公訴時効の延長さらには部分的な時効の廃止まで含む法案が、閣議決定されるに致っている。私はこれに強く反対する。本稿では、やや想像力豊かに時効の必要性を訴える。
2010-03-23 14:27:49 (JST) in 司法制度 法の論理 国際法 | 固定リンク
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集団はそこにあっても、名のついた集団は幻想である。名のついた集団を成り立たせているものを習性として人は担っている。難あって集団を守らねばならないとするとき、その習性にかけて自らを集団の中に埋葬し、希望をそこでつなぐことが求められる。その習性と健やかな関係を保ちたいと人は願う。そこに人の責務が成る。
今の時代、人は、人が為し遂げた大量の知的財産と触れあう。その触れあいに、喜びながら悲しみながら、喜びや悲しみを愉しみながら、それに自らを措定しうることを習う。知的財産は、それが自分のモノと映りながら、誰かの想いが伝わるものとして身に受ける。なぜそれが為ったかわからないところがあっても、ある知的営みがモノと為りうることにその社会の容量を想う。その多くが残りうることを示すことが、振り返ったときこの巨大な人口という集団に望みを見出すことにつながるだろう。モノとなる知的財産を継承することは人の責務である。
2007-11-20 16:36:17 (JST) in 知的財産 法の論理 | 固定リンク
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まず、「現代の人」が「昔の自然状態」から考えつくような解答を与えよう。
人は一人では生きられない。
すべての人が武器を取り、お互いがお互いを監視し続けなければならないのならば、他にできる仕事は少なくなる。
災害があるとしても、侵略があるとしても、それに備えるために人は寄り沿わねばならない。武器を持つ者だけではだめで、誰かが武器を作ったり、農作業をしたり、知的活動をしたりしなければならない。
誰かが人を殺すようなら、それに備えて武器を持つものを増やさねばならないが、そもそも殺しあってるヒマはないのである。
だから人を殺してはいけないのである。
人はうたぐり深い動物である。
誰かが殺されたとき、次に私が殺されないという保障が欲しくなる。
一人殺した人間は次にもまた一人殺すかもしれない。もし誰かが誰かを殺そうとしていることが明らかであったとしよう。その危険は私にもおよびかねないとする。私がその危険を感じ、私が誰かを殺せば、今度は私が他人にとって危険な存在となる。他人はよってたかって私を殺そうとするかもしれない。
私が殺さないということを示すことによって、互いに殺さないという信用の輪の中に入る必要がある。
だから人を殺してはいけないのである。
人の生ははかないものである。人の賢さは有限である。
自分と他人が離れて住んでいることで、自分に振りかかった災厄を他人は逃れていることがある。自分達がいつか困ったときでも、他者に余祐があって助けてくれるかもしれない。
子供達は言うことを聞かなくなり、しだいに自分とは異なる価値を持っていくものである。自分はすべてを伝えられないうちにやがて死ぬが、子供達と同世代の誰かは自分が伝えたかった経験に似た経験をしているかもしれない。他人は、自分の子孫などに彼らが忘れた何かを伝えてくれるかもしれない。
人は世代に渡って「旅」をし、様々なものを身につけ育てながら往来する。育てる前のタネは「罪」ですらあったかもしれない。それでも将来の子孫どうしがなぜか必要としあってつがうかもしれない。
自分ではない他者がどこかで生きていたほうが良い。誰かがときに自分の代わりをしてくれる、または自分にできないことをしてくれる。そういう保険をかけるために自分と異なる者であっても、いや逆に異なるがゆえに生かしておいたほうが良い。
だから人を殺してはいけないのである。
2006-12-15 17:58:48 (JST) in 法の論理 | 固定リンク
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入札や輸入の条件を緩和し自由にすることで、これまで除外されていた者が機会を得て参入が可能となり、より平等に近づくことがある。
教育の機会を平等にすることで、はじめて、貧しさから脱却する自由を得られる場合がある。
「自由」と「平等」は対立する概念ではない。
2006-11-07 19:19:28 (JST) in 法の論理 | 固定リンク
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特許の要件として進歩性がある。
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特許法 第二十九条 2 |
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特許出願前にその発明の属する技術の分野における通常の知識を有する者が前項各号に掲げる発明に基いて容易に発明をすることができたときは、その発明については、同項の規定にかかわらず、特許を受けることができない。
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「その発明の属する技術の分野における通常の知識を有する者」を法律用語で当業者と呼ぶ。
当業者にとって容易であるという判断はつけにくいが、容易でなかったことの十分条件として、その分野にいただけでは知ることのできない知識の混入があげられる。
「その分野にいただけでは知ることのできない」とは単に異分野というわけではなく、例えば、予想はされているが非常に見つけるのが困難だった蝕媒や化学式の発見など、その分野の範囲内で特定されていなかった知識も含まれ得る。ここでは、これを未確定知識と呼ぼう。
また、「その分野にいただけでは知ることのできない」は異分野であればなんでも良いわけでなく、IT 革命の成果をとり入れる場合のように、そのときの流行で一般的に散見される知識は除かれ得る。ここでは、これを衝動知識と呼ぼう。
未確定知識にはその知識そのものを記述できなくても「知識の未確定領域」がある程度確定されていることを必要とする。一方、衝動知識は記述できる必要があるが、どれほどインパクトがあり一般性を勝ち得たのかは、あとから統計的にしか測ることできない。
2006-03-23 19:37:31 (JST) in 知的財産 法の論理 | 固定リンク
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努力のような内心にかかわるものは道徳であって、法ではないという議論がある。むろん、内心を完全に知ることはできないが、現実の裁判では内心を判定することは、ままある。
もちろん、それは内心そのものではなく、内心の結果である外観によってなすのではあるが、それを問題視するならば、偽証かどうかを究極的に知ることはできないし、あらゆる証言証拠もまた無効となってしまうだろう。
実際に努力しているかどうかは内心を見なければわからないが、人が、ある人の行為を努力していると判断することは現実にある。これを、何らかの結果の記述で対処しようとすると、煩雑になってしまい、現実的には、「法を理解する努力」が不可能になってしまうかもしれない。
この場合、法として記述する際は、努力の外観があることについて、「努力」の言葉を使い、その判断には柔軟性をもたせることが合理的になる。
2006-03-21 18:16:26 (JST) in 法の論理 | 固定リンク
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お金を持っていることは、社会からそのお金に相当する何らかの財を購入することが認められた状態と言える。その金額の財を得る権利を持っているとも考えられる。
その金額の財を売る者は売ることも拒否できるはずで、単体ではお金を持つ者に対し財を売る義務があるとは言い難い。しかし、社会としては誰かが潜在的にその義務を負っている状態と考えることができる。
権利の性質をめぐる「利益説」「意思説」の議論で、権利の主体がないことが話題とされることがあるが、これは、権利主体が存在するが、義務の主体が特定できないモデルとなる。
このとき社会が貨幣流通の義務(または責任)を負っているということもできる。しかし、その義務と権利の対応は大きく崩れる。
2006-03-21 17:16:43 (JST) in 法の論理 | 固定リンク
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大陸法は議員の発案を立法機関で合意する形で発達した。これは制定時には議員が、運用時には市民が、内心で判断できるように、意思形成を重視する形で法体系が整備された(意思表示論など)。その信条は「誠実な内心の動きは保護されなければならない」というものであろう。よって、罰則を与える際の根拠は、社会的制裁よりも自力更正を重視することになる。
一方、英米法は判例法として発達した。その結果、第三者である裁判官や陪審員が裁判時(法律の運用時)に客観的にみて確かめられるものを重視する形で法体系が整備された(約因論など)。その信条は「結果からしか判断できないし、判断が (社会に)もたらす結果を重視する」というものであろう。よって、罰則を与える際の根拠は、自力更正よりも社会的制裁を重視することになる。
そもそも判例法や立法機関を重視するようになったのはトラックバックにあるような説の影響でもある。自分達で立法する大陸法の思想の背景には「一部分かもしれないが、自分達の力で法という普遍性を確立できる」という思想が見えるし、判例を重視する英米法には「人の力では、垣間見える普遍性を暫定的に明文化していくことしかできない」という思想が見える。
更新: |
00/11/21 |
初公開: |
2006年02月04日 16:38:37 |
2006-02-04 17:38:43 (JST) in 法の論理 | 固定リンク
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「結果」の平等は、一見、「結果」重視に思えるかもしれないがそうではない。これは、同じ「努力」をしたのならば同じ「結果」になるよう、「結果」のほうを操作すべきだという「努力」重視の考え方である。「結果」重視の人々は、むしろ、良い「結果」が得られるように「努力」するべきであるが、得られた「結果」はどのようなものであれ、甘受しなければならないと考えがちである。
「機会」の平等は、ある時点において、それまで努力をしていようがいまいが、平等なスタートラインに立てることを保証し、それ以降はたとえ運が悪かったとしても、それを受け入れなければならないという思想である。結果を報酬で量る必要は本来ないのだが、分配を経ない結果で大抵の人が評価できるものとなると報酬しかなく、普通は報酬を得る公正な方法をいかに整備するかが中心的な話題となる。
「機会」の平等は「結果」の平等の単純な対立概念ではない。成長期には「努力」重視で、収穫期には「結果」重視に移行する概念と捉えるべきであろう。
2006-02-04 16:45:26 (JST) in 経済学 法の論理 | 固定リンク
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