受託者責任と違法ダウンロード拡大
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ストーリー
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ユーザーの占有する PC でスクリーンショットをできなくするのはやり過ぎであった。PCを一時預ると目されるサービス提供者は受託者であり基本的にユーザーのために努力せねばらなないのだから、それは背任(罪)である。それが他では手に入らない著作物を以って迫られたという点において、強要(罪)であった。その契約に不備があるのを知りながら、それを悪意ある存在とみなそうとしなかった OS 提供業者も背任のセンが濃い。そして、それらが著作権者集団の共謀(罪)のうちになされたという疑いが濃厚である。
スクリーンショットをできなくすることは引用をできなくすることである。引用は私的領域・公開しない領域でもなされうるもので、表現の自由どころか内心の自由さえ著しく侵害するものと言えよう。
クラウドロッカーは、根拠不明に、特定のファイルのアップロードを禁止したことがあった。寄託を受ける受寄者としてユーザーの財産の保管をいたずらに危険にさらす背任の疑いが強い。
スクリーンショットの違法化などは、ここを無罪にするため、事後的にそれを正当化する論理が求められ、その犯罪にまさに政府が加担しようとしているとみなさるのではないか?
とは言え、もちろん、そもそも特定の任に着く契約をしたわけでもないという主張や、共謀罪の要件にあたらないという主張や、罪刑法定主義にてらして問題ないという主張を私は排斥するものではない。ただ、ここでは原理的な部分を問うている。
私は別に有罪だから糾弾しようというのではない。先の政府ではないが、原理的な罪でしかなくてもそれを無罪とできるように環境や論理を整えていくことはでき、それをすべきだというだけのことである。
まず、クラウドロッカーの場合は話は簡単で、上のものは単に言いがかりのレベルでしかない。法律の本を読むと、寄託に類似する事務管理ではしばしば、公序良俗との関係が問題になる。公序良俗に反する物は、受け付けなくても受寄者としての任を果たしたことになるだろう。ただ、その場合、その物が違法物であることが明確でなければならない。
私的複製が刑事では違法でないが民事では違法であることにどういう意味があるか疑問に思う人もいるかもしれないが、こういうとき民事で違法であることが明らかなら、それは公序良俗に反するから受け付けない、場合によっては消去する論理が通用することになるのである。
一方、スクリーンショットを禁止したことについて、ここで所有者の管理という軸を導入するのが本稿のタネを明かしとなる。
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この「身分相応な管理」を取り出し、もっと一般に著作物の「応分の管理」ということを考える。その実態は、消費者の場合は、ウィルス駆除ソフトを導入したり、WiFiルーターのパスワード等を適切に設定したりという「消費者として十分な注意(消費者十分注意)」程度のことである。
これにより、スクリーンショット禁止は、応分の管理を容易にするために、または管理コストを安くするために行われたユーザーのための行為であったとなる。
スクリーンショット禁止が「やり過ぎ」というのは依然としてあり、後述していくようにそれをケアすることを考えるにしても、応分の管理という軸を導入することで、背任罪や強要罪まで問うのは「行き過」ぎとなろう。
さて、話のつかみとしてまず煽情的なことを書いてみたが、そもそもの本稿の目的は違法ダウンロード拡大について広く提案を行うことにある。
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概要と参考文献
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現在、違法ダウンロード拡大…すなわち、これまで映像・音楽などに限定して海賊盤のダウンロードを犯罪としていたのを、その限定を外して一般の著作物に拡大して違法化・犯罪化をすることが、文化庁で画策されている。特に問題となっているのが、スクリーンショット(以下「スクショ」と略す)すら違法ダウンロードの一種とみなすという方向性である。
基本的に私は、違法ダウンロード拡大「反対」である。ただ、そのことを検討する過程で、文化庁の提案などにいくつか善用できる部分もあると感じ、そのことに関してこちらからも提案を行う。
本題に入る前に本稿で参照するいくつかの資料の呼び方を導入しておく。
本題に入る前に、文化庁などに批判的な者の意見としてたまに「事情を知らないダウンロード」みたいなあいまいな表現はダメという主張がある。しかし、そういう者達の中には、一方で、「公正利用」というあいまいな一般概念を入れるべきという主張があり、その点で整合性がとれない。本稿では、あいまいな表現も気にせず使っていく。
では、本題。
まず、述べおくべき大切なことは、海賊版のチャンネルは民主主義に必要であるということである。出版は必ずしも自由でなく、読むべき人間のところまで本が伝わらないことはこれまでもあった。それは圧政であったり、言語の壁であったりするわけだが、現代ではさらに DRM の問題がある。差別的言説が書かれた本を特定の者だけ買ったり読んだりできるように制限することも可能なのだ。
民主主義では特定の者だけが、その豊かな財産を使って本を手に入れれば十分なわけでは決してない。財産の多寡にかかわらず、読んで知識を得ることができなければならない。圧制下にある人にも届けるためには、図書館だけでは十分ではない。民主主義を守り広めるためには海賊版が必要となるところで、高度な政治的判断が求められる。
ただし、海賊版のチャンネルが必要だとしても、それがネットで検索すればお手軽に手に入るようである必要はない。著作者が生活できるのも大事なことなので、アップロード(自動公衆送信)が禁止されることは、民主主義下においても問題はない。不当に著しく利益を害するアップロードは犯罪なのだから、その共犯として行なわれるダウンロードも違法であり犯罪であるとすべきかもしれない。
しかし、DRM が厳し過ぎ、さらにプライバシーが守られにくい現状・またそれを許していた先にある未来では、メールや日記に「私的引用」するのにさえ海賊版に頼らねば難しい状況がある。そのため特に所有している物についてダウンロードを犯罪化してしまうことについては私はいささかためらいが強い。現状、それも犯罪であると著作権法では読めることについて、応分の管理を前提に、そうではなくすることを提案する。
また、それに関連して、違法にアップロードされた著作物の位置を知らせ違法なダウンロードを促そうとするような「リーチサイト」の規制も同時に検討されている。しかし、海賊版であっても一度(実質)公開された情報は社会の共有財産としての性質を持つため、リーチサイトを規制するのなら、後世にその情報にリーチできるよう DRM をはずした電子書籍やビデオを国会図書館に納入させるなどしておく必要があると私は考える。
ところが、ビデオについては現状でさえ DVD 等の国会図書館への納入は制度化されていない。すると頼れるのは、民間における独自保存ということになる。特にスマートフォン(以下「スマホ」と略す)のゲームや PC のネットゲームなどは、その情報の保存がとても難しくて引用などを残していくしかなく、その辺りは、ある程度は資料の保護を国(の学術機関)がやるべきだと思うが、人文系の予算が削られる昨今、基本は個人に頼るしかない。
これにより、差別等の証拠保存のために海賊版が必要であるということとは別に、単にブラウザ等で視聴・プレイしたということについてもその証拠を保存・保管することを保護すべきとなっていると見るべきだ。それについて、相当劣化するアナログを介した私的複製や、ユーザーが応分の注意をして非ネットワーク機器に保管する証拠としての私的複製については、民事的にも違法なものとしないことを提案する。
応分の管理は新たな義務の側面があるが、新たな自由のためにその軸を導入することを提案している。
DRM でそもそも私的引用すらできなくなっているのが証拠の保存を是とする立場からは大きな問題である。アナログなスクショや証拠保管より一歩進んで、「公正な私的引用を妨害する物」は著作物とは認めないようにすべきだとも提案する。
コンピュータは自動化が得意で、その果実を使って社会を効率化することに一定の意義がある。受託者が背任罪に問われないようにするだけでなく、その判断がしやすいようにもすべきだ。「事情を知らない」でダウンロードした場合は違法でないというのは、受託者から見るとてても不安定で、警察等が自白を強要する心配をもたらすものである。「事情を知らない」のは一定の期間(一ヶ月以内)のみとし、上記の証拠保管以外のものは消去する運用を促すかわりにその間は明らかに違法でも一切違法と推定されないことを提案する。
私の提案はユーザーにとって都合のいい話だけではない。権力者にとって都合のいいところだけつまみぐいされるのは、たまったものではない。総合的に導入することを求めるものである。
以下、これまでに述べたことを、重複をおそれず、詳しく論じていく。
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海賊版は必要
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「概要」で書いたように海賊版は民主主義にとって必要である。特に DRM の存在は民主主義にとって脅威となっている。DRM で特定の者を囲って、憎しみを培養させ、またはカントが忘れられつつある現在「秘密外交」をして、昔のような身分制度を確立することが再び可能となりつつある。DRM は単に個人の自由を阻害するという以上に社会の敵となる性質を秘めている。
とはいえ、海賊版のチャンネルが必要だとしても、それがネットで検索すればお手軽に手に入るようである必要はないのかもしれない。著作者の側から見てもネットは探知しやすい場所であるからだ。
著作者が生活できるのも大事なことなので、アップロード(自動公衆送信)が禁止されることは、民主主義下においても問題はない。不当に著しく利益を害するアップロードは犯罪なのだから、その共犯として行なわれるダウンロードも違法であり犯罪であるとすべきかもしれない。
いちじるしく利益を害するから再アップロードが、犯罪加担だというのはいい。しかし、情報の流通経路まで制御させてるのは先のように民主主義の敵としての性格が強くなる。どのように拡散させるかまでコントロールさせてはいけない。最低限、メールや日記に「私的引用」できることは確保しなければならない。
しかし、それすら DRM が厳し過ぎてできない現状がある。さらに DRM はネット接続を要するため、プライバシー情報も潜在的にネットにさらされがちになる。それらが、単に便利で無料であるというのを超えて、多少のリスクがあっても海賊版が求められる背景になる。一度、そういう状況を許してしまったという責任が社会にある以上、今海賊版をある程度「許す」だけでなく、未来に向けても海賊版の可能性を開いておかなければならない。
民主主義は参加を促される。しかし完全な参加もないのは常識で、多くの消費者が特殊な消費者の権利に関心がないからといって、その強い要求をないがしろにしてはいけない。一般人がその要求の強さを認識できないなら、何がしかの抵抗運動・実力行使がなされることはやむをえない。違法ダウンロードは単に自分の利益のためでなく、将来の者の権利のためのギリギリの必要悪・抵抗としてなされているのかもしれない。多数派の構成する社会はそれを包摂していくことも求められているのだ。
カラオケ法理や肖像権があるから、立法による解決がいつまでもなされないという側面がある。一方、消費者は立法によりとりあえず封じる形になっていて、誰も裁判をおこなさないからそのままになっている。消費者の権利はいつまでも立法されない。「革命」的行動すら求められる。
まっとうな所有者が海賊版を手に入れるのにはそれなりの理由があり、そこは犯罪に問うべきではない。罪にする必要のないものも法文化が難しいからととりあえず罪になっているのは、警察国家の謗りを免れない。
所有者のダウンロードが犯罪化してるように読めるようにしたのは、著作権者の側に媒体コントロール権があるということにしたかったからかもしれない。確かに、著作者の望む媒体で視聴することが、著作者の名誉のために良いことには違いなく、新たな媒体を買えと言えば買うのが視聴者の正しい姿なのかもしれない。しかし、それにも限度がある。極端な話、著作者が死ぬときに、もう視聴しないでくれといったら、何人もそれを読んではいけないのだろうか?
本に感動した人は、著作者が望まないというだけで、二度と本を読めなくなっていいのだろうか? そんなことは許されない!
一度、著作物が(実質)公開されたなら、それは社会の共有財産になるのである。未購入の者にもそれを(有償であっても)いずれ視聴できるよう開かれているということが、社会の共有財産なのである。時代の変遷でどういう媒体・形になっても視聴の可能性が開かれているというのが、著作者の権利よりはずっと社会の財産なのである。著作者がその名誉・同一性保持権をいくら訴えたからといって、それを守るのは限度がある。その訴えができるだけ守られるのが望ましいとしても。
後世のための「海賊版」のダウンロードは許すべきである。さらに DRM がかかったものや特殊なフォーマットがかかったものは視聴できなくなるおそれがあることから、一般形式での保存を、どこかに・つまり民主主義では個人個人に残していかないといけない。国家に集中して残すのも大事だが、個人やその相続者が望めば遺るようにするのも大事である。すべての人を信用することはできないというならかまわない。だから、応分の管理を私は強調する。
ちなみに、DRM が完全に必要のないものかというとそうではないと私は考える。所有権を明確にする機能があり、将来的にはデジタルデータの譲渡が DRM を介して可能になるかもしれないし、貸出のためにユーザーに近い側が DRM をかける未来もありうるだろう。DRM に制限をかけることは必要だし、DRM への課税はいずれするべきだと思うが、それを禁じる必要まではないと考える。
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暴露ウィルス
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P2P ファイル共有がさかんに行われていたとされる時代があった。そのころのことはもう知らない人もいるかもしれない。
P2P ファイル共有とは、自動的なマッチングでペアになった PC をつなぎ、欲しいファイルをバケツリレー式に交換して手に入れるという機構である。
P2P ファイル共有では、「暴露ウィルス」が隆盛を誇った。「暴露ウィルス」とは、PC 内のファイルをユーザーの意志にかかわりなく、P2Pファイル共有の機構に流出させてしまうものである。そのころ P2P ファイル共有をやっている・いないにかかわらず、PC 内にあるファイルはいきなり公開(暴露)されるリスクが高いものとされていた。インターネットでは一度、暴露されると実質的に消去ができなくなると強く信じられていた。
P2P ファイル共有が下火になって、Windows には標準でウィルス駆除ソフトもついてくるような現在では、「暴露」はほとんどないと思われる。ただ、形を変えて、クラウドロッカーでパスワードを破られる場合などは「暴露」に近くなる。また、近ごろセキュリティの弱いところに政府等が侵入してもよいという話が出てきて、その技術が流出すれば侵入が試みられることが多くなるかもしれない。そこでファイルが盗まれたり暴露されうるという話にはできる。
著作物の「流出」に限っていえば、すでにアップロード・再アップロードが禁止されている。その他のユーザーの私物的「盗品」については、それを保有することが各国で盗品等保管の罪となり、国際手配まではいかなくとも対応できるのではないか。「消去」はまったくの不可能というわけではなかったということになろう。
著作物について盗品と同じような対応はなぜできなかったのであろうか? 基本的には、デジタルコピーについては、すでに暴露済みなら、暴露の被害者が逆に盗んだものとしても区別がつかないからであろう。そして、根本的には、著作物は、上述のように社会の共有財産だからで、公開されている情報(実質的に公開されたとみなせる情報)はどこかの国などが独自の判断で残すことについてまで禁じれなかったからであろう。または、財物をシェアしたいというユーザーの意志がある場合は、社会主義的理想を完全には否定できなかったのかもしれない。
盗品や著作物について流出したあと、海外などの他者により公開された場合、現実的にはどうすればいいのだろうか? 日本では近ごろ否定されたが、原理的にはブロッキングということになる(ブロッキングについて私は [cocolog:89997835]、[cocolog:89428585]、[cocolog:89103582]で少し論じている。)。
ブロッキングをしないなら流出する前の予防策が大事になるのが道理である。しかし、十分な流出対策がなされない、その責任がユーザーに付与されないからと言って DRM でユーザーの領域で守るのは、力による強要の証拠としかならないと私は考える。
「暴露」については一つ論じておかねばならないことがある。侵入やウィルスによる暴露によって、ファイルがアップロードされることが心配なら、プライバシー情報が暴露されることもありうるとせねばならないということだ。
エロ本を読んだりすることは重要なプライバシー情報であろう。DRM がないといけない、またはネットに接続していないといけないというのは、暴露の危険があるということである。それを避けるためには、上述のように便宜的に海賊版のダウンロードを選ぶものがいてもいたしかたないのではないか。リスクの高いサイトにありがちな海賊版をわざわざ所有者がダウンロードするのを犯罪化すべきではない。
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受託の実態
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MP3 ファイル販売に見られるように、自由競争により音楽では DRM をなくする方向に進んだとできる。一方、電子書籍やビデオは、カルテルに近くなっているのだと思う(著作権法のカルテルは独占禁止法から適用除外されている)が、競争で DRM がなくなる方向に行っていない。ここに対処する必要があり、自由競争とは別の論理で業者を追い詰める必要がある。
OS 提供業者は、アップデートを通じて PC を管理している。さらに、悪意のあるソフトの除去ツールまで提供して「悪意」の存在にも敏感である。ユーザーからその管理を「受託」しているという実態がある。DRM ソフトを提供する者も PC に強い権限を持ち、一部とは言え、ユーザーの PC の管理を分担しており、これも「受託」の一形態であろう。クラウドロッカーは、少し異なるが「寄託」を受ける「受寄者」の性格を持つと言って良いだろう。
いずれも、管理者としてユーザーのためになることが期待されるはずである。法律上は、「役務提供者」と呼ぶべきであったとしても実質「受託者」であり、「受託」ということを示唆しながら、その期待にあまりにも反することは信義則(民法の信義誠実則)または(英米法では)禁反言からできないと見るべきだと私は考える。さらに消費者の場合は、消費者契約法から、「受託」という言葉から通常期待できるサービスを期待できよう。
これら「受託者」には管理をかなりまかせているので、背任の問題が出てくるはずである。また、この流れに棹さす省庁も同罪だと言えよう。この背任という問題を回避するためにも応分の管理という軸を導入することを本稿では提案していく。
なお、受託者の管理には費用の弁済を求められるが、それは基本的 OS (が付属するPC) を買うときなどにすでに消尽していると見るべきだろう。合意により追加の費用を求めることを妨げるものではないが。
事務管理において公序良俗が考慮されることがあり、似た論理で、クラウドロッカーについては盗品に近いものは管理を拒絶しても問題ないのかもしれない。このとき刑事として罰はないが民事として違法なものという概念が意味のあるものとなる。ファイルの拡散に協力したとみなされ、誠実な寄託を否定されることを避ける意味もあろう。
一口で言って、「犯罪ではないが違法」というのは「本人の財産とは認められない」という意味がある。
相続者の代理人が PC やクラウドロッカーの整理をする場合、受託者として本人の名善のため、公序良俗に反するファイルを消去することも考えられる。特に遺言になければ、違法なものはやはり消去されるかもしれない。
セキュリティの弱いところに政府等が侵入してもよいという話が出ているが、正規のハッカーが PC に侵入する事態もありうる。物理的に PC の前にいる場合もネット越しのこともありうるが、限定的なログインなら、PC 全部の差し押さえよりはマシかもしれない。それが、違法なファイルを発見した場合どうするか。他の侵入者の誘引とならないよう、それを消しておくという運用がなされるかもしれない。そのときにはやはり民事で違法だから消してよいという論理になるだろう。
近ごろ否定されたが、ブロッキングがなされるときも、民事で違法となることがその根拠となるであろう。
P2P ファイル共有では消去ができないのが問題になったが、仮に P2P ファイル共有で消去のためのウィルスをばらまいた場合、ダウンロードフォルダの民事的に違法なファイルのみ消去するウィルスならば、不正なものと扱われない可能性もあったかもしれない。たまたま侵入できるような PC から、配布物は消しておくということが合法とされる未来もありえたかもしれない。
DRM ソフトがスクショを禁じれるなら、どうしてそのようなソフトが消去もできないか…という論理が生まれる。逆にそれができないならスクショ禁止は「やり過ぎ」ということになるのではないか。スクショ禁止がこのまま続けば、民事で違法なファイルに限るかもしれないが、自動的に消去がなされる未来もありえるかもしれない。
このような場面で、広く「受託者」が罪に問われないことは大事で、あいまいなところをクリアにしていくことが必要である。また、それより一歩進んで、コンピュータは自動化が得意で、その果実を使って社会を効率化することに一定の意義があり、受託者の判断がしやすいようにも整備すべきだ。
「違法に」 PC にデータを残している場合、仮に厳重な PC の管理をしていても侵入者が優れていたため侵入されて万一流出したときには、責任が問われるかもしれない。応分の管理の軸の導入は、そのような場合の免責という側面がある。
受託者(クラウドロッカーなど)はプライバシーをできるだけ侵害しないようにする責任もあると思われる。ファイルの内容を直接確認するのではなく、そのハッシュなどの確認に留めることが求められるだろう。違法だから消すという方向以外に、受託者が作家が受けた影響を調査する依頼を受けるときなどにもそれは役立つものと考えられる。
このとき問題となるのが、スクショの違法化である。これまではハッシュがわかれば十分だったのが、スクショを含めるということはデジタル指紋による同定のようなことも行うということかもしれない。デジタル指紋ならギリギリ見ないとできるかもしれない。
しかし、一律にデジタル指紋があるものをダウンロード禁止とする法制にすると、逆に脱法のためデジタル指紋が機械的に消されるようになるおそれがある。それは調査のときなどに不利になる。だから、後述の様々なスクショ禁止の迂回策とともに、機械的に収集されるスクショのみ違法にすることが考えられる。機械的なスクショなら、ハッシュも同じになる場合もあるだろうから、ハッシュ法が使えるかもしれないのも強みになる。
ただ、「機械的」という言葉は工夫の余地があるかもしれない。JPEG など画像ファイルの圧縮もプログラムである意味「機械的」になされるから、単純に「機械的なスクショはダメ」と言ったら、すべてのスクショがダメになる。私は昔、ユーザーによる手順を超えたプログラムを問題にするとき「無教養物による高度な実行可能性をもった著作物」という表現をしたことがあるが、それが参考になるかどうか…。
ハッシュが同じになることが受託者の自動化には重要なので、自分で作ったスクリプト等は問題にすべきではない。流通するプログラム的なもののみ規制すべきで、「流通する機械的手段を用いて」と表現すればよいだろうか。
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所有者のダウンロード
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海賊版を提供するのは何がしかの利益があるのだろうから、それをダウンロードする行為は、犯罪者への利益を与える協力ということになるから、通常はすべきでない行為とは言える。(利益を与えていない場合は、微妙だが…。)民事で不利な扱いを受けるのはいたしかたない。
さらに、著作者が親告した上で、捜査の端緒として海賊版のダウンロードをした所有者が逮捕されるのまではやむをえないのではないか。その後、所有していること・管理が十分であることを証明して、釈放されればいい。ネット上で、所有や、所有者として管理が十分であることを証明する機構ができ、それによって逮捕が避けられるのならば、それに越したことはないが。
そうとは言え、所有者のダウンロード違法化はありえても、可罰性はないとするべきだ。現在の著作権法でそれが罰則ありになっていると読める点で、日本語の敗北、法文化の敗北である。現状でも「不当に害しない」ので問題ないのかもしれないが、萎縮効果はあると言わざるをえない。
著作権法では所有者を免責すると同時に捜査の端緒としての逮捕は許すような、推定規定に変えるべきだと私は考える。例えば、「海賊版と知ってダウンロードをしてはならない。親告罪とす。所有者が管理を十分に行っていることを証明できれば、または、公正な利用であれば、罪に問わない。証明のないものは親告があれば罪を犯していると推定して(逮捕して)よい」。
「公正な利用」とは著作者の差別の証拠を収集する場合など。今は差別の側にいるが、寝返ることも考えられ、そういう人がダウンロードしていれば、後で証拠になるため、所有者のダウンロードで十分という意見があるかもしれないが、私はそうは考えない。
「JILIS 提言」には、「30条1項(…で、…)「原作のまま」のものに限り、加えて、「著作権者の利益が不当に害される場合」に限ることを明記するよう提案する。」とある。刑事罰については「報告書」(p.74, p.80 とか)にもあるが、民事的な違法性についても[JILIS提言」では要件とすべきと書いている。さらに、刑事罰については常習犯に限定するように主張している。
私は民事違法だが刑事罰はないでも十分だと思うが、後述のように所有者のより強い管理があれば、民事も違法でないとしても良いかもしれない。そうじゃないと受託者が判断に困るだろうから。
「著作権者の利益が不当に害される場合」については、私と比べると「JILIS 提言」は応分の管理コストを求めるという点が明確でないと言える。逆に、私の書き方では足りない利益がある場合もカバーされる面はある。例えばゲーム ROM 吸い出しサービスが行われていた場合、所有している ROM をダウンロードするのは不当に利益を害するのかという問題がある。
「JILIS 提言」を読むと、不正や差別の保存も「著作権者の利益が不当に害される場合」で足りると読めるので、それでカバーされていると見るべきなのかもしれないが、争いになる可能性があるので「公正な利用」を明示的に排除する方向のほうがよいと思う。
「著作権者の利益が不当に害される場合」や「公正な利用」の規定がなくても、そういうダウンロードをしたものを訴える著作権者は、民法のいう権利の濫用にあたり排除されるという意見もあるかもしれないが、それに頼るのはあまりに不安定なように私は思う。
「常習犯」の要件は、非親告になる危険が高く慎重に考慮する必要がある。ただ、CD-R に焼いたデータを売る場合などは、私は「常習犯」の規定を補償金の設定と同時に行うことで実質解禁の方向で考えている。後述のように特にスマホ時代には必要だと考えている。
ちなみに、リーチサイトの問題で、「報告書」の p.26 でも「著作権者の利益が不当に害される場合」の検討がなされ、これまで除外されてこなかったという見解があるが、無料マンガ等を含めるために有償に限らないことは必要という見解もあり、一方で、著作権法には有償かどうかで判断してきた文はあり、それにかえて、「著作権者の利益が不当に害される場合」を明記することは意味があることと思われる。私的複製に関する刑事罰について一般に「著作権者の利益が不当に害されない場合」を除外することは意味がある。
私ごときの提案には力がないが、他の者には力がある。「著作権者の利益が不当に害されない場合」を除外するだけでも一定の効果はあろう。
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アナログ的スクショ
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私は、スクショについては以前から「(スクリーン)キャプチャ」と呼んで、その禁止に懸念を表明してきた([cocolog:89103582], [cocolog:72808649])。特に、PC でのスクショ禁止をこのまま許していると、デジタルカメラ(以下「デジカメ」と略す)に無線電波を送りその撮影を禁止したり、旧式のデジカメについても PC 内に取り込むときにファイルを選別して削除するような行為に対し、歯止めが効かなくなることを私は問題視する。そういうことをやらせないために、まず、PC 内にスクショの権利を押し戻さないといけない。
また、海賊版のスクショを禁じるのを許していれば、今度は、SNS などで規約にスクショ禁止をうたっているから、そこでスクショすることも違法とされ、自動的な消去の対象とされかねない。SNS で差別的言説がなされたときその証拠が残せなくなる。これも大きな問題だ。
スクショを撮ったところで、他人の財物である著作権を毀損することはなく、あるとすれば、流出の危険が増すということである。普通のスクショ程度であれば基本的にどういう管理をしても問題ないと思うが、もし必要なら応分の管理を要件にして広くスクショにあたるダウンロードを可にしていくべきだろう。
ちなみに、上で、自由競争で電子書籍の DRM がなくなる方向に行っていないと述べたが、例えば FANZA(旧 DMM R18)では、専用ビューワーで見るときはスクショが撮れないが、それ以外にブラウザで見られるようにしていて、それはスクリーンショットが撮れる。ただ、これは将来ブラウザが DRM に対応するようになればどうなるかわからず、実際、昔、FANZA は一部のアダルトビデオにスマホ対応として劣化したビデオ(mp4)がダウンロードできるようになっていたが、スマホにも専用ビューワーを導入するにつれてできなくされたということがあった。スクショは権利として確立しておかねばならない。(なお、Amazon Kindle は2019年2月22日現在、スクショが撮れた。)
「留意事項」では、スクショが法律的にもダメになるという方向性を示しながら、それが印刷によるものなら OK、それを PDF に直したものも OK という奇妙な変化球を投げてきた。この変化球、アナログの聖域化を目指すものと捉えれば善用できるかもしれない。さらにそれを、非ネットワークな CD-R への保管、ミニスーファミのような専用機の利用、PC-9801 のような旧式のネット上バーチャル化(rom はサーバー内)につなげられるならおもしろい。これらにより、PC 内は特別な環境であったのでたまたまスクショ禁止を許しただけで、非ネットワークまたはアナログなところでは事情が異なるとして一定の歯止めがかけられるかもしれない。
アナログ時代に技術を蓄積し、デジタル時代に移行した日本にとって、アナログの技術を残す意味で、それを有利にすることは他の国に比べても意義のあることであろうと思う。アナログ→デジタル変換は日本のお家芸として残していくべきだ。地上波デジタルテレビへの移行のときに、ビデオについてアナログを介すればダビングを可にすべきだ…などと私は考えたものだった。
非ネットワーク機器への保管もまた特別視するとしても、それよりもアナログは有利になるべきである。非ネットワーク機器へ保管する場合は、データを PC に置いたままにしてはいけないが、アナログの場合は、データを PC に戻したままにしても合法ということにすればいいのではないか。もちろん、非ネットワーク機器のデータを引用するときなどは、「キャッシュ」として一時的に PC と接続させるのは良いとすればよい。
不当に利益を害しないなら CD-R などのバックアップの譲渡も可にすべきである。それは物理なので、ネット流通とは別の論理になる。「常習犯」のところで述べた補償金を払う必要があるというならそれはそれで考慮する意義があるだろう。なお、不当に利益を害するかもしれない場合でも、《無コピーの占有デジタルコピーの譲渡の自由:記録保全主義》で述べた方式でのデータの譲渡は可能とすべきと考える。
「報告書」の p.45 の注に「「デジタル方式の複製」であればよく,右クリックによる保存やスクリーンショット,テキストのコピー&ペースト等も対象に含まれ得る。なお,受信した自動公衆送信をそのままコンピュータなどの複製機器に入力するのではなくて,途中でアナログ信号に変換し,すぐ再びデジタル変換してコンピュータなどで複製するような場合は,途中でアナログ変換が経由されているものの,アナログ変換後に一旦記録されていない限り,「自動公衆送信を受信して行うデジタル方式の複製」に該当するものと考えられる。」とある。
テキストのコピペもダメだというのは論外であろう。また、アナログは実際にアナログで記録することを要するとあるが、これはデジカメが一般的となった現在、少し変えるべきだろう。
デジカメで撮るような相当劣化するアナログを介するデジタル記録は OK にするべきだ。また、相当劣化した上でも復元可能なテキスト等(楽譜など)については、途中の媒体を残さないでも OK にするべきだ。そして、これらの「スクショ」を PC 内で保存していても合法な私的複製と認めるべきだ。
「相当劣化」とは、原画像の色・ドットが確実にわかるまで拡大・情報付加して撮影し、そこから原画像そのものを複元することは除くことを意図している。相当劣化しても復元可能な場合(テキストのコピペ等の場合)のみ、アナログを実際に介さなくても PC 内に保存して良いとしたい。
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証拠保管
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劣化なしでコピーできるのがデジタル方式の問題であるが、しかし、一度、(例えば事情を知らず)デジタルでダウンロードされてしまえば、それが使用されるかどうかは管理の問題でしかない。そこから、引用をするときに劣化させたり、譲渡のときに信頼できる相手に渡したり、DRM をかけて渡したりすることが求められるのだろうが、それらもデータ保持者の管理の問題とできる。アナログ的スクショのように劣化したものならば自由にするという論理はそれはそれで必要だが、劣化そのものは必須ではないと考える。
証拠の保全のときはむしろ劣化させるべきではない。劣化させても十分ならば劣化させて保存したほうが、管理の手間が省けるということはあるかもしれないが。
たとえ違法なものであっても、一度閲覧できたものをその者が再度閲覧できるようにする必要がある。証拠保管のためのダウンロードは OK にするべきだ。ただ、いくつか条件を付けなければ、あまりにも著作者に不利になるのでそれをこれから考えていく。
まず、受託者から見た対策として、流出等がなされないように証拠保管は非ネットワーク機器に行い、「応分の管理」を要件とすべきだろう。ネットワーク環境に長くファイルを留めておくのは不十分な管理として基本的に民事違法とする。印刷物ならいいという論理が出てくるのは流出等が問題になっているからで、そこをクリアにするのが一つの条件になるだろうから。
非ネットワークの CD-R などは、証拠として適正な管理をしている限りにおいて私的複製となるということなので、単純な私的複製とは異ることになる。証拠の視聴は「キャッシュ」としてネットワーク環境に戻して行なっても、確認・検討に留まるならば管理の逸脱とすべきではない。
証拠は基本はブラウザで視聴できることの証拠の保管でいい。差別があったりすることなどは必要ない。将来(私的)引用する可能性があれば十分である。「事情を知らない」でなされる証拠保管については、それとは別に考える必要があるだろう。所有物についても証拠保管という形なら民事違法ではないとしたい。
一回視聴できるだけのストリーミングサービスが安くできるということは、一度閲覧できたものを再度閲覧できないことに意味があるから、という反論がなされるかもしれないが、それは著作者に対するお布施の意味があるというのはまずおいておいて、本稿からすれば、応分の管理のコストを払わなくて良いというのが第一の理由になるだろう。次に、サブスクリプションの期間、証拠閲覧を超えて私的使用できるという形にすることで違いを出せると言える。
そして「事情を知っている」場合は、ブラウザ等で視聴・プレイできる部分そのものを証拠保管できる場合に限るとすることが対処になる。どこかでストリーミングで見られるからと言って、別のところにあるビデオをダウンロードできるようにはしない。そのようにしてダウンロードできる場合、海賊版はファイルそのものをホストしなければならず、リーチサイトの利用などでごまかすこともできなくなる。
そのような場合でも、アナログでダビングするのは OK だというのがこれまでの議論だった。ここでは、ブラウザの機能等で一部ダウンロード(保存)できるならそれも OK ということである。
「報告書」の p.68 に「事実を知りながら」が要件なので、未視聴ならばダウンロードしていてもかまわないという記述がある。受託者は「事実を知っているか」どうかを知りようがないので、どんなものでも消せないことになる。一方、一度見て事情を知ったら、CD-R に焼いたものなどを消さなくてはならないとすると、応分の管理は難しいものになってしまう。さらに「事情を知っているか」どうかが警察等で問題となった場合、自白が強要される心配がある。
「事情を知らない」のは一定の期間(一ヶ月とか)以内とするべきだ。逆に、その間は事情を知っていても知らないとみなすことにすべきだ。これにより、その間はクラウドロッカーも違法ファイルを特定の個人フォルダーに限り受けつけ、その間に CD-R に焼くことなどを促す慣習にできるだろう。受託もやりやすくなると思われる。
ブラウザ等で見られたものについては、所有者が消費者の場合、その管理は、ウィルス等監視ソフトやWiFiルーターを正しく設定することなどを実態とする消費者十分注意で十分であると考える。一方、「事情を知らない」でなされる証拠保管はより厳しく、善管注意義務(民法の「善良なる管理者の注意の義務」)を求めて良いと思う。具体的には、学識経験者または専門家への管理の委託を求めても良いだろう。
ただし、研究に使う場合のみ著作権の制約から外れるというのでは十分ではない。保管するためのデータを取る作業については、学識経験者や専門家以外もできるようでなければならないから。
まとめると、事情を知りかつ所有権がなくかつブラウザ上でおおむねは確認できないものは海賊版のダウンロードが犯罪になる。証拠保管であれば、事情を知っていてもすべて犯罪にならないというのは望ましくない。所有権があれば犯罪ではなくなるが違法になる。そのようなものも含め、応分の注意または善管注意する非ネットワーク機器に証拠保管するならそれは違法ではなくなるが、逆に言えばそれ以外の PC に入っているものは、所有権があっても違法になる。
所有者に関しては、応分の注意(消費者十分注意)より強い管理をしていれば PC 内でも違法ではないとしてもよいだろう。「強い管理」とは、応分の注意に加えて、具体的には、複数のユーザーが使う PC の場合には所有者個人だけしか閲覧権限のないフォルダに格納し、一定期間(一ヶ月?)ごとにタイムスタンプを更新するようにすれば、「キャッシュ」に類するものとして、違法ではなくなるようにすればよい。
合法なアナログ的スクショであっても違法な「機械的」である場合はどうするか? 犯罪にしないのはもちろんである。所有者による海賊版のダウンロードに準じ、強い管理をしている場合は PC 内に留めても違法でないが、それ以外は違法とすべきように思う。
トピックから外れるが、この際、技術的保護手段を回避したデータについても、ダウンロードに準じるようにすべきだと私は考える。すなわち相当劣化したアナログを介するものは基本的に解禁。機械的アナログ的リッピングと所有者によるリッピングは、「強い管理」の下では違法ではなくし、その保管は善管注意を必要とし、学識経験者や専門家はリッピングのためのツールを買うことができるとすればよい。
なお、所有者・証拠管理者も一種の受託者であり、その管理は、記録・報告が望ましい。「望ましい」とは、管理ツールを作成・提供するときに、記録・報告の機能をオプトアウトで実装していても利益を害している・背任しているとは見なさないということである。なお、プライバシーに関する部分は、記録・報告から除外されたほうがよい。
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私的引用の権利
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引用は、私的領域・公開しない領域でもなされることが可能でなければならない。「日記」や「手紙」全部がクラウドにあり、クラウドのへのアップロードの際に著作物のスクショが禁止されるなら、現代の主要な文房具の利用が制限されるわけで、問題がある。
「公正な私的引用を妨害する物」は著作物とは認めないようにすべきだ。ゲームの発売後しばらく引用させたくない…というのは、それは非公正な引用と考え、認めれば良い。このあたりは広く DRM に対する規制で、将来的には DRM に課税し、著作物だけでなく書類についても、私的引用を妨害する場合は、より多く課税すべきだと私は考えている([cocolog:89103582])。発売後、引用させない期間を長くして欲しければ、課税を重くすることなども考えている。
私的引用では劣化したもので基本十分とすべきで、メールなどではむしろ劣化させるべきだ。日記の場合微妙だが、死後配って読まれることを考えると劣化させたほうがよい。
この規定は、第一に、電子書籍やビデオの DRM ソフトに引用のための部分的劣化コピーを出力させるよう実質義務付けるのを目的とする。また、例えば、DVD 等のコピー制御方式である CPRM については、引用のための劣化コピーを許すようなソフトがすみやかに提供されない限り、10年先ぐらいには、それを根拠としてどこかの時点で著作物の保護から外すようなことも射程に入る。
そして何より、この規定は、上で述べた懸念、将来、デジカメを電波で妨害して写せなくするような機構が出てくることへの予防的対抗策の意味がある。
ところで、引用のための劣化コピーは私的使用(私的利用)になるのだろうか? 引用は引用であって、私的使用とは微妙に異ると思われる。ただ、所有者には劣化があまりしていない引用等ができるようにして、それをクラウドロッカー類似のシステムなどで貸し出せるようなサービスができれば、それは私的使用ということになるだろう。
引用を許さないことが違法になれば、海外で違法 DRM が現れる可能性がある。それを引用するためには海外から海賊版をダウンロードするのが適当であることも考えられる。デジカメでスクショするだけでは偽造の可能性を指摘される可能性・デジカメで撮る以前にその人がどうやても見れない可能性があるからである。逆に、デジカメのほうが真実の証拠になる場合もあるだろう。両方あったほうがいい。
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著作権強化の背景としてのスマホ
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スマホでは、ガチャで手に入る絵などが重要だが、それが自由にダウンロードされ、アップロードされるのが問題だ…とはなりにくい。特定の囲いこまれた場所で、それが使えるということに高い価値があるからだ。著作物はガチャという型にはめるまでの導線としての意味があるというのが最近の多くのゲームのあり方のようだ。ガチャに使われる金銭はすさまじい。やっと IT 関係者も農産物を買うための対価を手にいれられるよう農家に認められたかというぐらい。
上述したようにスマホに関しては、まず、引用が広く認められるようになるべきで、それで少しはサービスの実態の情報が残るようにすべきだ。その上で、リバースエンジニアリングによる再サービスの問題が出てくる。サービス終了後のリバースエンジニアリングには禁止期間(特許権より短い)を設けることも考えられる。リバースエンジニアリングそのものは禁止しないが、リバースエンジニアリングした情報の(有償)流通に禁止期間を設けてもいいかもしれない。逆にそれによって情報流通に価値付け、そのための情報を残りやすくするのが本当の目的となる。どちらかと言えば不正競争の枠組になるかもしれない。
閑話休題。
iPad で絵を描くのは聞くがスマホでは難しいだろう。スマホで絵に関心を持った人間が、創作に向かうのはなかなか難しい。スマホの情報を PC 等とリンクさせるような文化展開も考えられるはずだが、寡聞にして聞かない。スマホの囲い込みモデルにより、阻害されてさえいるのではないか、疑う。
それより心配なのが、創作に向かわない自分を肯定する価値観を身に付けようとしていないかという点である。自分も創作できるとは考えない。または、創作にうつつを抜かすのは有害であるという考えがあるのではないか。スラドで同一性保持権を厳しく見過ぎる主張があって、そのような価値感の存在を私は感じた。編集などされないことが著作者の願いで、それが絶対であるかのようである。上述のように著作物は、社会の共有財産であるという点にも注目すべきで、後世に遺す保管もそのときどきの人に受け容れられるようにする翻案もどちらも必要である。
PC 上で展開されたインターネットの運動は平等に情報を届ける人民主権的な側面が強調されたものだったが、スマホの文化は、自己に制約を課す部分が大きい。過去の蓄積という高みから、情報を自由に発信するのが権力とされ、それを嫌って、その制約のために自らに対する制約も受け容れたということかもしれない。
インターネットについてもそうだが、何より狭い社会に閉じ込められがちなスマホのユーザーを一般的政治社会に包摂していく必要を私は感じる。社会への再包摂のためには「民主主義」への参加が必要だろう。それは Twitter や Facebook で十分という意見もあるかもしれないが、情報を自由に発信することに反感を持っているなら、そういう層を導き入れることはできない。
未来の政治は過去の自分達にかかっていて、その自覚がまずなされるべきである。未来への遺志の統合ということで、まずデータを遺すことをナッジすべきではないか。「日記」のようなものから民主主義をはじめるのだ。
私的引用を駆使して「日記」を付けさせる。…というのも情報発信への反感から嫌われるかもしれない。「日記」のようなものを買えるようにしてはどうだろう? 懐かしい「あの頃」の議論やビデオなどを同人的にまとめたものをメルカリとかで売ったりしても良いことにできないか。
非クラウドにすれば売って良い…「常習犯」に課税する(補償金を払わせる)ことで、逆にこれを可能にできないか?…「不当に利益を害しないなら CD-R などのバックアップの譲渡も可にすべき」というのは主にこのためである。
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参考文献
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「報告書」「留意事項」「JILIS 報告」については上で紹介した。
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更新: | 2019-02-13--2019-02-23,2019-02-28 |
初公開: | 2019年02月22日 03:08:31 |
最新版: | 2019年02月28日 18:08:42 |
2019-02-22 03:08:29 (JST) in 知的財産 | 固定リンク | コメント (3) | トラックバック (0)
コメント
投稿: JRF | 2019-02-22 03:23:45 (JST)
投稿: JRF | 2019-02-23 01:19:52 (JST)
また、私的使用に一部それが「私的利用」かもしれないことを示すカッコ書きを付けた。一部コピーなので「利用」かもしれないが、引用なので微妙なところ。
以前の記事では著作権の本を読んだりして書いたが、今回は著作権法の本は読まず、民法の本と Wikipedia を少し読んだだけだったのが、祟ったようだ。
おわびして訂正します。
投稿: JRF | 2019-02-28 18:14:19 (JST)