであるから、結果的にそれが「公的イメージ」を獲得する領域に広がっても良い。さらにそうなっても「影響を及ぼ」さないと解釈するのであるから、少なくとも公的なイメージを獲得する方法の中には同一性保持権を侵害しないものがあるのである。

それは何かというと公的でないものを「積み上げ」ていくことである。すなわち「投機」じゃないものなら良い。……と、まぁ、ムリヤリである。

とにかくそう決めていくべきだし、現状もそう解釈する余地は残っていると述べておこう。


脚本の私的翻案性と必要とした場合の翻案料


さて、本題の文化祭の話に戻る。

同一性保持権が問題となった上演について、脚本はだいたい私的翻案として良いだろう。そして、上でダラダラ述べたのは、これは同一性保持権の侵害に該当しないと解釈する余地もあるし、該当させるべきではないということだ。

脚本は私的翻案としても、次に、上演しても同一性保持権の侵害はないか、上演が「私的翻案」に留まるか、が問題となる。


生徒に手続きを経験させるためワザと入場料をとるなど上演料をとる場合であったとしても、その脚本がそこの生徒などによる私的翻案なら、一回や二回の「公演」で「公的イメージ」が形成されるとは考えられず、同一性保持権の侵害はない。

もし、その脚本が、学校間で共有されていたり、世代間で受けつがれていたりして「公的イメージ」を獲得していた場合はやっかいだが、立法で継承性保持権をつくる方向ならば、まさに「投機」はなかったとされるだろう。それでも、出所の明示の徹底は行われ、脚本の私的複製も狭い範囲でしか許されなくなるだろう。その「機」に乗じて新しく行うところは差し止めの対象とすらなるかもしれない。新たな「投機」は制限されうる。


同一性保持権の侵害はないとして「私的翻案」に留まるかだが、実は、著作権法 第43条の私的翻案の規定は限定列挙によるのだが、その列挙に著作権法 第38条の「営利を目的としない上演等」は含まれていない。しかし、それは上演の場合、アドリブ等は普通に想定されるため、翻案かどうかというのがあまり意識されず、脚本が私的翻案であるかどうかだけが問題になるからだと私は解釈する。

営利を目的としない上演であっても「公演」はありえる。当然、家庭用ビデオによる撮影などもあるだろう。その規模によっては出版よりも影響力を持つ場合がある。脚本のままでは「私的」翻案であったものが、(同一性保持権を侵害しないまま、)もう「私的」ではなくなる場合もありえると私は言ってしまおう。

すなわち翻案権料が発生しうると解釈するわけだ。


営利を目的とする上演の場合、上演料が発生するわけだが、もし、正当な翻案者がいる場合、本来なら翻案者がその上演料をとり、翻案者はその上演料から翻案権料を支払うことが権利の正常な運用である。翻案者は自分の取り分があるわけだから、原脚本家が翻案の上演料から期待できる翻案権料は、原脚本の上演料よりも少ないはずである。

「翻案権料が発生しうる」と解釈されても、営利を目的としない上演の場合、原脚本の上演料がゼロ円で(私的)翻案者が、通常、翻案の上演料に取り分を求めない以上、翻案権料もゼロ円とすべきだ。また、営利目的を否定できない場合であっても、(私的)翻案者が、通常、翻案の上演料に取り分を求めないなら、翻案権料は原脚本の上演料以下とすべきである。

ただし、(私的)翻案者がそれにより学校内での名誉という人格的利益を(演者達に比べても)得たはずだというなら、合意を得て、それに対応するわずかばかりの「翻案名誉権料」を原脚本の上演料相当額とともに取ることについては、権利の濫用にはあたるまい。……と私は考える。

(逆に言えば、それ以外は権利の濫用(民法 第1条3項)とすべきと私は考えている。)


請求対価によって「私的」範囲が定まる


ここまでのところで、私的翻案でいけるのか翻案権料が必要になるのかは曖眛にしてきた。合法的でありながら曖眛にできるということは、価格交渉ができるということだ。これは逆に言えば、請求対価によって「私的」範囲が定まりうると主張していることになる。

これは危うい論理で、本稿の最初で述べたような私的な利用にも土足で踏み込むことを許しかねない。権利料が1円だからといって必ず払わなければならないようにしてはならない。

「コンプレックス」も多少あることが健全とみなされるような未成年の利用については、私的範囲を広く認めるといったことも必要になろう。

一方、二次創作を楽しめるような層から著作をなすという労働への所得移転はあって良く、同人誌発行の収支が赤字だからといって権利料が無料になる必要もない。

簡便な手続きで、翻案者による支払いであることがわかれば著作者本人には実名などを明かさないまま、不平等を感じさせない明確な基準で徴収されるような権利料は支払うのが妥当だろう。問題もあるが、フィギュア等のキットを販売する《Wikipedia:当日版権システム》が参考になる。

著作者にしてみれば翻案権を零細なものに認めることで、逆に翻案権の「全部移転」という契約が難しくなり、経済的には逆にマイナスだと考えることもあるのかもしれない。

しかし、継続性保持権の法理がひろまれば、継続性保持権にひっかからない範囲内として零細な翻案権を認め、一方で、「投機」も可能な形態は独占的に契約するということもできるだろう。零細な翻案権料の分だけ儲かるのである。


翻案権料をここまで広く認めるのは、私の「消費者」としての立場からすれば、私的翻案で押し切るべきところを譲ったとも見えるかもしれない。それは、著作者が、翻案権料を収入の一部とするなど収入の根拠を広くすることで、著作物のデジタル化によって生じやすくなる未所有使用のリスクにも耐えられるようにしたいからである。

そもそもの私の関心はデジタル化、ネットワーク化にある。


そもそもネットで私的翻案がしたかった


私はブログで《フィギュア写真》を公開している。《フィギュアの写真の著作権に対する見解》でも弁解はしているが、このような公開はグレーというかクロに近いことは認識している。これに合法的な根拠が欲しかったのだ。

フィギュアの写真はフィギュアそのものの「複製」ではない。しかし、フィギュアがメインである以上「引用」ともいいがたい。ならば「翻案」となってしまうだろう。

インターネットに「公け」に送信してしまっていることは否定できないが、見にくる人はごくわずかである。公けであっても「私的」利用と言えるものはないか。そう常々考えていた。

そこに今回の問題を知った。ネットは文化祭の「公演」みたいなものじゃないか。個人ブログのアフィリエイトなぞは、さしずめ無料「公演」がある体育館のまわりにある出店じゃないか。……と思い至ったのが、この記事の動機である。

私は現状、もちろんフィギュアは所持しているが、フィギュア写真ということでの権利料は一切支払っていない。だから「公演」においても私的翻案が成り立つとしたかった。

このグレーな現状を打破したいという気持ちも強い。多少ならば払っても良いという気持ちはある。でも、あれこれしろという指示は受けたくない。だから、翻案権料が必要になっても同一性保持権侵害にならない場合があるとしたかった。

権利料が過大なものでは払えない。払えるようになってもこちらが難癖をつけられる必要がある。翻案権料の額および手続きの繁雑さなどから逆に私的翻案の範囲が決まりうるとしたかった。

正直、そういった自分の利益を第一の目的として、本稿は作られた。


新しいユーザーの権利を手に入れろ


インターネットは広い。ブラウザでの利用を本の複製のように考えてしまうと、実体を見誤る。多くの場合、家庭用ビデオを持ち込み可能な屋外の上演と考えたほうがよいのではないか。そこでは私的上演が公けに向かって常におこなわれ、幾人かにとってはコンプレックスを馴らす大事な機会になっているのだ。

デジカメが普通にあり、初音ミクが普通にいる時代、ウェブデータを複製と見れば、アドリブというのは私的翻案の形を取ってしまう。ただ正しく伝えることだけを重視せず、想像力の込もった「アドリブ」を認めて欲しい。

本稿のキッカケとなった特集を私は観ることはできなかった。私的に録画したビデオを購入することもTBSは禁じており、ネットへのアップロードも認めていないため、友人のいない私が合法的に観るチャンスはない。原典にあたらなければ正当な批評ができないという立場があるとすれば、私は永遠に「正当な批評」から疎外されるのが彼らにとって正しいあり方というわけだ。

疎外された私は二次的創作物であるブログを主に参照して記事を作っている。

排他的権利によって守られるTV局が担う「表現の自由」は、市民社会にとって確かに大切なものだ。だが、今の状況をかえりみるに「表現の自由」には、もっと基本的なことが含まれているように思えてならない。


我々には 今「目の前」にいる人と知的交流をできる自由がある。それはブログという舞台に立ち、画面の前という「目の前」にいる人との交流を含む。

我々には思い込みだろうと自分の 大切だと感じたモノを迫害の中でも遺せる自由がある。親の知らない「同人誌」を仲間うちで取引したっていいじゃないか。

そして現代の我々には、どこかで「プロ」と なったとき自らの「青春の影」をそっと見つめられる栄典も与えて欲しい。「大人」から見たらくだらないものでも仲間内ではまぎれもない天才が発揮される瞬間がある。せっかく意志さえあればそれを残せるシステムが構築されているのだから、意志を持ってその方向に踏み出すべきだ。ネットからの削除をなんの条件もなく認めてはならない。


本稿で述べたような翻案の多くを合法化する法理が常識として広まれば、世の中が変わったことを実感する大人も増えていくのではないか……と私は夢想する。


関連サイト

2007年11月15日のパブコメ締切に向けて私的複製を考えるシリーズ。

公けの投機を特別視するのではなく、そういったものは特別な登録を必要とするようにするということも考えられる。:《半可思惟:コンテンツ流通のための「二階建て制度」についてのまとめ》。
私の知的財産に関するブクマ集:《jrf の公開ブックマーク:知的財産》。 10月21日から24日にかけて、このあたりの記事をブクマしています。
更新: 2007-10-23--2007-11-12
初公開: 2007年11月12日 18:39:22
最新版: 2007年11月23日 00:42:13

2007-11-12 18:39:22 (JST) in 知的財産 | | コメント (0) | トラックバック (0)

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