時効延長絶対反対
公訴時効の延長さらには部分的な時効の廃止まで含む法案が、閣議決定されるに致っている。私はこれに強く反対する。本稿では、やや想像力豊かに時効の必要性を訴える。
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天災としての罪と意思に対する矯正
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民主主義を信頼し、そこを維持するためには、実利を見る利害関係者の数を保つ必要がある。しかし、戦争反対の数を維持するのにもう一度世界大戦をやる必要はないように、歴史や想像力で数を補えねばならない。そこでは噂話を含むメディアが大きな役割を持つ。
人が殺されて死ぬことと、天災で人が死ぬことの違いは、そこに人の意思が介在することである。社会体にとってその殺人がありえないことであるなら、その人の意思は病 いのようでなければならない。社会体の「意思」がメディアにそう見せていく。
そうであるためにメディアが作るイメージは、当然、加害者または潜在的加害者の意思に対峙する形で展開する。その異常性への周りの危機意識を煽る形であれ、反省への共感または反省させられることへの畏 れを呼ぶ形であれ、加害者を主な問題としていく。
被害者やその家族の平穩な生活を人々が支えることは大切であるが、それは天災の被害者と本来なんら変わることはない。もし、その意思が応報感情として殺意に変わるなら、むしろそれこそ矯正の対象となりうるからである。
しかし、その「憎しみ」を社会への意義に転じる意思に昇華せんとするなら、それは危うくも肯定しうる。現実のメディアは流れやすく、社会への意義を示すまでに致るとは限らない。長く実利を見うる利害関係者は、結局、被害者やその家族のみにしてしまっている。
絶望は人を弱くする。それを支えるために「憎しみ」を囁 こともあろう。そこまでをどうして私が責めることができよう。憤りを持ちつづけることを個人が選択していくのはきっと尊いことでもある。しかし、社会が憤りを持ち続けることが正義であるとして圧力をかけるようになると、不幸が不幸を固定する社会になる。
私は、人を不幸と不自由に導くものを正義だとは認めない。その「正義」は未だ正しい表現を纏 っていないのだ。何かできるはず。生きているうちに何かできるはずだ。
今、時効延長が俎上 に載るようになったのは、「重大事件における時効廃止を求める被害者遺族の声」がきっかけとされる。社会体の「意思」は、加害者の罪だけでなく被害者の特別性にも表出する。
その特別性をまつりあげ時効を延ばせたのなら、そこに利を見出せたものも少なからずいたとせねばならない。利を再び得るため誰かがその特別性を作 そうとするに致るとき、それを矯 めるため時効を再び短くする方法が求められよう。そう社会を導くには何が必要とされるのか。
「お前が殺したんじゃないか」という心の疑いを明言し、その言の責任を負ってくれる力ある者を待つのだろうか?しかし、長い間待ってそれが現れるときそれは一人で「あなた」に向かうわけがない。
「被害者だから市民の義務がないということはない。寛容にならなければならない。」そういえる道徳者を待ってるのか?過去を悔やみながらでよいなら、そういう道徳を述べる者は今の時代にもいよう。多過ぎるぐらいかもしれない。今メディアにその言が乗らないというのは、一体、何が起こっているのか。
現代においてメディアは転換期を迎えている。我々は新聞配達員が「再出発」の場であったとよく聞いていた。新聞配達員がメディアに「情報弱者」を繋いでいく面もあったかもしれない。新聞記者は表現の自由の砦を守る戦士として憧れの対象でもあった。
私にはネットという噂の出口・表現の場がある。その場があるがゆえに守られなくなったものがあるかもしれない。利害関係者としては頼りない限りであるが、私はネットに夢を見た一般の一人として、この時代にもう一度疑問の目を向けられることになった時効の意義というものについて考えてみた。
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応報感情と社会体の責任としての時効
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アメリカの銃規制に関する話題がなされるとき、「保守派」が銃の必要性を声高に説明するのを私は見たことがない。それはその時代に必要とされないなら、確かにいらない知識だと彼らも思っているからだろうか。または、世界のどこかでは必ず共感する者が、悲しいけど、いるんだという達観があるのか。繰り返される銃の事件の向こうに、何を気付けと言うのだろう。
社会は、普段からは予想も付かないことで混乱状態におかれる。平時において、社会というシステムを使って復讐を遂げさせることを善いこととした場合、万一の混乱状態において、「罪が追及されえないから緊急避難的に復讐を自力でとげました」という「美徳」を覆 すことは難しくなるだろう。それは混乱をますます助長する方向にはたらく。
「我々の軍」がどこか混乱している地域を「占領」したとする。その地を警護することになるのは、この国のモラルで生きた人々で、言葉も通じにくい中、モラルのギリギリのところが試される。混乱を助長しないようなモラルに日々触れていなければ、統一的で不公平を感じさせない対応をとることが難しくなる。
「テロ」は、主謀者を見出すことで、そこに政治性を持ち込むことができる。「事件」は、たとえ計画的犯行であったとしても、犯罪というもの自体がそうなされるものではないとするのだから、偶然の要素が強いと観て、その社会全体の責任を問うていくことができる。
社会を「社会体」としてある種の「人格」を認め、社会体自体の更正を重視すれば、「事件」に対しいつまで解決に向かおうとするのか、その「予算」をしっかりつけることを意識化するために時効が必要といえる。社会体が「応報の罸」を受けることを重視すれば、受刑者や時効完了者をすみやかに社会構成員として受け容れるコストを払わねばならないとできる。
そのような観方にたてば、復讐を是認することは、復讐という意思を社会がもつことであり、それをもとに罰を下す者(社会体)が、たまたま罪を選んだ殺人者の苦しむ刑に比べてあまりにも少ない強制的寛容期間(すなわち寿命から時効期間を除いたもの)しか社会体という己の「罰」として自責しないのは不衡平 であるとも言える。
戦時と平時の法が違うのは「平時」を生きる者には明らかではある。しかし、時効廃止を唱えるのは、戦争で人を死なせることを厭 う国は不寛容になることを証明するだけではないだろうか。それこそ平和主義に反する。
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実体法説と訴訟法説
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公訴時効の存在理由としては伝統的に大きく二つの軸があるそうだ。
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上の二説は必ずしも対立するものではなく、この二説を踏まえながらその様相を変えて様々に論じうる。
これらは、むしろ、犯罪の社会的影響は弱くしていかなければならないし、証拠に価値が出て適正な裁判を阻害するようになってはいけない、という社会の選択が先にあるのだろう。ちょっとした寛容さが社会を円滑に回すのは生活実感としてある。
しかし、過去には考えられなかった平和な時代が到来し、一つの犯罪を堀り下げその影響を絶やさないことが必要となると同時に、危機にあればくだらないと気付かれた拘 りを死ぬまでの永い期間保つことにコストが負担できるようになった。平和と自由は善いことなのだから、ここに対応していくことも必要だろう。
その対応の一つは、社会に影響がより長く残ることを認め、時効や刑の期間を延長してしまうというものであろう。時効延長は、近年すでに 2004 年の法改正で実現している。2004 年の改正の際に次の理由が挙げられた。
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言葉は悪いが、はっきりと言ってしまえば、1 で言いたいのは要するに「平和ぼけ」と「ネット痴呆」、順番は逆だが私が先の節までで述べたことだろう。 2 は要するに「開発等に金を要求されることになるだろうが、金がかかり過ぎるから安くなるまでいつまでも待てるようにしましょう」ということだろう。 1 と 2 は、微妙に実体法説と訴訟法説に対応している。
もう一つの対応が、状況の特別性を肯定し、それが平等な対応を阻害してもその社会は益されていると考えるというものである。その実現は、保護者の存在が減刑理由になりうることであり、時効の存在理由に対する第三の説・新訴訟法説だと私は見る。
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一見問題がないように思えるが、これは、重度な障害を持ったものが施設で「平等」に暮らせるよう家族がかかわるよりも、家族と暮らせるほうが長生きで幸せなのは当然であるとする方向である。それは真実で正しいかもしれないが、方向としてそうあることまで善いことなのか私にはわからない。
時効廃止論の理由として「遺族の処罰感情は消えない」「DNA 鑑定の発達等、むしろ、新たな証拠が発見されうる」を挙げ、一般論から即座に否定している論文があったが、前者は消えないようにしたい現状があり、後者はむしろそういう予算が付きにくくなる恐れがこれから出てくるのであろう。
ドイツにおいて公訴時効に関する議論が蓄積されているとも書かれていた。そこでは次のような疑問が出されたようだ。
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特に 3 について私は思い当たることがあった。時効があるおかげで、罪を見つからずにいる者が時効まで次の罪を犯さないという「予防効果」はある。私にも人に言いたくない罪で時効を迎えたことがある。そういう意味でも私は「利害関係者」なのだ。
もちろん、時効を迎えたから罪を犯しやすくなることはないと今は言えるが、若いころは先が見えるから罪を控 えれたこともあったように思う。時効を過ぎれたことの晴れがましさが、今の自分を深刻な罪から遠ざけている面もある。それが微力ながら人を罪から遠ざけようとする今に繋っていると感じる。
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産業スパイの国
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例えば、高い技術を使った盗聴に関する法を論じるとき、現実の危機と見せるため特定の国を指すことを必要とするのは手続き的・政治的に難しいことがある。こういうときに、そういう能力を持った「超人」や「超意識体」というものを「思考の補助線」とすることでうまく論を張れることがある。それは黙示録的に危ういものだが、現実的な運動の指針を導くのには有用とも言える。
本稿では、この先、さらに想像力逞 しくし「思考の補助線」を多く使って、私の社会経験・知識の不足を補いながら時効延長の角を矯めるよう論じたい。
ある料理店で、失礼ながら、たまたま聞こえてしまった会話を思い出す。彼女は親らしき人に海外の軍事会社への就職を考えていると語っていた。その後、彼女は引き留められたかもしれないが、同じような彼(女)らがいて、その何人かは実際そういう選択をしたのだろう。
日本のメディアでシー・シェパードの「蛮行」が話題になった。核でもミサイルでもなく、どこの国に結局属するかわからない資金とオタク的技術と Youtube の映像にむらがれる社会性を総合して「国」に立ち向かう、あれが今わかりやすい「敵」なのだろう。
冷戦後の経済的「自由」の強調とゲリラ的脅威の顕在化に単純に補助線を結べば、傭兵会社による国家侵略を想像させた。イラク戦争を経て、海外の戦争に対する日本の無責任が語られる中、今も友愛が叫ばれる。不況の中、公務員の削減が議論され、製造業は海外に出て、商店街も消えていく。
手近な就職先が見えない日本の地方で、そういう選択が語られていた。そのことに私は驚いたが、考えて見ればそういう理路を辿 る者がいて当然である。
ネットで、そういう若い人の思いに出会うこともなかった。新聞にはあったのだろうか、気付かなかった。それは個人の選択で、しかも予期されたものだということか?かつてのメディアが報じてきたような「傭兵」のイメージのように、「戦争」をまともにやっているばかりではないだろうに。
日本の経済状勢が変わり「見捨てられて」、彼らが日本に帰ってきたとき、どんな福祉があるのだろう。精神的なものも含めて「傷病者」もいるだろうし、日本の平時の基準では「犯罪者」となる者もいるだろう。帰って来た国では、これまでの国民軍と違って「傷病」の記録が国家に役立てられるわけでもなく、ひたすら「被害者のため」時効と刑が厳しくなっている。年金はあるだろうか、どういう通貨でもらうのだろう。
「傷病者」「犯罪者」ともに普通の企業でもあることで、昔から程度の問題なのかもしれないが、「彼(女)ら」との比較で深刻なケースが増えていきはしないだろうか。
時効まで逃げ切れることを見越して罪を犯すものはいない。何がしかの恐れから罪を犯すことが多いとすべきで、例えば、殺人の時効を伸ばして恐れを増せば、「思考の補助線」的には例えば、スパイを増やすことによって闇で人死にを増やすことになるだろう。
組識にいるものなら、追放すれば結果責任を負わせたとできるが、違う組識の場合、あらかじめ何か罪を起こさせておいて、責任を負わせるときその罪で裁くことになろうか。同じ組織において、互いに弱みを持ち、むしろそれを組織原理としていくことも空想できる。スパイ・ヤクザ物の物語だ。そこでは、時効までの期間を延長することは支配の期間を延長することとなり、「組織」を利する。
近年、被害者の権利を強調したことで、被害者の申請等により実質的に時効を停止するような実情が生じている可能性があり、それがゆえに時効を増やしても問題ないという議論が通りやすくなっているという邪推が私にはある。
それと必要とされる被害者の金銭補償とを線で結べば、時効を被害者から金銭で買う図が浮かぶ。時効の最低限を守れば、犯罪を助長しないということは必ずしもあたらない。これを、上の図と併せれば、犯罪者になるよう嵌 めたあと金を出せる「企業」が、「産業スパイ」を多く飼えるようになることに相当しよう。産業スパイを許容すればできる犯罪が助長される。
影響が大きいのに経済犯の罪が軽すぎる、時効が早すぎるという論を出せるが、その罠として、時効延長が「産業スパイ」の図を描かせている側面もあるかもしれない。
「産業スパイ」の構想は、経済もつかって人の命も奪おうというところにつながりやすく、子供の住むところをまさに地獄にしかねない。「産業スパイ」の意味するところは、「終身雇用」ではなく「奴隷」だからだ。
「奴隷」は究極のところ債務の回収に国家が加担するところにできると言える。もちろん、債権回収をヤクザの専売としないために、ある種の国家の「加担」は必要であっても、加担が債権者には不利となる手続きにすることで、一時的「奴隷」化を債権者が望まないシステムになる。
「奴隷」化の図を描けば……。誰かが罪を犯す。→「ボス」が被害者に金を渡すことで「スパイ」にし、その渡した金を「スパイ」の債務とする。→国家が、過去罪を犯しているので「スパイ」を逃がさず、逃げてきた「スパイ」を協力して捕まえる。→「ボス」が「スパイ」にさらに罪を犯させ、そこから渡す金の一部または全部が「ボス」の収入になる。→「スパイ」のうち生き残ったものが「ボス」のやり方に近づく。→末端の「スパイ」が手下を作るため、誰かをはめて罪を犯させる。→(ループ)
時効を延ばすことは、罪を犯させる間隔を長くできるという点では、個人の再犯を防ぐ効果があるかもしれないが、資本となる金をより多く自前で調達する必要ができるため、末端の罪が広がるのではないだろうか。
ところで、どうやって「奴隷」化に対抗してきたのだろう?現代では、上の横暴に対するのは、単純には「労働組合」ということになるが、「スパイ」は、性質上労組を作れまい。歴史的には近代以前からある態様のはずだから、下剋上や革命あたりの理屈を参考にすることになろうか。
彼(女)らを民主制下にコントロールして現代ができているわけだが、そういえば、フランス革命のジャコバン派の中心は「公安」委員会だった。「公安」には労組が作れなくても、「公安」の周りに労組はありえて、労組を通じて公安が自らの「上部組識」に圧力をかけるという理屈はありうるだろう。
それを再びの王制を経た民主制下でコントロールするというのは、生 え抜きを、トップに据えられるぐらいクリーンに保つ道を用意することにでもなろうか?トップをクリーンさで飾ることで、下を抑制する……と。その「クリーンさ」には「労組」と関係しないことも含まれる……と。それは、クリーンさを過度に求める日本の政治状況を私に想い出させる。
イラク戦争に見た傭兵会社と民主党下の政治と時効延長を結ぶ補助線といえば……それは「国会承認」ではないだろうか?
時効の延長に「国会承認」を必要としてはどうだろう?「醜い」といわれる政治が国際派遣を承認できるなら、「内戦の可能性」も承認することができるはず。時効の延長に、そのときそのときの国民に責任があることをハッキリさせればいいではないか。
時効を遡及させてまで延長するロジックは、状況が変われば、時効が近くなった「自国内」紛争地域への「亡命者」が帰ってきて政治力を再び手に入れないために利用できる。「内戦の可能性」とは、その状況は国が内戦状態にあることをほぼ指している。
国会承認を必要とすれば、議員が密偵を過去の犯罪で承認名簿・事件簿に載せるかどうかで脅して使っている……とメディアが書きたてたり、いや、彼を生活させるためのある種の度量だったのだ……と書いたりして、その弊害をまず可視化できるだろう。
そうすれば政治を通じて「スパイ」の実態を国民が承知できるようになるのではなかろうか。その共感が得られるころには「産業スパイ」の集団が一国を支配できているのかもしれない。
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内なるフロンティア
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応報も善いということであるなら、時効延長を図る官僚等が却 ってその報いを受けるようにあらしめたい。安直には、国家という組織体にこそ罪があり、その罪の時効がなくなる、または、延長される、としたい。
しかし、その応報の考え方こそ、死刑廃止派の(と見られる)大臣が、時効延長を進める理由であり、東京裁判などから続く人道に対する罪に時効がないことを国内に持ち込む議論を提起しているのではないか。
もちろん、大臣に関しては、時効延長と死刑執行延期のバーターの側面もあろうが、死刑廃止派が時効延長を進めるのは、延長の結果、過去の死刑が国の罪と見られることを想像させて翻意するよう促 している面があると私は想う。
今から 15 年前の 1995年3月20日 に地下鉄サリン事件があった。「大量破壊兵器」を使うようなテロは起きないという「仮説」を打ち破る負のブレイクスルーだった。
私は 2001 年の 911 テロ後に精神を病むのだが、そのときの妄想に、私が地下鉄サリン事件の犯人と間違われているため、監視されているというものがあった。それは科学者などの専門家が犯罪に加担することに対する社会の警戒感を無意識に感じていたところからきたものだろう。そして、その無意識は、もう一方の専門家である警察・公安も利によって動くとする「自由市場主義」と対峙させられていた。
「司法取引」は「価値」をもって罰を贖 うようになされてはならない。罰が別の者の罰の根拠となりえるとき、すなわち、自白等によって罰を減じることが他の者の罪を立証する場合のみ、認めるようにしなければならない。
例えば、著作権違反をした(二次)創作者に仕事をまかせることで証言を得ようとしたとき、建前では、仕事を得られたからではなく、他者の違反の証言を約束して罪を自白したため罪を減じたという「取引」に留めねばならない。もちろん、仕事を得られたといったような外部の取引がなければ、そのような自白が得られるはずはないと私は「仮説」するのだけれども。
組織による殺人というものがある。組織犯罪に対処するときこそ、司法取引の出番であるが、罰を減じた結果、誤って本ボシを無罰にするおそれがある。それは最低でも防ごうと司法取引に相場を設ければ、「取引」なのだからそれでは十分に証言が得られない場合も出てくるとせねばならない。このとき、時効までの期間が個人で異なること、時効を先に迎えた者の証言が最後の期待となる。
イノベーションは天才が行う、つまり、他者すべてと異なるという人格的賞讃を求めることは一般の労働倫理と別のところにあり、発明は過去忘却された期間がどれくらいあるかで新規性が変わるようなものではないという「仮説」はありえる。
そのような新規性であれば、発明者が特許の期間、特定の情報が出回らないよう投資することを心配する必要はない。ネットで情報が公開されやすくなったからといって恐るるに足りない。
発明が仮に人を傷付けるものであっても本当にそれが新規なものであるなら罪に問われないという罪刑法定主義は資本主義の基礎をなす。それをないがしろにすれば、他者があてにしていた需要を奪うことまで、人を傷付けた(ことの幇助)とされる恐れすらあるからである。そうやって需要が奪われて経営が行きづまっても責任を問われない有限責任の原則が認められるのは、その反面でもあるのだろう。
イノベーションももちろん「労働」でなければならない。発明の努力をするにも生活がまずあるからである。本当の新規性があるなら、発明の時期は問題ではないはずなので、逆に発明の時期を競ってすばやい提出を謀れば、その特許がもっとも早く切れるように発明の時期を早めることができる。彼(女)を組織が雇えば、お互い有限責任の組織の圧力がかかるから、出し抜かれる危険があるのに、発明時期を交渉し調整することなどできないはずだ。
しかし、そもそも集団がイノベーションを行っていたということはありうる。
例えば、催眠して自白させる機械というものを考えよう。これがあるということだと、スパイは自白させられても言い訳がたつので、それができてなくてもできたとなり、それに対応するための訓練などが可能になると、訓練をしているがゆえに機械の効果がなくなるとできる。すると、効果が中途半端なものならば、確かに造ることができるとなる。その機械が本当はいつから存在していたかは判然としない。
機械を「発明」した科学者の罪をないとしても、当然、スパイ達は罪に相当するものを犯しているだろう。彼(女)らも無罪なのだろうか?殺しのライセンスでも与えるのだろうか?組織としての関与があると言っても、どの組織の責任とも言い難い。そして彼らを誰が捕まえるのだろう?その罪を立証する技術とはどうやって創られたものなのか。
経済というもの自体、実現しているかどうか不明な、少なくとも、すべての理論が解明されていない「仮説」に立脚しながら、少数のうまくいっているものをまねようとした組織体が半死半生・死屍累々となっている上に成り立っているのではないかと私は認識している。その虚像を暴かれまいとする投資に、どう組織を侵食されず保てば良いのだろう。
2008年9月 にサブプライム・ローンの問題からとされる資本市場の本格的なクラッシュがあった。そのときチラと忘却から引き戻されたキーワードが「フロンティアの消失」である。
公的資金の投入がなされ、中央銀行が国債を引き受けるような状態になったが、その状態で懸念されるのが、政治不正の横行である。なぜなら、政治的に投入先が決まるため政治家の権力が高まるとともに、政治的に敗れた者がスキャンダルに訴えるようになるからである。
その先には、逆に、企業が公的管理に導くよう、政治側が特定企業の経済スキャンダルをしかけることも想定しなければならない。それに対抗しようと企業の側が「結束」しはじめるが、それが良い状況だという判断がありうる。そこには公的管理にしたところで、イノベーションで抜け駆けするような企業は現れえないという「フロンティアの消失」または「歴史の終焉」の前提がだいたいあるからである。
さらに、メディアをにぎる資本家が自分の利益になるよう政治的に煽動していて、それが政治的に間違っているという国民的コンセンサスを構成できれば、それに対抗して国が資本を使い、情報を統制していくことができる。もし、「外部」というものがないならば、捜査機関を含む国が、当然に虚像を含む「イノベーション」を独占しているとできるだろう。
私が「フロンティア」と聞いて想い浮かべるのは、罪を犯したとされる者がフロンティアに送られる「歴史」である。王子がフロンティアで新たな理想郷を築き、そこから元の王国に圧力をかけるという物語である。
フロンティアに陣地を「仮設」すべく送られた軍で、母国で罪とされることを犯す実情はどこかにあるものだが、帰ってきたところ、それが噂になっていると想いがちである。時効を認めないという主張は、いくら戦時法は違うと言っても、母国のモラルとして蔓延するものであって、よりヒドイ罪を犯した者がテレビに出ているのを見ながら、軍人は問われるはずもない罪をいつまでも自責して苦しむようになる。
それでも心機一転できるよう築かれた「フロンティア」がないことになったなら、事情が理解されうるよう母国を「フロンティア」のごとくせんとするため、内戦や侵略の可能性を受け容れてしまうようにもなるかもしれない。
社会には、現実には階層があり平担ではない。国のレベルで「凶悪さ」を元に時効を廃止すれば、下層は彼らから見なした「凶悪さ」を国の責に帰した上で、いつまでも「国戝」の追及をしつづけることになろう。そのための予算がいくら膨れ上がろうとも。
「天才」によるものであってもイノベーションが「仮説」された背後にはフロンティアに導かれる者が多数横たわる。時効のないところに有限の負担でできるイノベーションがどれほどあるのか。人が特定の誰かを許すのは難しく、それでもその新しい命と共に生きる希望すなわちイノベーションを起こし続けるためには、法が一般に逃れの地を切り拓かねばならない。
不遇を生きていく者は、自らの思いを預け、または、自らを預け、伝わらぬ生を選択する。そう生きる方法はない。何かがあるから子がそう生きれるようにはしない。本当のところを支えていた「罪」に換わる正のブレイクスルーが必要である。
日本には朝鮮戦争以来「仮設」された「国連軍」が駐留している。そこは国連の軍としてもやってきた米軍の基地でもある。これは国連憲章 第51章の個別的・集団的自衛権に対する条件である「安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間」で想定された常設の国連軍とは異なるとされる。
1999 年、コソボ紛争における「虐殺」に対し「人道的介入」が行われ、その後、ユーゴスラビア連邦大統領であったスロボダン・ミロシェヴィッチが「人道に対する罪」に問われた。
ナチスにも問われた「人道に対する罪」には時効がないとされることがある。しかし、「人道的介入」をしていいのならば、なぜ、時効を停止する必要があるのだろう。
私は、海外への逃亡などによる時効の停止は、海外で自由になるのは「逃げ得」だからと考えたくない。むしろ、本当は、犯罪者であっても外に行かず留まることが得になる自国にしていく、彼(女)らと共に暮らすという選択を示すためであったとする。何があるかわからない海外へ逃げるのが、むしろ「逃げ損」であって、そうでないように促してきたのだ。
しかし、そういう外への恐れをいつまでも抱き続けるのも健全ではない。「人道的介入」を許せる世界になったのならば、外で罪を背負って生きることも同じ苦しみを生きたこととすべきではないか。
日本は、国連憲章 第53条、第107条の敵国条項該当国とされる。1995 年に国連総会でその条項の削除が採択されたのちも、批准する国の数が足りず発効していない。敵国条項を解釈すれば、日本に対する「人道的介入」はより許されやすい状況にある。
ならば、日本にフロンティアを作り彼(女)らと同じ国境を超えた「仮想的」社会を生きる選択をしてしまってはどうだろう。敵国条項削除を批准した国の犯罪者の時効は日本にいる間は進んでいると日本国としては認め、逆に批准していない国に行った日本の犯罪者の時効は進むと日本は認め、その国自体が共に日本と生きようとするよう日本をしむけていってはどうだろう。時効で無罪推定すべき人・組織を縛らないように主張していってはどうだろうか?
911 テロの前、私はイスラム教に関する解説書を読んでいた。コーラン 42:07 には「アラビア語を用いたのは諸都市の母と、その周辺の者に警告を与えるため」といった説がある。逆にいえば、アラビア語圏のみを意図した教えであるともいえる。もし、イスラムが外の世界にいったのならば、それは、そこがイスラムに敵対したからで、休戦になったら出ていくべきだったのかもしれない。そうでないという事態が許されてきたのならば、それは相互の人道理解が進んだ結果なのだと私は「仮説」する。
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罪に生と関係とをつくらせる歴史
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旧約聖書の創世記 9:25 で、ノアは孫に「呪い」をかける。
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人には寿命がある。寿命があれば知らないことが出てくるのは自明である。仮に永遠の生があったとしても、早く知ったところでわからないことがあろう。酒のように熟成される知識がある。知るよりも先に大地に生活を建てることが求められれば、裸を売るような倫理の倒錯に致る者もあろう。
罪がないだろう動物をも殺しその肉を食い、その皮を着物にして生きる人間は、罪のある「悪」に当然死を求めるだろう。いや、それは逆なのかもしれない。「あなた」も私も「悪」の死を願ったことがあり、力がないから殺せなかっただけではなかったか。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。
老いを知っていくのは人。緩慢に死に近づけば「奴隷」のように仕える人を欲っしてしまうのかもしれない。歯が抜けるにしろ過去の自分の発言がトゲになるにしろ、言いたいことが伝わらない。物言わずして察するという「超能力」まで人に科学に求めてしまうときもあるのではないか。
悪は確かに実在する。もっとも、「あなた」は、悪がこれらに限るわけではないことを見ているに違いないけれども。
とはいえ、カナンはノアの末の息子の子、すなわち、末の孫。「奴隷の奴隷」という表現を使いながら、案外もとは孫を手元にずっとおいておきたい、という微笑 えましさ、愛であったと見ることもできる。
1997 年、六大改革を進める内閣の下、北海道拓殖銀行と山一證券が破綻。そこから「経済大国日本」は長い不況に入り 2010 年の今にいたるまで「本格的回復」はついぞなかった。不況も当初のころは、フリーターが街にあふれ、起業に夢を抱く若者も多かった。それが、好況の芽も見えたと思った 2006年1月 のライブドアの堀江貴文の逮捕のころには、労働者派遣の問題が政治の場にクローズアップされていた。1997 年に 24 歳研究生だった私が見た世の中である。
労働者派遣を肯定するロジックに、「人的潜在生産力」は就ける職業の多さによって決まる、だから、一つの仕事に留まるのではなく派遣によって様々な職を体験させるべきだ、といったものがありえる。今、必要な労働とは必ずしも違うが、何かのリスクが顕在化したときや、「老い」などで就労者が少なくなったときに備えて、技術承継のための訓練を受け、その技能を維持するためだけに断続的にでも仕事をこなしておく者が必要だろう……。
イノベーションを経済の原動力とし高度な職人が職を失う世界で、その理屈の有効性はかなり疑わしいが、フリーターの不安定さ、起業の難しさ、休業期間のある者の(再)就職の難しさを考えれば、自活を導くのにそれを信じるしかなかったようにも思う。非正規の生き方のほうが収入の安定性がない分、社会保障を厚くしなければやっていけないはずなのに、雇用不安などの「現実」によってそれが主張されていなかった。
一方で、健康も結局「自己管理」で自分さえ組織さえ納得すればいい、それぐらいの責任を負えるのが社会人だとされ、国家公務員を筆頭にサービス残業が常態化している世界があった。健康という観点からは彼らのほうが社会保障の厚みを必要とした。
正規雇用と派遣社員等の非正規雇用の間には深い「断層」があった。それは御国 のために死地に向かう軍人と出所の目処 なく働く囚人の違いのようですらあった。
「明日生きることに希望をつなぐだけ」というのは死刑囚に残された希望と同じように私は想う。年金や将来の結婚に想い及ばない労働者像を許すのは、どんな世界観が背景にあるのだろう。
死病から生還する者が増えて、「なぜ私が生きたのか」と悩む者が増えているのが一因ではないかと訝 しむ。自分というものが生きてしまったことを肯定するために、若者が「死」から自らを生還させたとき、そのみすぼらしくもある「生」を肯定するに致った感情モデルを自分に「移殖」したいということはないだろうか。
その「欲望」を肯定的に捉えてみると、死病でも正常に保つためのメンタリティを、後続世代に「移殖」しようとしている……そのような「交換」に経済的な権限の移譲も付随させたいということがありうるのか。
死病を生き延びることは、死病の種類こそ違え、人数の多寡こそ違え、昔からあった。「その日暮らし」も昔からある。その暮らしに持つ一片の明るさという印象も後の世代のものでしかないのかもしれない。それが増えたというだけで何か変わるというのだろう。
そもそも死の意識がある闘病生活と死までは考えていない労働では大きな違いがある。本当の死を知る者はいない。しかし、病から生還したものが、闘病期に見た「カゲ」を「死」そのものと了解しなくても疑いを抱き、その両者を他者の上に混同させていないだろうか。
……だとすると本当の病、社会の病は、自分の死を軽くみすぎていることにあるのではないか。いや、それはない、それはないよ。死に真剣にならぬ人はいない。
労働者は、ここが病室でも牢獄でもなく、働いている場所と住んでいる場所の間には異空間がちゃんとあることを知りうべきである。そのような「移動の自由」がないと想わせるのは、私の理屈では「フロンティアの消失」を生きるしかない者がいるからということになるのか。
死を重くみるとは死を恐怖することではない、病にあっては死と闘うのではなく病と戦う。倒錯的だが、死刑は、死がもっとも恐ろしいからではなく、命が他に替えがたいものだという共通認識に依る。
死刑廃止派は終身刑の導入を訴えることがある。しかし、本物の終身刑には希望がない。明日生き残ることへのモチベーションすら持てない。そして、そのことは「フロンティアの消失」を生きる者にとって「時効廃止」もほとんど同じことなのだ。
ずっと逃げなければならないなら、とにかく皆殺しまで殺し続けることを試してみるという「阿修羅」を生むことになる。もちろん、どんな社会も、そんなところまで行かせるはずがないが、そういうストレスを与え続けることになる。
罪を犯した者が、さらに罪を犯さなければ希望がないという社会にしてはいけない。
罪を犯した者を囚 え、善に替える。部分的に明らかな悪を除き善にすげ替える。それは善いことではあろうが、例えば、移殖医療で人が助かるのが善であるとしても、それによって移殖用の臓器を得るために人死にを望むような心象が生まれてしまう。その倫理的な傷を糊塗 するための方策も考えねばなるまい。
時効延長の理由として科学捜査の発展が挙げられることがある。科学捜査が発展した社会では科学的な殺人方法も発達している。科学者が罪に加担しないように、最初の投資を規制したり、新しい証拠保全方法を開発したり、組識構造の探知・推定や外から組識内責任をコントロールすることも考えねばならないのかもしれない。
移動の自由を保障するため、患者の転地を認めるとき、臟器もまた転地する。時効を待つことを否定し、逃げる苦しみから死を選ぶことが当り前の人が増えれば、臟器の提供が増えるわけでもなかろう。
症状が似ていても違う病いというのはよくある。転地が医師に築きあげる印象が、本来なら回復する命を摩滅することもあるのではないか。全体を見るとき像に地域が反映するよう、履歴を追い把握する必要もあるだろう。どの地域の汎用 薬を使ったかその時間的効果を確かめる体制も必要かもしれない。
日本の人口構成はこれからもどんどん高齢者の比率が高くなるのはほぼ確実である。それが日本では「歴史の終焉」にリアリティを持たせている。ある時点から医療にすら係わらず生きた高齢者の「無知」は、子や周りの人によって糊塗されることは少なくなっていくかもしれない。慣習的に守られていたことも、日本の法にしなければ知り得ない、知識が届かない人が出てくるのではないか。
時効には深い「断層」がある。時効前に捕まれば何十年という罰があり、時効をほんの少しでも過ぎれば無罰である。新訴訟法説にいうように、「犯罪者」と生活を築いている者がいる。その者にとっても時効は、これまでの関係を変えるかもしれない不安を抱かせる。時効延長・廃止によってその関係を永続するのを謀るのではなく、そこから本当の自由を得ようと促さねばならない。
時効前の一定期間における起訴には、自白の場合に限らず、必ず執行猶予を付けるよう法定してはどうだろう。彼(女)らを保護する構造を変え、仮想的に「転地」させるのである。私はそれが国民の健康を増進させることもあると想う。
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結論
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時効延長・廃止を留める方法、または、その後から時効を短くする方法として、「時効延長の国会承認」「敵国条項と時効停止条件を結びつける」「時効前執行猶予の法定」を挙げた。
自分で書いておいてなんだが、「時効延長の国会承認」でかかる政治的負担は大きく、被害感情を逆撫でる。「敵国条項と時効停止条件を結びつける」のは移民の受け容れさえ難しい日本ではまず理解が得られまい。「時効前執行猶予の法定」にメリットのある組識はほぼなく、集団訴訟すら根付かない国で誰も支持できそうにない。しかも、論の元となった私の社会理解はかなり歪 んでいるときている。
これらがとてもまともな「対策」とは自分でも思えない。しかし、より「原始的な方法」を否定した上で、時効が延長・廃止されるのを阻止、または、されたのを取消すには、そういう無理を選ぶしかないのではないか?それは明らかに道を踏み外していくことだ。その前に踏み留まらねばならない。
私は時効の延長・廃止に絶対に反対である。
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参考
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更新: | 2010-03-16--2010-03-23 |
初公開: | 2010年03月23日 14:27:55 |
最新版: | 2010年03月24日 13:10:14 |
2010-03-23 14:27:49 (JST) in 司法制度 法の論理 国際法 | 固定リンク | コメント (3) | トラックバック (4)
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コメント
更新:日弁連へのリンクを足した。
投稿: JRF | 2010-03-24 13:12:24 (JST)
時効廃止、国民の大半が賛成しているようだが、やはり問題だと思いますよね。
それよりは、現行法の時効停止規定を見直すべきだと思いますがそんな検討は全くされていないですよね。
共犯者の起訴で、他の犯人の時効を停止する必要などあるでしょうか?
匿名投稿 | 2010-04-24 10:06:48 (JST)
まず、私はいわゆる専門家ではないため、上に述べたこともこれから述べることも、法律実務を反映していないことは付言しておきます。あたり前ですが、ここで述べられたことに何の権威もありません。
検討がなされているかどうかで瀬踏みなさっていますが、その点については本当にわからないです。このような警戒感を最初に出すのも私の妄想癖ゆえです。
本題である公訴による時効停止の必要性ですが、裁判をしているときに時効が切れるようなことがあるならば、検察はすばやい審理を求め、弁護士はひたすら粘るのが正しい訴訟戦略になります。このような状況だと、時効の成立を巡って外部をまきこむ激しい葛藤が生まれるでしょう。
このような観点から共犯者の時効停止を観ると、まだ捕まっていない共犯者の存在は、外部をまきこむリスクを増します。上の理由により時効を停止するなら、共犯者の時効も停止すべきだとなります。
ただし、本記事の主旨に順えばそれが時効延長の効果を副次的にもたらすのは厭うべきことです。よって、裁判全体のすばやい審理を求めるべきという帰結も同時に導くべきでしょう。
ここで問題になるのが、死刑に関する裁判です。死刑になることがあらかじめわかるような裁判というのがありえます。この場合、死刑廃止は主張しないが、生命を尊ぶという(倒錯的)観点からは、死ぬ時期が遠ざかるよう裁判を引き延ばすことが正しいという信念を形成しえます。
これは上の時効停止+すばやい審理という主張と対立します。もしかすると、ここの解決が求められているのかもしれません。
単純には、死刑が求刑されたときは(共犯者の)時効停止がなくなるとする方向があるでしょう。
……ただ、これまでもそういうことは考えられてきたはずで、この「妙案」も何か落とし穴があるのかもしれません。
コメントありがとうございました。この考察が、求めた答えを導く一助にでもなれば幸いです。
投稿: JRF | 2010-04-24 21:50:46 (JST)