aboutme:52715
「私は在る」というをモデル化することはできるのかもしれない。でもそうしたとき、それを「私」と考えるとどうしても違和感がでてくる。まるで「神の存在証明」のように。
JRF 2008年4月30日 (水)
「私は在る」というをモデル化することはできるのかもしれない。でもそうしたとき、それを「私」と考えるとどうしても違和感がでてくる。まるで「神の存在証明」のように。
JRF 2008年4月30日 (水)
x と Δt と「棄却できるか否か」の三次元の乱数と考えるのは難しい。「棄却できるか否か」が二値であったりファジィに表現できたりするのではなく、ある種高階関数的で「縮退」のようなものがあるから、…とか妄想中。
JRF 2008年4月30日 (水)
ゲームで神経が疲れるのが実感できる…。
JRF 2008年4月30日 (水)
今いち前進ができないのに嫌気がさしたのか、RPGゲームに手を出した。いやぁ、クエストの途中でセーブできなかったりするから、つい長時間やってしまう。とっとと終らせるか、それとも勉学の相間に挟むことができるか試してみるか?
JRF 2008年4月29日 (火)
共時性か…。
JRF 2008年4月28日 (月)
『ベオウルフ』のDVDを観た。Amazon ではあまり良くない評価だったので心配していたが、私はとても楽しめた。スジとしてはキリスト教の対局としての時代の因果がめぐっての息子殺しといった感じで、興味をそそられた。
JRF 2008年4月27日 (日)
ラストは、「神は死んだ」という時代を経て民主主義の「王様」である君たちが向きあっているのは一体なんなのだ?というメッセージだと私は受け取った。そこに大きな因果を感じてしまう。それ自体はワナなんだろうけど、でも悩まなくてはならないのは本当だというところなんだろう。
JRF 2008年4月27日 (日)
まぁ、それはそれとして。
JRF 2008年4月27日 (日)
対局じゃなくて対極だって。
JRF 2008年4月27日 (日)
Q(t,x_0,Δt) = F で得られた 分布関数 F の平均が x_0 に一致するのが自然な感じがするが、逆にそれが異なることを許すというのはどういうことなんだろう?自己認識のネジレとでもいうべきか。
JRF 2008年4月27日 (日)
ファジ得点法の場合、得点ごとに集計すればいいから、結局二次元で集計することと同じになるのかな。逆変換棄却法は数が多いほど重なりが大きくなるというのは自然だけど、何か違う感じがする。
JRF 2008年4月26日 (土)
t 時に x_0 点であったときに Δt 進んだときの「同じ物」の分布 Q(t,x_0,Δt)(x) = F(x) を考えたとき Δt = 0 のとき、Q が直角のような関数にならないということを考える。
JRF 2008年4月26日 (土)
つまり、同じ時刻において x_0 と「同じ物」は x_0 だけじゃなくて、適当に分布しているんだと考える。このとき、試行数とサンプリング数が少ないなら、ある点から逆変換した点はかなりの確率で重なりができると考える。…ことはできないかな?
JRF 2008年4月26日 (土)
重要なのは不確定性原理と違って(?)サンプリングがあるからゆれるというのではなく、「同じ物」という概念そのものが不確定であると考える点か。
JRF 2008年4月26日 (土)
電束かぁ。いや、その辺は手を出さないぞ。今考えればもったいなかったけど、本も売っちゃったしね。
JRF 2008年4月25日 (金)
トスカニーニ指揮のヴェルディのレクイエム。そのカップリング(?)のヴェルディの聖歌四篇テ・デウムがお気に入り。これは二枚組なのに一枚にヴェルディのレクイエムが入っているのがお得。さらにテ・デウムといっしょに入っているケルビーニのレクイエムが、なんともリラックスできる。
JRF 2008年4月25日 (金)
下のCD。1950年、54年のモノラル録音。つい最近までステレオじゃないとさすがに聴けないと思って敬遠していたけど、モノラル時代の良さに気づいて、最近はその反動もあってモノラル録音のCDをよく買っている。といってもたいした数じゃないけど。
JRF 2008年4月25日 (金)
あとパブリックドメインのもあるからそれを聴いている。ただ、お金を出していないからか、あまり集中して聴けていない。ちょっと贅沢な話だな。
JRF 2008年4月25日 (金)
数学に関して、スランプというか中だるみのようなものになってる。思考の起点や確認の意味をもつ実験プログラムを思いついてないのが大きい。コンピューターに「客観性」を確保してもらうことで、心理的にもラクに作業ができていたのに、それが途絶えているのが苦しい。
JRF 2008年4月24日 (木)
ネタはあるのでとにかく新しいプログラムを作ってしまうべきか。それとも今やっている問題に関するプログラムが作れないか、こだわって、もう一度考え直すか。
JRF 2008年4月24日 (木)
錬金術とかの話。ネットの記事を読んでもワクワク感がない気がする。単に私の感性が鈍ったのか、書き方が一種の術のようなものなのか。
JRF 2008年4月24日 (木)
いっぱい記事はあってその辺りは羨ましいんだけど。どこで「メンター」の必要性に気付かせるかってところが、現代における「白い石」の製法として大事なところかな?あー、KY ってのが社会において結構肝となる元素なのかな?最後にそれを使うと…何かが一瞬はでき(たようにみえ)る。と。
JRF 2008年4月24日 (木)
そこにどういう意味を込め、どこまで気付かせずに引っぱっていけるか。…こっちが気付かされたときどう振るまうか。…そこは素直に振るまいたいんだよな。
JRF 2008年4月24日 (木)
というか、今の時代そこを素直にしないと、つっこみが早過ぎてついていけない。そこをあえて持ちこたえようとすると…逆にそれができちゃって、別のことに気付かされることを強制されて、心の病院に送られるかもしれない。私の経験からすると。
JRF 2008年4月24日 (木)
メッセージはない。世相に対して何か考えようとしてみた。だが、自分で人にとって有用だと思えるものは導き出せなかった。
JRF 2008年4月24日 (木)
時系列で重なりのある分布の話のつづき。どういうシミュレーションをつくればいいのか。Δt時前にカウントしたものを二度カウントしないということを表現するためには、今のところ二つの方法が考えられる。
JRF 2008年4月24日 (木)
ひとつは、Δt時前に起こったとき、そこから到達可能な位置をランダムに出して、それをカウントするとき、到達できない確率を考慮して、1とカウントするのではなく 0.1 とかでカウントするという方法。ファジィ得点法とでも呼ぼうか。
JRF 2008年4月24日 (木)
もうひとつは、Δt_1 時に起こったことに関し、その原因となった Δt_2 時の点をランダムに導き、それが Δt_2 時の分布のランダム点以下のとき、もとの事象を棄てるという方法。逆変換棄却法とでも呼ぼうか。
JRF 2008年4月24日 (木)
ただ、どちらも正確なモデルにはほど達い。これから詰めていかないと。で、それが私にできるのか?…と。まぁ、とりあえず考察だけはやってみるけどね。
JRF 2008年4月24日 (木)
今のところ鼻みずはそれほどでもないんだけど、鼻はムズムズするんだよな。
JRF 2008年4月23日 (水)
時間のサンプリングの重なりの中に「私」がいて、判断をつないでいる…。今いちピンと来ないな。
JRF 2008年4月22日 (火)
モンティ・ホール問題も解けるまでは「私」が知ったとか知らないとか考えて、でも、解いたあとは、そういう考えでなくなっている。論理のスジに「私」が付着している…という言葉で表してもそれが数学的になんなのかわからない。
JRF 2008年4月22日 (火)
いや、それは数学的に表せるんだけど、そうすると「私」というラベルではなくなる。…というと「私」がラベルのようなものと言っているようなものだが、そういうわけでもない。この辺の考察に突っこむのは危ういので、私は避けたいんだけど…。
JRF 2008年4月22日 (火)
最終的解決が必要だと思うのは、ある高潔な人物がその解決を事実上受けいれている状態で、なお、(自分から見て)枝葉末節を衝く議論をする者達がいて、そこに何か(言葉など)を根絶しようという主張が含まれているとき、だったらお前ら「自身」も最終的解決の対象となればいい、
JRF 2008年4月21日 (月)
「私」も何らかの解決は「私」が属するもの総体としては受け容れるから、と考えてしまうからではないか。
JRF 2008年4月21日 (月)
でも、それがワナのようなものなのであって…。
JRF 2008年4月21日 (月)
「私」はそのとき受け容れる純粋さをもっても、後の世代ではいろいろな係累から純粋さが失われる。その純粋さは「神」をして永遠の王権を約束するに足りても、それもついえるのが定めのようなもの。その残滓が集合的無意識の形態を変えたとしても。
JRF 2008年4月21日 (月)
鼻がまたムズムズしてきたぞ。風邪かどうか判断がつきかねていたが、そろそろハッキリしてきた。さぁ、私にとっての花粉症の季節がはじまったぞ!…ああ、鼻から涙が…ってキタナイ。
JRF 2008年4月21日 (月)
私の花粉症は毎年4月から6月。ときどき出ない年もある。スギやヒノキのとは時期が違うから、何か(イネ科)の雑草の花粉じゃないかとのこと。
JRF 2008年4月21日 (月)
時系列を使う確率モデルにも手を出したいと思っている。基本としてまず考えに浮かんだのは、マルコフ連鎖とかブラウン運動とかじゃなくて、「ある時間における(離散)量は、同時に得ることは実際にはできていなくて、ある時間の時間軸における周辺をランダムにサンプリングしているんだ」という考え。
JRF 2008年4月19日 (土)
ある時点のサンプリングは、かならずそれ以前のサンプリングと関係あるようになるだろう、そこが特殊なことなんじゃないか。と。
JRF 2008年4月19日 (土)
でも、それは結局、サンプリングされるモデル自身の時間軸における相関に還元してモデル化すれば同じだろう、サンプリングの非同時性は考慮するのは無意味だ、という批判ができる。
JRF 2008年4月19日 (土)
この考えを有意義にするためには、ある時間ののカウントのさいに、異時の「同一物」について重複がないようにカウントされるという条件を課せばいいのではないか。と考える。で、そうすればモンティ・ホール問題でやった考察が活かせないかなぁ、というほのかな期待を込めてそう考える。
JRF 2008年4月19日 (土)
でも、じゃあ、それって具体的にはどういうことになるのか?ある時点における動物の年齢に関して何らかの特徴をサンプリングするってカンジかな?しかも実年齢ではなく老化度みたいなのを時間軸にとるってカンジか。他は半減期みたいな分布と考えて…とか。
JRF 2008年4月19日 (土)
うーん、具体例にするとイマイチ、ピンとこないんだよな。
JRF 2008年4月19日 (土)
ある政治に関する本を読むのに8日間もかけてしまった。軽く読み飛ばすつもりが、逆に集中できなくてなかなか読みすすめなかった(んだと思う)。眠りも乱れて、今は少し頭が痛い、というか、前頭部から頭頂部にかけて張ってる感じがする。
JRF 2008年4月18日 (金)
戦争の記事を牧歌的に読んでしまうフィルターのようなものが私の頭にできてしまっている。これはよくない傾向だ。「敵を愛する」に強い反発を覚えることに同情できないのと同じように危険なことだろうと思う。
JRF 2008年4月15日 (火)
「卵に少しの小麦粉」という歌が「火刑台上のジャンヌ・ダルク」に出てきた。finalvent さんの記事はそれと関係があるのかと思って、少し調べたが、私には謎のままだ。
JRF 2008年4月15日 (火)
二十面相の娘…。たんぱく質と小麦の関係っていうのは毒みか何かなのかな?
JRF 2008年4月15日 (火)
蜜蝋といえばアッシリア、シリアで何かあるとか?…と思っていたけど、蜜蜂とアッシリアを結びつけるのってあまりないな。聖書でもイザヤ7:18の「アッシリアの地から蜂を呼ばれる」だけが根拠か。また勘違いか。
JRF 2008年4月15日 (火)
少し連想がすぎるかな。
JRF 2008年4月15日 (火)
下のジャンヌ・ダルクの映画の件でもそうだが、私は「奇跡」のようなものと出会い、ときどきそれを明確な意識の中で求めてしまうという人生になってしまった。思ったようには与えられない。しかし明らかに与えられている。そんな生。
JRF 2008年4月15日 (火)
これは「誤解」であるとわかっている。だが、詳らかには説明しがたい。
JRF 2008年4月15日 (火)
私は何らかの「神格」を僭称しているように考えることがある。…神獣の神格とかアニメなどに「預言」されたものとか、そういうもの。それはほとんど偶然の契機に依ったから、自意識をくすぐる方向に作用してはいる。
JRF 2008年4月15日 (火)
しかし、それによって思考停止に近い状態になるという点で、僭称の罰なのかもしれない。いや、もちろん、…「もちろん」といってはなんだが…誰かからの罰というのではなく、そういう「僭称」をする者がはまりがちな心理的なトラップという意味において罰なだけなんだろうけど。
JRF 2008年4月15日 (火)
これも今の境遇から脱け出せば、気にならなくなるんだろう。今の境遇では、こういった心の作用がむしろ自分を支えてくれているから、自分を委ねてしまっているのだろう。
JRF 2008年4月15日 (火)
…そういうことだ…というのは理解はできるんだけど…。
JRF 2008年4月15日 (火)
20代前半のころまでは「こむら返り」だと思うんだけど足の親指が変なふうに曲がってむちゃくちゃ痛くなるってことが、寝てるときとかにときどきあったんだけど、いつからかそういうことがなくなってる。何でだろう。一種の筋力の衰えなのかな?
JRF 2008年4月15日 (火)
少し体がダルい。風邪かもしれない。
JRF 2008年4月14日 (月)
「息どほし」または「いきどほし」の用例がみつからない。あったはずなのに…。見たのは古典の辞典の用例だったと記憶していて、実は最近、その辞典を探しているのだが、どうも見つからない。記憶違いか?
JRF 2008年4月13日 (日)
ググってもないあたりかなりあやしい気はする。
JRF 2008年4月13日 (日)
昨日もちょっとそうだったのだが、今日もお腹の調子が悪い。反芻しがちになって、肝臓の上あたり(なのかな?)が痛い。いつものやつ。今日は食べ過ぎではないと思うけど、このごろ総じてみればそうだったのかなぁ。いや、でも、たいして食ってないけど…。
JRF 2008年4月13日 (日)
x の逆数の n 乗をとるパレート分布って乱数列の最大値を取ることと関係があるということか?
JRF 2008年4月 9日 (水)
Beta 関数の逆数ね。それであってた。間違っていたのは Gamma 関数のプログラムだった。よくこれまで間違いに気づかなかったなぁ。
JRF 2008年4月 8日 (火)
ところで、これって正規乱数に限らないんだよね。ソートをしたものの密度ってこんなに簡単に表せるんだ。
JRF 2008年4月 8日 (火)
でも、正直なところその導出過程がいまいち理解できていない。
JRF 2008年4月 8日 (火)
そういえばニラも食べたから、私にとっては「いつものやつ」なのかもしれない。
JRF 2008年4月 7日 (月)
昔なら気にして修正していたようなところを修正せずにコミュニケーションをしてしまっている。中途半端に譲っているんで逆にイヤミに見えてしまっているかもしれない。…こういうことが続くようなら態度から修正していかないといけない。慣れがなくなっていくものは、とくに。
JRF 2008年4月 7日 (月)
そういえば最近、アニソン系のCDを買ってない。でも、マクロスFには期待。これは何か買うと思う。でも、声優っぽいやつがないかなぁ、「ひまわりっ!!」の「きらきら(ひまわりver.)」とか良かったんだけど。
JRF 2008年4月 7日 (月)
正規分布関数ぐらい標準パッケージに入れておいて欲しい。…というか、そういうことを Perl でやろうとするのがそもそもマチガイなのかな?
JRF 2008年4月 7日 (月)
80日の制限があって、しかも拡大しても字が読めないことがある画質のものに、定価の半額以上の金を払うって、狂ってるとしか思えないんだけど、でも、それしか支払いのためのまともなチャンネルがないならしかたないのかな。
JRF 2008年4月 7日 (月)
n 個の正規乱数をソートしたやつの i 番目をとったところの分布。c(i) * normal_density(x) * normaLdist(x)^(i-1) * (1-normal_dist(x))^(n-i) って形はあってそうなんだけど c(i) がうまく求まらない。
JRF 2008年4月 7日 (月)
Beta 関数のはずだけど…実験と合わない。計算まちがいしているのかな?
JRF 2008年4月 7日 (月)
ウラニアのエロイカ。確かにすごいかもしれない。→ http://public-domain-archive.com/classic/download.php?album_no=73
JRF 2008年4月 6日 (日)
これが Public domain っていいんだろうか?
JRF 2008年4月 6日 (日)
論文のコピーの保存。私は紙のケースファイルを使っていたんだけど、これが手に入らなくって…。通販しないとダメっぽい。
JRF 2008年4月 6日 (日)
暴力は暴力だよ。どんな政体であってもね。「正当化」はできない。ただ、ないよりはマシだったという評価を後から誰かが作ってくれるかもしれないというだけだ。個人的にはそこで本人が正当化を求める「犠牲的精神のなさ」があればそれをリーダーに頂くのは不幸でしかないと思う。
JRF 2008年4月 6日 (日)
うーん、リマスタリングされたもの音って本当に改善されているのだろうか?微妙な違いくらいだったら、私にはわからないので別にいいんだけど。モノラルの別のものとくらべても名盤と呼ばれているもののリマスター盤にミョーに楽器がひきたたないCDがあって…。
JRF 2008年4月 6日 (日)
単に私と相性が悪いってことなのかなぁ…。
JRF 2008年4月 6日 (日)
そのシリーズ、録音がもとから悪いやつを買ったこともあってそういう偏見を持つようになってしまったのかなぁ。ジャケットの裏が貧相だったり、シリーズ全体が不遇なのかな、とか思ったりしたんだけど。でも、「未完成」はその録音のよくないCDが今はお気に入りで…。
JRF 2008年4月 6日 (日)
どうも腹の調子が悪い。いつものやつともビミョーに違う。反芻し(てしまっ)たとき、アルコールを飲んだあとっぽい味もする。酒は飲んでないので夕食の調味料のあじなのかなぁ。
JRF 2008年4月 6日 (日)
あれ?記事を書いていないのに、記事を書いたあとにくる鬱っぽい感じがキた。アバウトミーにいろいろ書いてもこういうことはなかったのに。今日はさすがに勝手に書きすぎたか。
JRF 2008年4月 5日 (土)
審級が「あわれみ」を欲しがっているのではないかという考えが浮かんだ。「あわれみ」と言っても人の同情という意味ではない。「神の真実」が明らかになること、それが審級にとっての「あわれみ」である。…でも、なぜそう思い浮かんだのだろう。
JRF 2008年4月 4日 (金)
フロイトを読んでいたが、それに対抗する意見というのを考えていると、危険思想を擁護するようなものがまず出てくる。少なくとも自分にはそう思えた。これをもう一段乗り越えないと論説は書けないんだろうな。
JRF 2008年4月 4日 (金)
すごいアジだな。そのレトリックにさらされると私なぞは不安になる。
JRF 2008年4月 4日 (金)
理性の定義の仕方によって、西洋とイスラムを区別できないかと考えたことがある。問題としては信仰告白について考えていたときだ。
JRF 2008年4月 4日 (金)
西欧では理性を「普遍性を知る能力」とするのに対し、イスラムは理性を「善悪を判断する能力」とする。西欧の理解では、すべての人に等しく理性があると考えることは難しいが、イスラムの理解では、すべての人に等しく理性があると考えることもできる。
JRF 2008年4月 4日 (金)
ここでいう「西洋」と「イスラム」は実際の集団ではなく、そこに私を含む日本人がいだいてきた「主観的」イメージに基づく仮託のための存在である。 …としておこう。このほうが素直にロジックが展開できる。
JRF 2008年4月 4日 (金)
人と動物の大きな差として言葉があるが、イスラムも西欧も理性の現れとして言葉をとらえるため、理性を言葉で証明することが求められる。信仰告白の問題である。西欧では、善悪にかかわらず知識を語ることができるが、イスラムでは語るときには善悪の判断を経ていなければならないことになる。
JRF 2008年4月 4日 (金)
議論を単純にするために、人は、「知識」に基づいて「判断」し、「行動」すると考えよう。
JRF 2008年4月 4日 (金)
「知識」と「判断」は相互に関連するものである。「知識」を得るときには、現実の取捨選択の「判断」が常にあるし、善と悪を正しく「判断」するためには、他で得た「知識」が必要になる。
JRF 2008年4月 4日 (金)
「判断」と「行動」にも関連はある。人は自分の「判断」によらない「行動」は自分のものとは思わないし、客観的には「行動」によってしか人の「判断」を知ることはできない。
JRF 2008年4月 4日 (金)
しかし、「知識」と「行動」を直接関連づけることは難しい。よって、「知識」と「行動」の間にいかに「判断」を位置づけるかが問題となる。
JRF 2008年4月 4日 (金)
西欧の「理性」の定義では、「判断」と「行動」は同じだが、「知識」と「判断」は別物であるという理解をしがちになる。なぜなら、「知識」を特別視するために、「判断」と「行動」が相対的に接近した概念としてとらえられるからである。
JRF 2008年4月 4日 (金)
よって、善は必ずなされねばならないが、理性が足りないために、すなわち、知識不足で、善悪の判断がつかないことはあるという考えを生む。
JRF 2008年4月 4日 (金)
一方、イスラムの定義では、「判断」と「行動」は別物だが、「知識」と「判断」は同じであるという理解をしがちになる。なぜなら、「知識」を表すには言葉によるしかないのに、その言葉を「判断」の証明として求められるからである。
JRF 2008年4月 4日 (金)
よって、善とわかっていても行動を起こさないことは認めるが、理性はあるはずだから、善悪の判断の表明を常にせまっても良いという考えを生む。(知識が不足していたり判断がまちがっていたりするのは神のみぞ知るということである。)
JRF 2008年4月 4日 (金)
西欧とイスラムの境界では、ときおり「知識」も「判断」も「行動」も同じであるとし、善悪の判断を強制的にさせ、それに従って即座に行動することを求める不寛容が起こり、悲惨な結果を生んできた。
JRF 2008年4月 4日 (金)
西欧は、事象を知識にする際の情報劣化を深く考え、イスラムは、知識を行動にする際の情報劣化を深く考えたのだろう。ここには、イスラムが子音のみを記述するアラビア語に根差すことに関係があるのだろうか?
JRF 2008年4月 4日 (金)
これと表現の自由を結びつけて考えてみよう。
JRF 2008年4月 4日 (金)
表現された「ベタ」な情報という慨念には、ある者の知識に基づく情報が、その者の判断によっては意味をなしていないが、他のものの知識となったとき判断の根拠となるものがありうるという含意がある。
JRF 2008年4月 4日 (金)
「理性が劣る」というのは理解に難しい状態だが、そういう人がいるとするのだから、おそらく下のように「知識」と「判断」に差がある場合が頻出することもあるという立場なのだろう。
JRF 2008年4月 4日 (金)
知識が不十分な状態が誰しもにあるとすると、このとき「判断」を得た情報しか求めてはいけないというのは、良い「判断」をできるチャンスを逃す結果につながる。よって、そのような良い「判断」をするためには、「判断」を得ていない情報の表出の可能性を増やすために表現の自由を認めざるを得ない。
JRF 2008年4月 4日 (金)
一方、理性が平等にあり(という時点で下の「イスラム」的だが)、「判断」は常に正しくなされていて、得られる情報からただ行動すればいいだけであると考えるなら、情報に関する階層はいらず、ただその効率を上げていけばいいだけということになる。
JRF 2008年4月 4日 (金)
結局、表現は制限した上に、命令系統に階層を認めたいというのは、自らの優越に自信がない上に他者を信頼できる人間ではないことを表明しているだけではないだろうか。
JRF 2008年4月 4日 (金)
…と、辛辣な意見になればと思って書いてみたが、新しく考えたところは論旨の明解さが不十分だな。
JRF 2008年4月 4日 (金)
あと、このままだと特定人を想定しすぎていて、陰口みたいになってるな。まぁ、この程度の破綻した片隅のコメントなど意に介さないだろうけど。
JRF 2008年4月 4日 (金)
うーん、しかし、私に関していえば、確かに一方的な意見ばかり読んでいる状態ではあるかな。その点は反省する機会を与えられているのかもしれない。でも、じゃぁ、どこを新しいソースとすればいいんだろう?
JRF 2008年4月 4日 (金)
表現というのはある種の信仰告白となっていることがある。自由と言いながら、特定の表現のみが現ることを具体的個人に期待するのは、その者の人格への攻撃としての側面を持つことがある。
JRF 2008年4月 4日 (金)
当然、そのとき用いられる「問い」も表現であり、二者間の問答を前提とするところからは表現の自由はまやかしにすぎないという実体はありえただろう。しかし、出版により匿名人による問いかけが可能となった時点において表現の自由は意味を持つようになる。
JRF 2008年4月 4日 (金)
インターネット時代、IP を監視するなどして、匿名人による問いかけを実質的になくそうとするのは、表現の自由という「慨念」に対する攻撃と言ってさえ良いのではないだろうか。
JRF 2008年4月 4日 (金)
ただ、この問題を考えていく上で恐ろしいのは、今の時代のアジアでは「それもありかな」と思える場合がありそうに見えるということだ。
JRF 2008年4月 4日 (金)
現代民主主義にとって表現の自由は思想的基盤である。基盤であるという意味は、それがないと存在しないということではない。
JRF 2008年4月 4日 (金)
その自由が確保されているという「フィクション」を保持し続けるには、どういう政体や経済が必要かという観点から現代民主主義が構築されている、という意味において基盤なのである。
JRF 2008年4月 4日 (金)
表現の自由がなくても現代民主主義は可能かもしれないが、表現の自由がなくてもよいなら現代民主主義は必要ないとされてしまう危険がある。
JRF 2008年4月 4日 (金)
表現の自由の問題は、実際にはその背後にある力関係によってほとんど一方的な物言いができることにある。だから、問題は、ほんとうは表現の自由にあるのではなく、「背後にある力関係にある」。……これは半分うそだ。
JRF 2008年4月 4日 (金)
そのフレーミングに立ったとしても、ある特定の表現を禁止することが、思想的「分断」をもたらし力関係を変化させることもあるからだ。
JRF 2008年4月 4日 (金)
そこで力を用いることがいかに非効率的であろうとも、情報をつくる行為が非生産的とみられている限り、その議論は相殺される危険がある。
JRF 2008年4月 4日 (金)
だから、まずは犠牲を払ってでも情報に価値を付けなければならなかった。そして、それはときに自由を払ってでも成し遂げられてきた。だから、その資産を安易に壊そうとする者が「やってきた」ならば、あえて「表現の自由」を犠牲にしても、情報への価値を守ることが優先されることもある。
JRF 2008年4月 4日 (金)
それが結局、「表現の自由」を末端レベルでは守ることにつながっていくのだ。
JRF 2008年4月 4日 (金)
だが、そこで犠牲になっているものは本当に「表現」だけになるかは想像力をはたらかせてみる必要がある。
JRF 2008年4月 4日 (金)
そこまでして守ろうとする者が何を許してしまうのか…。 私は恐ろしい。
JRF 2008年4月 4日 (金)
でも、まぁ、これは妄想だからね。しかも他の人には伝わらないタイプ、というか、伝わったと感じる人は騙されているだけというタイプの話だから。途中、おかしな方向にいきかけたのでムリヤリ結果をネジまげたから、論旨もムチャクチャだし。
JRF 2008年4月 4日 (金)
はぁ、こういうのをまとめて本当は記事にしないとダメなんだろうな。そうでないと、まったく伝わるチャンスがないから。
JRF 2008年4月 4日 (金)
バッファを使ったフィルタ。バッファの数を最短にして、端を削るのを2/3の確率でやれば、真ん中をとった分布ではなく削られたほうの分布を見ると台形になってる。これに今度は削る確率は同じでバッファをかなり長くしたフィルタにかけて真ん中をとるとほとんど一様分布になる(はず)。
JRF 2008年4月 4日 (金)
これを解析的に証明できないかなぁ…。
JRF 2008年4月 4日 (金)
分散分析。x_i_j = μ + σ_A * A_i + σ_B * B_i_j と表すところから導出がはじまる。σ_A が σ^2_Treat の平方根、σ_B が σ^2_Error の平方根、A_i と B_i_j がすべて独立な正規乱数(平均 0、分散 1)。
JRF 2008年4月 3日 (木)
こんなふうに平均 + 分散 * 乱数という形で書けるのは、正規分布に特殊な特徴。こうおいて、力業で計算すると、期待値に関しては素直に出てくる。
JRF 2008年4月 3日 (木)
問題は独立性で、今のところ、(B_i_{j} - B_i_{j'}) の和の平方の和と (B_{i}_j - B_{i'}_j) の和の平方和の独立性に帰着すればいいのではないかとまでは考えられる。前者は j=j' のとき 0 になり、後者は i=i' のとき 0 になる。
JRF 2008年4月 3日 (木)
そこから独立っぽいな。って考えがちなんだけど、しかし、差の場合の数は 0 の部分を抜いたとしても 前者が m * n * (n-1) 後者が m * n * (m-1) みたいになる。
JRF 2008年4月 3日 (木)
ところで、独立な変数の数は m * n 個しかなかったわけだから、m * n * (n-1) + m * n * (m-1) 個の (B_{i}_{j}-B_{i'}_{j'} ) が独立なわけがない。だから、もっと客観的な証明法がない限り、とても独立だとはいえない。
JRF 2008年4月 3日 (木)
まぁ、しばらく pending、しお漬けですな。
JRF 2008年4月 3日 (木)
めぼしとしては、変数の数を 2 とか 3 にして、独立の定義に沿ってやってみるとか、そういう感じか。
JRF 2008年4月 3日 (木)
拡張された自分に若さを求めてはいけない。そして求めるという限りは内面に対しても同じだ。若さと対峙したとき自分の若さも出てしまうことを抑圧しない、それぐらいが許されることではないか。
JRF 2008年4月 3日 (木)
あーっ、あそこは「お伝えください」ではなく「お申し付けください」と書くべきだった。今回はダメとまでは言えないが、次回は気を付けよう。
JRF 2008年4月 2日 (水)
なんでこらえきれなくなったんだろう…。最初はそんなにメチャクチャでもなかったのに。演技と見るのはうがちすぎか…。
JRF 2008年4月 2日 (水)
他人より優れていることを喜ぶことをナルシズムというのは私の語感と少し違うな。
JRF 2008年4月 2日 (水)
ブログには書くの忘れたけど、ここ最近の大きな変化としてブログへのスパムが極端に少なくなったってのがあるな。
JRF 2008年4月 1日 (火)
[アイデア]アバウトミーの右に出る広告。普段は(ニフティの方には申し訳ないことに)特に気にしないけど、ときどきハデというか眼にやさしくなさそうなものがあって、気分をそがれる。「この広告は見たくありません」というのをニフティに通知し、別の広告に切り換える機能が欲しいなぁ。
JRF 2008年4月 1日 (火)
まぁ、普通はリロードすれば他のものに変わるもので、広告主もそれを前提にたまにハデなものがあってもいいだろうってことで出しているんじゃないかと推察するけど、ここのシステムはどうもそうではないらしいから。
JRF 2008年4月 1日 (火)
…しかし、これはただの文句にすぎないな。誰かのためにはなっていない。いや、もちろん、いつも「何かのため」にはなっていない。でも、そうでなくてもそうあろうとした自分が剥がれおちている。
JRF 2008年4月 1日 (火)