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JRF on なぜ人を殺してはいけないのか

shoe 例えば「エロ本を買う自由」のためには、社会的な寛容さももちろんですが、本を造るために働く人々が必要です。そして、そもそもカラー印刷技術が発展するためには様々な革新が必要だったことも想像できます。私にとって自由とは「拡大していく自由」で、そこには革新にともなうマイナス面もあろうとは思いますが、それを補う社会のルールも自由に必要なものとして考えられます。社会のルール、人間のルールは、自由のためにむしろ必要なものと私は考えます。

自然必然の法則に従って生きているだけでも、裁きによる善悪とは意味が違いますが、自分にとって善い結果、悪い結果というのはでてきます。「拡大していく自由」も、一つの善い結果でしょう。

感情移入については二者の場合をここでは特に考える必要があると思います。一つは、犯人側への感情移入、もう一つは、被害者側、すなわち、犯人にとっては敵側への感情移入です。

犯人側に感情移入する場合、もちろん、それで犯人のようになってしまうのではなく、犯人の動機を知り、実行に先まわりして手を打つということになるのでしょう。その先には単に感情を知るだけでなく、行動・行為として、犯行を予測し防ぐ何らかの革新的手段の考案があるかもしれません。

犯人となるべき人が敵とみなした側に感情移入する場合、敵から見れば自分もゆえあって悪であることを知るということになるでしょう。自分にとっての善い結果、悪い結果というのは自分勝手な判断ですから、自分にも悪がないわけではないことを知らねばなりません。信用の輪。敵意を敵意で返しては社会は成り立たないことを悟って、共に悪を去る一般的な方法を考案していければ「拡大していく自由」に寄与できるかもしれません。

「考案」は、知の拡大・その全体主義にすぎないといわれるかもしれません。しかし、現状に留まらず、善い結果に賭けていく心の働き(すなわち「起」「機」)は、行為であり、行動であり、体験なのだと私は思います。

「……と思っていました。」ですね。正確には。今の私は「革新」にそれほど夢を抱けなくなっています。

私はこれまでブログでの活動・趣味的なプログラミングを通じて、自分なりに「革新」の方向を目指しているつもりでいましたが、稼ぐまでになるどころかまったく注目を浴びることができませんでした。今になって、そうやって自分がやってきたことがとても無益なことのように思えるようになりました。今までの態度を延長して何かの達成といえることはもうなく、「死んだほうがマシ」だという状態を生きていると思うようになっています。

精神病である私は、尊厳死・自殺幇助・慈悲殺が認められて死なせてもらったほうが楽なのではないかと考えることもあります。もちろん、尊厳死等は、人をそこに社会が追い込んだりするようになるなど副作用が強いため法的には慎重な対応が必要ですが、自分一人で善い悪いを見れば、「死ぬ権利」を認めてもらえる社会のほうが善いように私は感じてしまっています。

そういう思いを抱きながら引きこもっている私は、ボランティアであったり、普通の仕事であったり、革新ではない「何でもないこと」に参加させてもらえることに憧れを抱きはじめています。「何でもないこと」を人と同じくできるということはすばらしいことなのです。昔ならば「人生の墓場」と心の片隅では思っていたかもしれないことを、そう悟るともなく「安息の地」として受け容れ心穏やかに過ごせる。そういう行為・行動・体験に皆が憧れられるならドラマやニュースでやるような「殺人」を犯す者はいなくなるのでしょうね。

なんか、暗い話にしてしまいました。

ともかく。この度は、人の訪れることの少ないこのサイトに、貴重なコメント、ありがとうございました。

投稿: JRF | 2016-05-24 19:07:04 (JST)

eegge on なぜ人を殺してはいけないのか

「なぜ人を殺してはいけないの?」

この問いは、1997年8月15日、 TBS ニュース23》故筑紫哲也がキャスターを務めたテレビ番組『ニュース23』が企画・放映した「ぼくたちの戦争’97」という特集コーナーで、高校生たちが大人たちと討論する中、ある高校生がこの問いを投げかけ、さらに「自分は死刑になりたくないからという理由しか思い当たらない」のですが、と続けています。この生徒は大人からの本当の答えがほしかったのです、大人達に救いを求めていたのです。

しかし、キャスターの筑紫哲也はもとより、ゲストとして同席していた大江健三郎、その他の所謂知識人達も、誰一人、答えることができなかったのです。

同年、朝日新聞で大江健三郎の「誇り、ユーモア、想像力」と題されたコメントが掲載されました。(朝日新聞 1997.11.30 朝刊)

「テレビの討論番組で、どうして人を殺してはいけないのかと若者が問いかけ、同席した知識人たちは直接、問いには答えなかった。(中略)私はむしろ、この質問に問題があると思う。まともな子供なら、そういう問いかけを口にすることを恥じるものだ。そこにいた誰も、右往左往するばかりで、まともに答えられなかったのだ。あれだけの知識人がそろっているのに、子供の質問にすらまともに答えられないのかと、世間は嘲笑した。そのようにいう根拠を示せといわれるなら、私は戦時の幼少年時についての記憶や、知的な障害児と健常な子どもを育てた家庭での観察にたって知っていると答えたいなぜなら、性格の良し悪しとか、頭の鋭さとかは無関係に、子どもは幼いなりに固有の誇りを持っているから。。(中略)人を殺さないということ自体に意味がある。どうしてと問うのは、その直観にさからう無意味な行為で、誇りのある人間のすることじゃないと子どもは思っているだろう。こういう言葉こそ使わないにしても。そして人生の月日をかさねることは、最初の直観を経験によって充実させてゆくことだったと、大人ならばしみじみと思い当たる日があるものだ。」

これは、無慈悲に生徒をなじいるだけではなく、知識人としてはあるまじき「直観」を持ち出してくるとは、全く、人間失格であり、知識人失格と断罪ぜざるを得ません。

「なぜ人を殺してはいけないの?」という問を出した生徒は、一体、何を問うていたのでしょうか。この生徒がコトバに表せない本当の問は何だったのでしょうか。
この生徒は「自分は死刑になりたくないからという理由しか思い当たらない」ということを知っているのです。つまり、私たち「人間社会の秩序を維持」するために、「殺してはいけない」ということぐらいのことは知っていると主張した上で、この生徒は、人間の尊厳を賭けて、実存を賭けて、自分自身で「殺してはいけない」本源的な理由を知りたかったのです。言い換えれば、「主体なき理性」で単に知識として知るだけではなく、「主体ある理性」すなわち意志と感情を伴った全人格を賭して知りたかったのです。

この生徒の切なる問いに答えるには、「一体、私たちに自由はあるのか?」という根本的な問いに答えなければなりません。自由がないところに倫理は成立しません、自然必然の法則に従って生きるだけなら、善悪を問うことはできません。この自然のルール(自然の摂理)に加えて、社会のルール、人間のルールに従うこということになれば、そこには私たちの自由は全くありません。

仏教は「人間の自由」について、既に2500年前に単純明確に答えを出しています。

「私たちの自由とは、自然必然の法則を無視して勝手に生きることではない、生きられるはずもない、むしろ、自然必然の法則に則り、自らのものとして、積極的に自然必然を活用する、すなわち<使然>の立場に立てば自由である。」

「また、社会からの自由を求めるならば、<人知>を客観視し、<人知の専横>を許さないことである。知は真偽、情は美醜、意は善悪というそれぞれの領分かある。<人知>は分別知であり、相対知であり、<関係知>である。関係の中に住む以上自由はない。」

「善悪は<人知>の産物である。善も悪もない世界、それが三昧の世界である。三昧には<自然の知=無知の知>と意志と感情とがある。三昧とはただ物事に<感情移入>し、物事と一つになることである、物事と一致するとき、そこに「慈悲>愛」が現成する。慈悲あるところに悪がある筈がない。善悪に苦しむより、三昧を楽しむことである。」

現代の最大の問題は<知の情意に対する越権><主体なき理性の専横><知の全体主義>なのです。大江健三郎その他の所謂知識人の存在そのものが悪なのです。若者達はこの<知の全体主義>の中で圧死寸前なのです。若者達をこの息苦しい(生き苦しい)世界から救出するには、単純に<感情移入>の骨を伝授することです。<感情移入>とは決して知識ではなく、行為であり、行動であり、体験なのです。<感情移入>のあるところには決して悪はありません、倫理判断に迷うこともありません。若者をして、何事にも<感情移入>ができる自分に、自分自身が仕立て上げられるうように、私たちは大人は、無言で寄り添いながら、機会を与えればいいのです。

[omit-info: 9952 hmac_sha1_base64:dCVb33xdFO4o0vE4yfttFvrlSgc aes_base64:Fzrow00yDAxYfG/LD5/+s5HSCms9LJ88LWznq2EjTCDWJsE]

投稿: eegge | 2016-05-22 04:14:06 (JST)

JRF on 外作用的簡易経済シミュレーションのアイデアと Perl による実装

fastfood 更新:simple_market_0-20121225.tar.gz。バージョン 1.05。

必需品の random_produce のミスを修正。上の記事のソース部分を読んでて間違いに気付いた。記事の該当部分と計算結果を更新した。

投稿: JRF | 2012-12-25 19:57:09 (JST)

株の買い方 on 海外ダウンロード購入にまつわる私のトラブルに関する法的検討

とても魅力的な記事でした!!
また遊びに来ます!!
ありがとうございます。。

投稿: 株の買い方 | 2011-11-13 12:46:30 (JST)

JRF on 海外ダウンロード購入にまつわる私のトラブルに関する法的検討

bell 更新:気づいた typo を直したのと、「客観的事実」の節に「限定パッケージの予約はキャンセルし」た旨の段落を追加した。

投稿: JRF | 2011-07-18 00:55:35 (JST)

JRF on 海外ダウンロード購入にまつわる私のトラブルに関する法的検討

tulip 「気分的な問題」ではなく、やはり(憲)法的問題としていかねばならない……と思っているのですが、現実的には EULA (End User License Agreement) を基礎として「契約」がどうなっているかという話になっていくのはおっしゃる通りで、Microsoft ぐらいの大手になれば、そのあたり著しく消費者に不利な(または有利な)契約を書いてしまう失態もないでしょう。

実際のところ私も、カナダ支社にはカナダでダウンロードしたゲーム S の原状回復の「お願い」までしかしませんでしたし、日本支社には日本でダウンロードしたゲーム拡張 AE の取引を無効にして欲しいとしか主張していません。つまり、ゲーム S が原状回復できなくてもゲーム拡張のポイント返還がなされれば良いと主張していたわけです。

言ってみれば、日本トヨタから買った車の衝突回避システムの故障がネットワーク機能の障害でアメリカで起こったときに、どこが原因かわからないので、日本トヨタに直せないかシグナルを送るのは問題ないと思います。故障があったため使う予定だったのに使えなかったトヨタ・アメリカの交換パーツについては、トヨタ・アメリカに返品に応じて欲しいと述べているようなものです。ただし、そういう穏やかな対応は、「故障」が意図したものでない場合のみですよ…返品に応じないということはトヨタ全体として意図を認めたことになるかもしれませんよ…ということです。

(でも、車みたいな高価なものだと「原状回復を諦める」というオプションは取りにくいですよね。逆に本件では、すでにシステムが整っていなければ「ポイント返還」が Microsoft にとってとても高価なものだった可能性はあります。)

ただ、こういった対応は私が「リーディングな消費者」だからという面が強いです。普通の消費者が個人輸入をバンバンやっている…例えば、カナダからアメリカに行って買い物するようにバンバン輸入が行われている…という状況だと、もう少し消費者保護を前面に出すべきでしょうね。

で、その「消費者保護」の結果がリージョンコードやレーティングというパターナリズムなのだから泣きたくなるのですが。

上の DRM の用語解説とちょっと似ていますが、イニシエーションつまり儀式的なものにコンピュータプログラムの厳密さを持って来る形に現状なってしまっているわけで、一方で、錯誤や相続といった市民法的基本はプログラム化されてない。プログラマがプログラムしやすい象徴哲学・グノーシス主義にはまっていると言われてもしかたないような気がします。

上の本文にもありますが、不公正が逆に産業の可能性を縮めることがあるわけで、市民法的な消費者保護が成り立っていれば、普通の人がトラブルに普通の労力を払うだけでよくなり、私のようなけったいな者が難クセを付けることもなく、メーカーが対策にコストをかけるのが合理的になるので、メーカーが知らない間に市民の間で解決……例えば、「USB メモリ」からのコピーで救済が終るようなことが増え、問題が大きくなることも減ることでしょう。

なんか、私のコメントは途中で本件とあまりにも関係のないグチになってしまった気もしますが、「通りすがり」様のおかげで、少し考察を進められたように思います。

コメントありがとうございました。

投稿: JRF | 2011-07-17 23:41:50 (JST)

通りすがり on 海外ダウンロード購入にまつわる私のトラブルに関する法的検討

興味深い考察ですね。二度読みして私自身もいろいろリージョン規制について考えてみましたが、一つの疑問があります。

私の見解では「日本に居住している日本人が、リージョン規制のかかっているデジタルコンテンツを購入する行為」の参照法律(権利の保護)は日本国内法ではなくアメリカの法律の適用を受けるのではないか?ということです。

今回の事例の場合はUS/CAアカウントを作成した段階で、アメリカの法律下において契約する旨のEULAが提示されており、すべての紛争解決はおそらくワシントン州の連邦裁判所なりに設定されているはずですが、日本アカウントはMS日本支社により日本国内法によって利用許諾契約が提示されており、その管轄は東京の裁判所になっていると思います。

ですから、そもそも別々の契約であり、その契約をまたいでサービスの利用が出来る旨の特約が付いていないのであれば、今回のようにUSでスト4を購入して、日本でAEを購入したものが適用できない、というのは私契約上のお話としては正しいと思います。

極論するとアメリカのトヨタ・アメリカで購入した車を日本のトヨタに持ち込んでアフターパーツを取り付けろ、と要求していることと同意義ではないでしょうか。
物理的には可能でしょうけれども、製造と販売・サポートが分離している近代的な事業会社ではままある話ですが、今回のお話も同様にHWの製造元であるマイクロソフトとの契約と、そのHWにおいて提供されるゲームを提供するマイクロソフトとの契約、さらに言えばそのサービスを何処の国において受けるのかという契約は、似ていますが全部別のものではないでしょうか。

ただ、気分的な問題としては同じHWで同じソフトが動くのに、無意味なリージョン規制でこちらの利便性が著しく制限されているという現状については大いなる不満があります。
しかし一方で、文中で指摘されているように仮に日本においてわいせつ物等と認定されうるものが販売されてしまった場合それによって罰せられるのはMSですし、さらに言えば宗教的なものが絡めば国家を敵にまわすことになりかねません。

仮に「このサービスはアメリカの国内法によって提供されるものであるが、US国外の居住者がこの契約によって得られるサービスについての適法判断は現地政府に委ねられ、その責任は利用者が負うものとする」という一文があれば事足りますけどね。というかMSやEAとかのEULAには同種の文言がはっきり記載されていますので、現状でもそうなっているんですが。

投稿: 通りすがり | 2011-07-17 16:34:23 (JST)

JRF on 外作用的簡易経済シミュレーションのアイデアと Perl による実装

music 更新:メインのところに変更はないが、DesireGreedConvertTactics を、自分が生産者のときは自分より低い greed の者に廃棄させ、自分が非生産者のときは、need よりも生産が少ないかギリギリのとき、greed の高い生産者から廃棄させるようにした。当然、自己への owe が解消されなくなったが…。また、owe の解消は、必ず 10% ではなく 0.1 ずつの累積を認め、100% 廃棄にも対応した。

ただ、上の更新自体は前回の更新のあとすぐに行っており、今回、バージョンアップという形を取ったのは、ポイントがらみのモデルを造っていて、simple_market との絡みも少し考えようかと思っていたが、大震災のため、そうする精神的余祐がないと認めてしまいたかったというのが一つ。また、同じく大震災前に考えていたモデルがらみのことを吐き出してしまっておきたかったというのが一つ。

で、考えていたことだが、一つは、「資産減耗遷移(または資産減耗埋め込み)」…上の記事では資産減耗を定率で行うことなどを考えていたが、そうではなく、「定常状態」にあるときなどに、埋め込まれたシステムに遷移することで、catastrophic に資産減耗を実現するということを考えていた。埋め込まれた先では、埋め込まれる元の経済が埋め込まれているかもしれない。また、複数ある「子」経済のうちの一つに遷移するかもしれない。

また、一つは、アバウトミーに書いたことだが、すなわち、「実数」で乱数を作るとき、値の重なりは普通無視して良いが、「意志」により、ある乱数の値まで「価格低下」することを認めるなら、値が重なる者の「評価の順序」がシステムに与える影響を無視できないということ。これに対していずれ解決策を出す必要がある。それに付随して、「公共財遷移」…文化的 possession などを公共財として説明したくなることへの牽制として、possesion や asset に「ふさわしくない」生産があると、それを公共財からの付与として負担を要求する戦術を考えていた。

さらに、一つは、liability の総量が変わらない「不自然さ」に気づき、乱数の「平等」を気にするなら、逆に、「平等」をわざと崩して特定のものにマイナスの liability を集中する「中央銀行モデル」…「最強」のプレイヤーが存在し、その者の liability がどんどん減っていく tactics があればいいのではないかと考えていた。その「強さ」がどれぐらい弱くても「中央銀行」として成り立つかに興味がある。

こういったちょっと誇大妄想的なアイデアは、実現の難しさには差がある(「中央銀行モデル」は簡単かな?)が、かなりモデルの様相を変えるものであるので、実装する気になかなかなれなかった。それが大震災で、もうそちらには私は手が出せないような気がしてきたので、アイデアだけ公開しておいた。

今回は、バージョン 1.04 でアーカイブは simple_market_0-20110315.tar.gz

投稿: JRF | 2011-03-15 20:46:38 (JST)

JRF on 外作用的簡易経済シミュレーションのアイデアと Perl による実装

dollar 更新:少し解析をしていて、その成果を反映し「ブラッシュアップ」した。…といっても、powered_normal_rand まわりの解析をしただけだが。

ここまでで、greed に関してはこれ以上の解析は私には困難であることがわかった。ソートの分布が多項式になる…というところまではできるが、その先に冪乗根の和の条件を付して重積分を行う必要がありそうで、そこで私はお手上げである。

一方、desire に関しては基礎的なところ以外はどこから手を付けるべきかもわかりにくい。また、アイデアとしてbalance_mail_redirect のアルゴリズムを嗜好品の生産か需要かどちらかに使うのがおもしろそうだなどという考えが浮かんでいる。

解析というよりは統計的手法を用いた「分析」が必要だろうと考えている。このシミュレーションの特殊な状態として、必需品は必ずすべて「廃棄」させ、嗜好品は必ずすべて 0 まで価格低下させると、ほとんどシステムが動かない「ゲームオーバー」の状態になる。ここから逆に廃棄や価格低下を一部やめることで「変分」を見るような分析ができるだろう。この変分と、同じ頻度なのに、より効果的な「内作用」を見つけるといったことが、おもしろい結果となるかもしれない。……などと夢想している。

ただ、そういう「計画」はあるものの、ちょっと手詰まり感があり、少し間を置いて、ほかのことに時間を使いたいと思っている。しばらく、本格的なプログラムの更新がないだろうということで、これまでのところの「スナップショット」を公開しておこう…というのが今回の記事の更新の動機である。

今回は、バージョン 1.03 でアーカイブは simple_market_0-20110202.tar.gz。オプション周りでは、srand をオプションとして指定するようになったところが注意すべき変更である。

投稿: JRF | 2011-02-02 17:38:13 (JST)

JRF on 外作用的簡易経済シミュレーションのアイデアと Perl による実装

coldsweats02 更新:「greed の低い者」に廃棄させるというのが、そうなってなかったことを発見し、fix。急遽、バージョンを 1.02 にする。今回のアーカイブは simple_market_0-20110111_2.tar.gz。ついでなので出力結果も記事に反映しておいた。このバージョンアップの間、誰もこの記事を読んだ形跡がないのがトホホな感じ。orz しばらくはこんな感じで不安定な状態が続きそう。orz

投稿: JRF | 2011-01-11 19:55:07 (JST)

JRF on 外作用的簡易経済シミュレーションのアイデアと Perl による実装

carouselpony 更新:バージョンを1.01 にした。DesireGreedConvertTactics が「greed の低い者」に廃棄という条件を使ってなかったので、そこを修正、他ちょこちょこといじっている。これにより、上の出力結果の数値が変わるが、まだ変更は反映していない。上の tar.gz を新しいバージョンのものに差しかえているが、変更前のアーカイブは simple_market_0-20110109.tar.gz で、今回のアーカイブは simple_market_0-20110111.tar.gz でもダウンロードできる。

投稿: JRF | 2011-01-11 16:10:43 (JST)

JRF on 外作用的簡易経済シミュレーションのアイデアと Perl による実装

atm 更新:リンクをいくつか足した。本文は何もかえてない。…関心は似ていても抱いている思いは違う。しかし、コンピュータの時代に数学を修めたあと、彼らは働き、遊んでいるのは私だ。ただ、いいたいこともわからないではないから、似たところに辿り着いたのは「小人さん」達のせいばかりではないだろう…とかチラと思う。まぁ、ただの妄想。

投稿: JRF | 2011-01-09 19:25:09 (JST)

JRF on 「結果」の平等、「機会」の平等

despair 更新:typo 「特に新しい技術の登場なので」→「特に新しい技術の登場などで」。

投稿: JRF | 2010-06-16 22:50:02 (JST)

JRF on 時効延長絶対反対

sign02 まず、私はいわゆる専門家ではないため、上に述べたこともこれから述べることも、法律実務を反映していないことは付言しておきます。あたり前ですが、ここで述べられたことに何の権威もありません。

検討がなされているかどうかで瀬踏みなさっていますが、その点については本当にわからないです。このような警戒感を最初に出すのも私の妄想癖ゆえです。


本題である公訴による時効停止の必要性ですが、裁判をしているときに時効が切れるようなことがあるならば、検察はすばやい審理を求め、弁護士はひたすら粘るのが正しい訴訟戦略になります。このような状況だと、時効の成立を巡って外部をまきこむ激しい葛藤が生まれるでしょう。

このような観点から共犯者の時効停止を観ると、まだ捕まっていない共犯者の存在は、外部をまきこむリスクを増します。上の理由により時効を停止するなら、共犯者の時効も停止すべきだとなります。

ただし、本記事の主旨に順えばそれが時効延長の効果を副次的にもたらすのは厭うべきことです。よって、裁判全体のすばやい審理を求めるべきという帰結も同時に導くべきでしょう。

ここで問題になるのが、死刑に関する裁判です。死刑になることがあらかじめわかるような裁判というのがありえます。この場合、死刑廃止は主張しないが、生命を尊ぶという(倒錯的)観点からは、死ぬ時期が遠ざかるよう裁判を引き延ばすことが正しいという信念を形成しえます。

これは上の時効停止+すばやい審理という主張と対立します。もしかすると、ここの解決が求められているのかもしれません。

単純には、死刑が求刑されたときは(共犯者の)時効停止がなくなるとする方向があるでしょう。

……ただ、これまでもそういうことは考えられてきたはずで、この「妙案」も何か落とし穴があるのかもしれません。


コメントありがとうございました。この考察が、求めた答えを導く一助にでもなれば幸いです。

投稿: JRF | 2010-04-24 21:50:46 (JST)

匿名投稿 on 時効延長絶対反対

時効廃止、国民の大半が賛成しているようだが、やはり問題だと思いますよね。
それよりは、現行法の時効停止規定を見直すべきだと思いますがそんな検討は全くされていないですよね。
共犯者の起訴で、他の犯人の時効を停止する必要などあるでしょうか?

匿名投稿 | 2010-04-24 10:06:48 (JST)

JRF on 時効延長絶対反対

golf 更新:日弁連へのリンクを足した。

投稿: JRF | 2010-03-24 13:12:24 (JST)

JRF on 「自由と平等」のレトリック

think コメントありがとうございます。

ときどき自由について考えるのですが、私の力不足からか、いまだ松本様のように納得にいたることがありません。自分の考えをつきつめて考えていけば、松本様と同じ結論に達するのかもしれませんが、今のところ、そこにいたれるとは思えません。

松本様のコメントを奇貨として再び考えてみました。でも、やはり、うまいおとしどころは見つかりません。以下につらつらと書いてみますが、それは自分のブログということに甘えて、とりとめのないまま思いを表に出すものです。見苦しければ読み落としください。

……。

実は私はニートで、毎日やりたいことだけをやっている状態といえます。

自由なんでしょうね。いや、客観的には確実にそうです。日々、感謝すべきことも自覚しております。端からは差別的視線をなげかけられているのかもしれませんが、自由です。

機会……は、あったんですよね。私と学生時代に同じ境遇にいた他の人を見る限りそれは確実にあったはずです。噂で聞くところの私の下の世代や他分野とはまた違って、私には未来がありました。

私が挫折することで誰かが機会を得たのかなぁ。うーん、それならまだ救いはあるのですが、この社会、そういうシステムじゃないですしね。「誰も応募しない」というなら別ですが、一人がやめれば、そこに一人が入るというのではなく、単にその年の枠のうちの一つがつぶれる。それだけなんですよね。その枠は「青春」というものを賭けて用意されたものですから、突然その枠に該当するものを募るコストを考えれば、その対応も自然なものかな、と思います。

私は、ですね。恥ずかしながら、機会を作り出す者になりたかったのですよ。今の自分をかえりみれば消えいりそうに恥ずかしいですが、今も、ちょっとそうなりたいのですよ。恵まれた自分の責務として、新しい機会を一生を賭けてでも、求めていくべきだ……なんて、甘いですけど、本気で思ってたりするんです。

こういうの(私)を「自分探しの罠にはまった」とでもいうんでしょうね。今さらそこから動けない。ある意味、「自由ではない」んでしょう。

差別がある社会。ああ、そうなんでしょうね。別にコンプレックスのあらわれとかでなく、実際に差別があるんでしょう。そういう差別がある状態では私のような者の「自由」など問題ではないです。差別からくる機会の不平等がなくなる「いつか」まで脇目もふらず戦いはなされるべきなのでしょう。

法律違反に追い込まれる人もいる。そうですね。私もいつかそうなりそうな気がします。きっとそれは潜在的な差別状態が顕在化するということなんでしょうね。差別問題という枠にはまれればきっと社会が振り向いてくれるでしょう。引き込もりがワーキングプアとなってはじめて労働問題となったときのように。さしずめ、その枠は「人生」というものを賭けて用意されているんでしょう。

法律で機会をあたえていく。すばらしいです。法をつくる人間を信頼できる社会はすばらしいです。法が支配する社会に差別がない。時代ごとに新しい差別問題がつくられるはずなのに、それがないとは!そういう時代はほめたたえられるべきです。

……。ちょっとヒガミっぽい話になってしまいました。すみません。

アファーマティブアクションもとりいれられるほど、私が機会をつくり出し、それを分配できるようになれば、と夢想することもあります。それに向けて、できること……。まぁ、今のペースであれば、大したことはできませんが、このトシ(35)になれば、ゆっくりやっていくしかないと少し悟ったので、焦らず、やりますよ。

長文にお目を通していただき、ありがとうございました。

投稿: JRF | 2008-03-03 19:33:13 (JST)

松本 栄司 on 「自由と平等」のレトリック

自由=自分のやりたいことができること。機会の平等のときにだけ現れる状態。
平等=機会の平等のことでした。
機会の平等=差別のない状態。・・・・自由になる。
差別=相手、他人を認めないこと。否定すること。

と、こんな簡単なことが、自分は、なぜ今まで分からなかったのかと、悔やまれます。
 今の日本の法律は、自由を基本に作られています。差別をなくすように・・・。
したがって、法律違反は、差別という図式が成り立ちますね。
 国内で起こっている事件や事故に照らし合わせてみたらいかがでしょうか。

投稿: 松本 栄司 | 2008-03-02 23:40:38 (JST)

JRF on なぜ人を殺してはいけないのか

更新:大江健三郎氏の「一文」よりの引用を加えた。

投稿: JRF | 2008-02-07 21:58:28 (JST)