aboutme:62569
穀物について同国人組合による自主備蓄組識とか作って「自家消費分」を国際的に融通しあうとかできないのだろうか。密輸の温床になっちゃうかな。いや、穀物価格の上昇が一過性のものでないならそういうのもあって良いかなぁ…と。狙いは間接的な移住者数の把握ができないかとかいうこと…だけど。
JRF 2008年6月30日 (月)
穀物について同国人組合による自主備蓄組識とか作って「自家消費分」を国際的に融通しあうとかできないのだろうか。密輸の温床になっちゃうかな。いや、穀物価格の上昇が一過性のものでないならそういうのもあって良いかなぁ…と。狙いは間接的な移住者数の把握ができないかとかいうこと…だけど。
JRF 2008年6月30日 (月)
いわゆる某国の「人道援助」もそういった枠組の変種であって、そこを搾ったままにするのは、あまり良くないことだったのでは…とか思っていた。実体がわからないから、弊害が大きかったと言われても反論はできないけど。
JRF 2008年6月30日 (月)
あと、これはアジアの識字率の高さを考えればあまり必要ないことかなぁ、とも思うんだけど。
JRF 2008年6月30日 (月)
ひょっとすると、各国語について、母国語の表記および母国語のローマ字での表記を音声で教えるソフトをすべての図書館や小学校に設置し、図書館員などがその操作を補助できるようにするカリキュラムとかを組む、とか今求められたり、求められたりするようになったりしないだろうか。
JRF 2008年6月30日 (月)
英語が「母国語」とされていても、英語をローマ字で表記する方法を教えたりして。
JRF 2008年6月30日 (月)
録音したものを届けるよりも、いざとなると、書いたもののほうがいろいろ外に出すチャンスがあったりするから、たまたま見つけた「幸せ」な同国人に手紙を渡したりするチャンスを、つくれるようにできないか、と。前書いた「愛敵」じゃあないけど。
JRF 2008年6月30日 (月)
もちろん、そこまで深刻な事態が今起きているとはいわないけれどもね。
JRF 2008年6月30日 (月)
こういうのはうまくいきすぎると、それはそれで変な力が働いちゃうから注意も必要だけれども。
JRF 2008年6月30日 (月)
アニメといったら実は特撮で、しかも、その中で使われた、と言ったのに、実は CM で使われていた、ってことあるよね。人の記憶ってあいまいってあるけど、記憶はしているけど、記録があいまいってことが、あるよね。
JRF 2008年6月29日 (日)
特に、こういった「チャット」類似形式だと、電話とかと違って相手の応えの調子から、そこに関心をもったとかって推測できないから、直すチャンスが普通はない。←これはたまたま自意識過剰を契機として書いてるだけ。
JRF 2008年6月29日 (日)
…と軽くフックしてみるけど、いかがか?
JRF 2008年6月29日 (日)
相続は特例とかいっぱいあるからな。農地とか重婚を利用して受けつがれようとしてないんだろうか?昔なら「みっともない」とか言って避けられていた関係が展開されたりしていないんだろうか?イエの抑圧があったほうがマシだったということはないんだろうか?
JRF 2008年6月29日 (日)
資産課税が大事。資産課税は本来、相続税よりも地租だ。昔、地租が役割を果たした部分を、法人税が担っている面がある。だから、法人税の一部をDRM課税とか知財課税とかするなら、資産課税との関連を再びみなければならない。
JRF 2008年6月29日 (日)
貸金の管理について、知財課税の枠で何らかの制約を設けていくというのはどうなのだろう。…とか思った。手配師の話を読んで、こんなことを書いている。
JRF 2008年6月29日 (日)
児童ポルノ規制に関する私の考え方は、わかりにくいけど《はてなブックマーク「投げ銭予約」のアイデアまとめ》http://jrf.cocolog-nifty.com/column/2006/04/post_7.html の「法と経済の観点から違法ポルノ規制との関連」が軸。
JRF 2008年6月29日 (日)
そういったポルノが具体的にあるとほのめかすほうが罪になる可能性があるとしたほうがいいでしょってこと。ネットが出てきたことに対応するなら、そういう法制をすべき。
JRF 2008年6月29日 (日)
あと記事に書いていないのは実写表現系犯罪への「投資」意志に関して規制すべきだ、というぐらいかな。こちらは投資の「グローバル化」に対応してという側面かな。追えないところの不幸の連鎖をなんとかしたほうがいいだろう。と。
JRF 2008年6月29日 (日)
で、逆に今の議論のようなことって、何で今になってするようになったかがわからない。ネットを利用すればできなかった規制ができるというならいざ知らず、単に尊大なだけなんじゃないか、とすら思う。
JRF 2008年6月29日 (日)
「尊大」というのはちょっと言い過ぎかな。でも、ある種のイラダチをもってそういう人々を見てしまっているんだよなぁ。ダメな私。
JRF 2008年6月29日 (日)
何というか外国に影響が及んでいることに国内と同じ対応ができるようにふるまい、18才未満をいっしょくたにするような現実の知らなさにはヘドが出る…とか言ったら悪いな。ポジショントークですもんね。でしょ?
JRF 2008年6月29日 (日)
みんな同罪だという感覚はわからないでもないですが、罰を量るには割り切りが必要。罰の加え方、法を作る順番、そういったものを変えることで、人が動きが変わるように振る舞うのが政治なんじゃないかなぁ、と思うんですが、…
JRF 2008年6月29日 (日)
いや、悪意を吐露するより、他者に向かって「ポジショントークでしょ」というほうが失礼か。…受けとる人によるかな。
JRF 2008年6月29日 (日)
いくつかのページを「ある意味動き出したいと思っている。ストレスを感じながら。」と読んだ。焦らせるような環境の変化が、何かはじまっているのだろうか。それともたまたま私が見たところがそうだっただけなのか。
JRF 2008年6月28日 (土)
一夫多妻よりは重婚といったほうが、ジェンダー的に適切なのだろうな。先の相続の案が「重婚」的になるのは、まず、非嫡出子を嫡出子と同じ権利を認めることで、結婚契約時期の特別性がなくなるという別の話があって、…
JRF 2008年6月28日 (土)
…それに加えて、配偶者の権利を特別でないものにできる「穴」を作れば、結婚契約は意味がなくなる場合が出てくる。(でも、「穴」を使わない場合の優先権をつけるという意味は残るけど。)つまり重婚状態を法的には是認することになるというわけ。
JRF 2008年6月28日 (土)
その代わりといってはなんだけど、イエの管理を強くしてあまりにも倫理的におかしな状況は防ぎましょう、というのが先の案。
JRF 2008年6月28日 (土)
なんで、今そういうことをいうかというと、一つは黙して語らないことにしますが、もう一つを語ると、少子化がすすんでもイエのつながりを維持するため。…ですね。つまり、昔は多くの兄弟がいることで、血縁的つながりというのがそこかしこにあったのが、少子化でなくなる未来になる。
JRF 2008年6月28日 (土)
団塊ジュニアの世代では、親の兄弟というものも合わせないと「親族的ひろがり」が十分確保できていない。だから、強勢を得たイエが出てきそうになっても、十分な広がりがないため、簡単につぶれてしまうという懸念がある。
JRF 2008年6月28日 (土)
日本は閨閥が支配しているというのが、今も通用するかどうかは別として、そうでなければうまくいかない季節がくるかもしれない。それに対応する裏ワザ的方策も考えておいたほうがいいのではないか。…などと言葉にすれば、私はそう考えたのだと思う。
JRF 2008年6月28日 (土)
一夫一妻じゃないと感情的に折り合えないのが「歴史的真実」かもしれないけど。まぁ、裏ワザ的に。
JRF 2008年6月28日 (土)
私はその辺の機微がまったくわかってないので、一つの考え方の極を提示したかったという旨で受けとってもらえれば。
JRF 2008年6月28日 (土)
そういった「背景」があってこそ自由恋愛主義が自由をもたらすのであって、「貧困層」でも少子化される日本の現状においては自由恋愛は貧困の再生産に過ぎないのではないか。
JRF 2008年6月28日 (土)
ただ、子供の数は結婚した男女で見ると実はあまりかわっていないという話もチラと聞いたことがある。この辺りも、調べてから言うべきだったかもしれない。
JRF 2008年6月28日 (土)
イエの実体をアバくという小説があって、団塊ジュニアの層があるということは、こういった問題意識はすでにあって、何らかの解決を「見た」のかもしれない。時代証言的なものを私は探すべきなのかも。
JRF 2008年6月28日 (土)
まぁ、よしなに。
JRF 2008年6月28日 (土)
殺された人の家族の権利を国がなんとかすることは大事だと思いますよ。キホン、地震で人が死ぬのと違うところがあるとすれば、意志をもってやった人がいるということです。ただ、その人にとっても病のようなものと何が違うかとも思います。社会への意義に転じる意志を持たない憎しみは肯定しません。
JRF 2008年6月28日 (土)
もちろん、当事者ではない他者だけど同じ社会の一員としての意見です。
JRF 2008年6月28日 (土)
頭がしまる。…ような感覚。
JRF 2008年6月27日 (金)
頭が痛いのはたいてい寝れば治っている。今日も治った。
JRF 2008年6月27日 (金)
考え直した。やっぱり補助金はよくない。補助金とリフレを結びつけるのは行き過ぎだ。これは「言わされた」感すらある。
JRF 2008年6月26日 (木)
この「言わされた」感は前にもあったようなものだ。昔、資格取得の奨励を支持したことがあるが、大学にいてそこからは見えなかっただけで、当時すでに無数に資格はあり、専門学校等ではその取得が奨励されていたりした。私には見えていないだけだった。
JRF 2008年6月26日 (木)
関税が残っていることを知らなかったことも思い出す。日本は関税をなくしていって、もうほとんどなくなったんだといったような論調が、国内を通して外国に伝わるように(だろうが)煽っていた。私はそれに乗せられて論を展開したこともあった。
JRF 2008年6月26日 (木)
おそらく補助金とリフレを組み合わせる構図は私には見えていないだけで、すでにあるのだろう。税額控除や破産や「窓口指導」を通してそれぐらいのことは実現できよう。なくなったとか言われているものは変質してあると考えるべきだ。特に時間がたったあとは。
JRF 2008年6月26日 (木)
その方法はどうでもいい。私が言ったのは適当なでっちあげだということでいい。私はそういう面を今は追わない。
JRF 2008年6月26日 (木)
ただ、補助金という具体的な言葉を持ち出すと、私なんかはかなり制限的に言ってるのに、そういったところにノッカるやからが出てくる。
JRF 2008年6月26日 (木)
さっきの資格取得の構造もそうだろうが、人口の多い部分が上に上がって、何とか補助金をもらってでも食いつなぎたいと思うようになっても、人口構成を考えれば縮小していく方向でいくしかない。つぶすものはつぶす…んだけど、どう「統合」という体裁を保つかが問題なのではないか。
JRF 2008年6月26日 (木)
この辺、衰退産業のスキルとかであった話だろうし、ミクロには対応はできる。それがマクロではどうなるかってだけかな?
JRF 2008年6月26日 (木)
…と、調べないまま考えてもあまりいい考察はできないな。まぁ、ここ数コメントは「私はこう考えていましたよ」って記録ぐらいか。
JRF 2008年6月26日 (木)
自分の決意を人に拡大する。大きなお世話以外の何ものでもないのではないかとも思うが、集団意志は生命がけだというなら、そういう考え方もあるのだろう。そうやって「呪い」のようなものが積み上がっても、それが必要だったと気付くことになることが正しい…いや、「自然」になるのだろうか。
JRF 2008年6月25日 (水)
私はその「決意」の下部に位置するようになるのかもしれない。そうなれば止めることはできない。今の自分に何ができるか。…と問うても意味はほとんどない。漫然と日々を過ごすだけだ。どこかでほんの少し違った選拓をすることもあるかもしれないが。
JRF 2008年6月25日 (水)
私は誤解のままに発言することをヨシとすることがある。それがコントロールの記録となる側面があると思っているからだ。だから、間違いを訂正するよりも、なぜ間違うように考えたかを想い出そうとすることがある。
JRF 2008年6月25日 (水)
でも、それは精神的にはやや危険があるのも、今は実感の下にある。
JRF 2008年6月25日 (水)
「言うだけではダメ、自分がまずやらないと動かない。」今の私はそこまで行ってるとは思わない。他力に頼りすぎているというなら、そうかもしれないが。ただ、新しい「人」が昔ほどいないように見えるというのはあるかもしれない。そのようなことはニュースの空気として伝わっている。
JRF 2008年6月25日 (水)
えーっと、具体的にはアバウトミースタッフの書き込みが…。
JRF 2008年6月25日 (水)
ややっ。これは禁句でしたか?(^^)。ココっていくつかそういうのありそうだよね。
JRF 2008年6月25日 (水)
あぁ、これも前なら書かなかったことだな。私の生活が変わったということは、(記録のようなものを除けば、)ないんですが…。
JRF 2008年6月25日 (水)
そういえば、冬や春に比べると睡眠が不安定になっているということはあるな。それがボディブローになってるのかな?
JRF 2008年6月25日 (水)
「教科書」を作るなら「教科書ガイド」を作ることを前提にするのが今のスタイルじゃない?大学とかでは明らかに違うけど、それ未満への「教科書」はそういうものなんじゃないか。…とか私は構えてしまうけど、それも生徒人口が過多の時代のオーバーアチーブだったのかな?
JRF 2008年6月25日 (水)
「偽装」のおもちゃを掴まされてしまった。贈り物用なのにみっともないことになってしまった。でも、まぁ、高い音のもののほうが近所迷惑にならなくていいから、これで良かった、と泣いとこう。
JRF 2008年6月25日 (水)
「オーバーアチーブ」分については、人口構造により需要を見ると商売にならないが、供給構造を見ると「オーバーアチーブ」も不可能ではない。「検定」する側が70,80年代のようなオーバーアチーブすることを前提として、ここに補助金を出すというのはアリかもしれない。
JRF 2008年6月25日 (水)
その支出は通常の意味で回収されないことが前提となるから、その支出分に限り、リフレ策のような金融方法をとることを許すのは合理的かもしれない。ただ、いずれこの「オーバーアチーブ」分は必要なくすのだから、期限を付け、その方向への適応に「オーバーアチーブ」していくことも必要だろう。
JRF 2008年6月25日 (水)
適応にオーバーアチーブするとは、つまり、普通に補助金を出せば、それを継続することに力がかかるようになるのを、それとは逆の方向に作用させる施策と、良い施策がないなら最低限、強い意志が必要になる。
JRF 2008年6月25日 (水)
「強い意志」って何だよ。って話だな。だから「良い施策」を組むまではこういう言い方しちゃいけないのかも。
JRF 2008年6月25日 (水)
6000円弱の50枚組CDを買ってしまった。安物買いの…。 少なくともこの額については分割でなかったことにしていこう。毎月1000円分はかならず何かをがまんすることを半年は続けよう。
JRF 2008年6月25日 (水)
それで50枚のうちで良い演奏に出会えたら、関連のものを通常の枠内で買っていこう。しかし、50枚かぁ、関連のものまで購入するのにいたるのに何年かかるだろう。
JRF 2008年6月25日 (水)
この得をした買い物への「罪責感」みたいなものはなんなのだろう。仮説をたててみる。つまり、(1) 文化的消費財というのは本来は、特殊なコミットをする人員にのみ限られるもので、そのような財を手に入れるというのは、それにふさわしい鑑賞を行う責任を負うのである。
JRF 2008年6月25日 (水)
(2) その「財」責について本来は「結社」への貢献をなさなければならないのだが、一定の金銭を支払うことでその責を一部免除され、CD を何度もかけて理解しようとしたり、それを財産として残すことで十分な貢献をしたことになる。
JRF 2008年6月25日 (水)
この金銭の額があまりにも低いため、本来必要な貢献の額に比べて十分支払ってないと私には感じられている。ただ、この額で十分な人もいるかもしれないという感情もあって、(3) 「結社」の救世主となるかもしれない若い人や「結社」の格を上げる「権力者」の消費に関しては、責が軽減される。
JRF 2008年6月25日 (水)
果たされない「財責」は、…どうなるかなぁ…よどむ、というイメージだな。で、それはもう私のような人の消費活動では挽回する機会はなく、ただ、次の世代の「救世主」が生まれることによってのみ彼が新しい風を作ることで吹き払える、といった感じかなぁ。
JRF 2008年6月25日 (水)
この辺、抽象的すぎるけど。まるで魂の罪価計算。って、発想法はまさにそういうところなんだけど。
JRF 2008年6月25日 (水)
あと、じゃあ、なんで、私は分割払いにすると「財責」が軽くなるようなことを考えたか、というと、知財を得るものは経済学的人物よりは分割払いが好む傾向にあるから…というのは少し違うカンジだ…、関心の持続を態度で表明することが好まれるから、かな。
JRF 2008年6月25日 (水)
で、逆に、枠を増やさないほうがいいと考えたか、というと、単純に自分の支払余力からというのもあるんだけど、インフレっぽくなって果たされない「財責」が増えることになるから、ってところかな。具体的には多くなりすぎて捨てられる知的財産が逆に増えるってところか。
JRF 2008年6月25日 (水)
この辺、後から考えなおすこともできるよう「ファイル」に取っておいてほうが良さそうだな。[備忘]
JRF 2008年6月25日 (水)
「オーバーアチーブ」は本来若い人に望むべきなんだろうな…。それを見て「我々」は「我々」のガイドをするのみ、と。
JRF 2008年6月25日 (水)
将来、手垢のついているCDのほうが評価額が高くなったりするんだろうか。
JRF 2008年6月25日 (水)
まさかね。でも、同族的価値というものがあるとすれば、それは上がるかな。
JRF 2008年6月25日 (水)
以前、わざと劣化しやすいディスクを使って著作権保護、という試みがあったけど、意外に、レーベル面に指紋のあとが一度つくとそこに跡がついてむしろ消えない、とかいうディスクを出したら売れたりして。指紋が層のように残っていって、つけた年月がわかるとかいったらサイコー、とか。
JRF 2008年6月25日 (水)
こういうのは考えている人は考えているから、不可能か、少なくとも低コストでは不可能ということだろう。
JRF 2008年6月25日 (水)
って他の人は簡単に棄却しちゃダメだよ。私はもう考えないってだけで。
JRF 2008年6月25日 (水)
うう、すごい蒸し暑い。
JRF 2008年6月25日 (水)
少し頭を冷やそう。その方向には今は行かない。
JRF 2008年6月24日 (火)
最近、自分でも意識できないところで「イライラ」していたようだ。普通に怒るようなところ、怒ってもいいところで怒っていたつもりだった。人に向けたものでもないし、単に今の感情を一人ごちたのが怒りだったというだけだ。…が、少し前を思い出してみると、そういう感情を表に出すことはなかった。
JRF 2008年6月24日 (火)
「永遠の愛」ではなく「変わらない愛」と言った場合。私の考えからすると、変わらないのは「相手」という属性、または、愛しようとした自分の決意のようなものということになるだろう。ただ、人間の力だけで後者を負いつづけるのは辛いのではないか。…と「神」の必要性を示唆することになるのかな?
JRF 2008年6月23日 (月)
どうも「胃」なのかなぁ。いつものところが痛い。今度病院に行ったら検査してもらうように言ったほうがいいのかなぁ。
JRF 2008年6月23日 (月)
花粉症に関しては薬が切れた時期に梅雨に突入して、しばらくはぐずぐずいってたんだけど、今はもうほぼ抜けた。
JRF 2008年6月23日 (月)
街を歩くといっても百貨店に一人で行くことはないし…その辺りは母親の話を聞くぐらい。「デパ地下ってなんであんなに人がいるの」って毎回聞いいてる。
JRF 2008年6月23日 (月)
少しサボリグセみたいなのが憑いてるな。暑かったり、体調が良くなかったり、というのもあったんだけど。ジャンルとしては知っていても、あまり読まない種類の本がキューのトップに来ていて、なかなか読み進めないんだよな。あと回しにするか、気合いを入れるか。
JRF 2008年6月22日 (日)
基本はユーザーに還元するのが正しいよ。でも、そういう風にしないのがお約束な面がある。で、そういうときに圧力をかけるようなポジションに立つ人も必要なんだ。ってネ。それを、どう飼うかってのも、これからを担う人には頭のかたすみに…。
JRF 2008年6月22日 (日)
いやいや、私もまだ諦めてませんよ。
JRF 2008年6月22日 (日)
少し卑しい姿を造形しすぎかな。でも、これも私の地(ジ)の一つではあるんだよ。
JRF 2008年6月22日 (日)
どうもこの書式だと、そういう面を出して対処してしまう。
JRF 2008年6月22日 (日)
そうは書いても、「気合いを入れる」方向のつもりだったんですが…。ホント、ダメだなぁ。
JRF 2008年6月22日 (日)
普通に大人している家族には、よくある大人の悩みがありそうだけど、私には触れられないところだ。
JRF 2008年6月22日 (日)
甲斐性なしこの上なし。で、まぁ私に関しては間違いない。
JRF 2008年6月22日 (日)
何気なく書いているのに、読み返すと怖いことになってるってことあるよね。…あるって言って!
JRF 2008年6月21日 (土)
って単に私がホラー風味が好きってだけなんですが。
JRF 2008年6月21日 (土)
あぁ、いや、正直に書こう。つまり精神病に関する問題をボカして書こうとすると、私はどうしてもホラー風味の手法を使わざるを得ないということなんだと思う。補足すると、逆に医術的に書けるかを考えると、知識不足だし、責任を持てない、だから、ホラー風味の手法に頼ることになる、ということ。
JRF 2008年6月21日 (土)
この辺、共有する宗教とかを援用できればラクなんだろうけど。
JRF 2008年6月21日 (土)
そこはビミョーにしたい我儘な私。
JRF 2008年6月21日 (土)
ランク王国のランクとAmazonのランクって全々印象が違う。もちろん、そういうものだってのはわかっているのだけど、ネットで普通に「生活」というのはアレだが、「生活」していると見えてないものに驚きすらある。
JRF 2008年6月21日 (土)
その辺、他のセカイも見えるようになるべきなのか…はわからないけど、何か知る方法があるんだろうか?ブログキーワードとかっておそらくそういう目的だったんだろうけど、私にはどうも使えないという印象しかないし。
JRF 2008年6月21日 (土)
昔も似たような思いがあっただろう。…街の歩き方の問題なのかなぁ?
JRF 2008年6月21日 (土)
キーワードに関して広告がうてるなら、適当なキーワードについての関連の話題(文章広告?)も表示できるだろうに。そういうところで「文化人」を雇ったりしないのだろうか。(そろそろIT産業も政治の季節に入っていってるんだろうし…。)
JRF 2008年6月21日 (土)
フィルタリングに関して補助金の話が出てるんでしょ?
JRF 2008年6月21日 (土)
まぁ、努力してるところは努力してるんでしょうが…。ってどんな「努力」だ。はぁ、そういうのがわからないトシのとりかたをしているからなぁ、私は。
JRF 2008年6月21日 (土)
永遠の愛というもののために祈ることがあるかもしれない。でも、結婚を過ぎてゆく性愛というものは、子供が生まれたり(生まれなかったり)、身内の不幸があったり、知らなかったことを知ってしまったり、マンネリになったり、浮気などもあったりして、それでも愛というものを「築いて」いく。
JRF 2008年6月20日 (金)
そうやってある愛というものは、誓ったときに想像したような「永遠の愛」の姿からは変質したもので、それでもやっぱり「愛」としか言えないようなものがそこにある。
JRF 2008年6月20日 (金)
じゃあ、何に愛を感じているかと自問していると、性行為という「基礎」がある…とも言えないこともあり、子供を通して愛を発揮している…とも言えないこともあり、人によって、それぞれに愛のカタチを見ているのだと思う。
JRF 2008年6月20日 (金)
この辺り夫婦愛については、実感はほとんど想像でしかないのだが…。
JRF 2008年6月20日 (金)
エリザベス・サンダース・ホームについての話をあるブログで読んだとき、「捨てられた」子供を育てるのに、「敵を愛する」という言葉を使っていた。
JRF 2008年6月20日 (金)
「いや、それはおかしいだろう。」最初そう思った。
JRF 2008年6月20日 (金)
でも、愛というものが「築いて」いくものであり、こう離れそうな予感があるときに、あえて性愛を求めて確かめようとする、それはいやらしいかもしれないが、そういう機能を「基礎」として人は与えられている。
JRF 2008年6月20日 (金)
いやらしいかもしれないが、「愛敵の教え」というものをそこで見ている顔に思い浮かべたとき、あえて愛を心に再び燃やす。それも愛の方法として間違ってはいなかったのではないか。
JRF 2008年6月20日 (金)
愛の実践とはときにそのようなものではないか。
JRF 2008年6月20日 (金)
ツンデレではないが、というかツンデレではない。私も思いあたることがあるのだが、「好きな人をいじめる」という構図があるが、それとは別に、思春期になったときに本気で生理的嫌悪を表すことがある。大人になって、その魅力に気付けたとしても、そのとき嫌いであることは本当だということがある。
JRF 2008年6月20日 (金)
そこで知るべきなのが愛敵の教えなのかもしれない。なんというか、つまり、大人になって、その嫌悪感をごまかすことができるようになる前に、自覚して愛の属性をもった行動をなすということが、必要なのではないか。…何のために?より純粋な精神を保つために!って…
JRF 2008年6月20日 (金)
私はフォーレのレクイエムはコルボ盤ではなくクリュイタンス盤が好きなのですよ。そして最近のお気に入りはトスカニーニ盤のヴェルディのテ・デウム。コルボ盤が好きな人は、プーランクのスターバト・マーテルとかどう聴くんだろうか。
JRF 2008年6月20日 (金)
私は、コルボ盤とクリュイタンス盤では、建物の教会の外と内の違いのようなものを感じる。外から見ると清く、確かに清い祈りをささげることはできる。でも、建物の教会の内にはいろいろな人があり、人生がある。
JRF 2008年6月20日 (金)
選ばれた人がどうこうというかもしれない。選ばれていない人のように見える人もいるかもしれないが、でも、いっしょに祈りを捧げている。いや、みんな救われるでほんとうはいいのですよ。いや、それは自分がいうことではない。いろいろあったけど、そのすべてをかけて祈るんだ。……
JRF 2008年6月20日 (金)
そういう姿勢に今の私は感じるものがある。そしてこれからもそうでありたい。
JRF 2008年6月20日 (金)
妻が再婚をしたとき、天国での夫婦生活はどうなるかという神学的話題がある。それに人は天使のようになるのだからと答えるのには違和感がある。
JRF 2008年6月20日 (金)
むしろ、重婚状態を想起しても、愛敵のようなものがあるから大丈夫なのだ、そこに「永遠の愛」、そんなものが、と今思うかもしれないが「愛」があるのだ。ともう一段階踏み込んだところで説明を試みたほうが、私にはしっくりくる。
JRF 2008年6月20日 (金)
以前、日本人ならわかってくれるだろうという文脈において「人の価値は違う。先進国の住人と途上国の住人とでは命の重みが違うのだ。」ということをある外国人が語っているインタビューを観たことがある。
JRF 2008年6月20日 (金)
そのとき私は「それは違う。人の命の重みに違いはない。」そうテレビに向かって叫んでも良かった。そうすべきだったと今は思う。
JRF 2008年6月20日 (金)
それは欺瞞だ。
JRF 2008年6月20日 (金)
でも、たとえ外から見て確かにそうなっているとしても、そういう現実があったとしても、その現実に気付きながら日々漫然と生きていたとしても、この大切なことについて「そうでない」と感じる思いがあるなら、そう言うべきだった。
JRF 2008年6月20日 (金)
だから、今、遅くなったけれど、ここに書いても意味はないけど、書いた。
JRF 2008年6月20日 (金)
「命の重みに違いがある」ということを平気で言っていないとは言わない。それはさっき「ツンデレではない」と言ったのと重みは違うが同じことだ。でも、そこには人の深い悲しみがある。その人のものでは今、ないかもしれないが、悲しみがある。
JRF 2008年6月20日 (金)
平等とは何だろう、と思う。
JRF 2008年6月20日 (金)
その悲しみを前にして、平等とは本当にありえるのだろうかと思う。敵に直面する国と、穏やかな国、その軍、軍人ではない市民達、そこに平等というのもがあるか。
JRF 2008年6月20日 (金)
私にとっては答えは決まっている。
JRF 2008年6月20日 (金)
平等とは「割り切り」である。
JRF 2008年6月20日 (金)
これも悲しい答えの一例なのかもしれない。でも、愛敵があるなら、ありえるなら、それでも救いはあるのではないか。
JRF 2008年6月20日 (金)
救いに前提を求めるなら、私は「表現の自由」と述べよう。それは現代の立派な「表現の自由」ではない。敵味方となった者が集って、あえて抑圧の中、最後に未来のために「何か」を表現する。「それだけ」の自由、現代ではむしろ難しくなった自由である。
JRF 2008年6月20日 (金)
そこには「愛敵」となってしまったものが許されてなければならないだろう。
JRF 2008年6月20日 (金)
私はね。実は最近、「差別」という言葉を使って何かを求める者が嫌いなんだ。だから、あえて言ってしまおう。
JRF 2008年6月20日 (金)
愛があり、愛敵があり、さっきのような「表現の自由」があれば、結局のところ「差別の解消」というのは効率性の問題でしかない。
JRF 2008年6月20日 (金)
効率性を追求していけば、差別というものはしだいになくなっていくはずなんですよ。人というのは元来平等なんだから、差別なんてなくしたほうが効率的だ、例えば統計的に、そうでないように見えたとしても、それは平等の割り切り方が間違っているだけなんだ。
JRF 2008年6月20日 (金)
効率性というものを重視している社会でなくなっていないものがあるとすれば、それは必要だったものなのですよ。何かの「たたり」のような強烈な意志かもしれませんし、悲しみに適応した結果かもしれませんし、そういう物は残っていっていいのですよ。愛敵で社会がつながれるならね。
JRF 2008年6月20日 (金)
いやいや、つながれるんですよ。私に関してはそう信じます。
JRF 2008年6月20日 (金)
昨日のは、ある事実についての反発が無意識に作用したものだったのかもしれない。それこそ「平常心」ではあり得なく、狂気に近いものだった。
JRF 2008年6月20日 (金)
愛には嫉妬を考えるべきだし、愛憎がともだってあるものという認識も間違っていないのだから、それだけで何かが解決するといったようにとれることを書くのは、考えが足りなかった。人類補完計画じゃないんだから。
JRF 2008年6月20日 (金)
やはり愛敵がわからない。「敵を敵として愛する、のは、優越感にむりに浸ろうとする倒錯だろうか、殺し合いを競争とむりやり誤認し矮少化しているだけなのだろうか、そういう状況になったという運命を受け容れる自分を愛するナルシシズムなのだろうか。 」という考えに私は戻るべきだろう。
JRF 2008年6月20日 (金)
「自己愛が足りないというのは違うなぁ。むしろ過剰なほどだ。そうやって自分を支えている面がある。ただ、隣人愛どころか他の人への愛(性愛)を知らないがゆえに、自己愛もまた成熟してないということはあるかもしれない。」だからわからないのはある意味当然なのだと考えよう。
JRF 2008年6月20日 (金)
しかし、過去の「ひとこと」検索ができないのは、やはり不便だな。Google で検索しやすいように、ページ構成とか変えてページの取得をしやすくすればいいのに。まぁ、そういったことは他のサービスと組み合わせてってスタンスなのだろうけど。
JRF 2008年6月20日 (金)
「シンクロニシティ」を自分への反応と思う不毛さが、私から薄れていってくれるなら、うれしい。でも、まだまだ、そういったことを探してしまうことが続くのだろう。
JRF 2008年6月20日 (金)
「萌え」というのは愛敵の精神なんじゃなかろうか。もちろん、二次元美少女が敵なのではない。「そんなもの」に性的錯乱すら感じる「自ら」こそが敵なのである。それと折り合おうとしてそれを殺すのではなく、宥めたりスカしたりする。
JRF 2008年6月19日 (木)
あ、いや、先のは冗談のつもりだったんだけど、ちょっと本気にもしてしまえそうな感じもする。
JRF 2008年6月19日 (木)
王質相続とでも呼ぼうか。ある程度の公共性(といっても親族的公共性で十分だが)をもった財産について、配偶者に対する相続よりも有利な相続を認めるべきでは?親または親族の総意を条件とし、公的一時接収もありえるかわりに。王の財産が相続するようなことを一般に認めるべきではないか。
JRF 2008年6月19日 (木)
これは同性婚というものを認めようという議論を聴いていても思ったことだが。同性婚における問題の一つに相続がある。その配偶者相続が課税逃れに近いのではというのももちろんあるが、問題はそれと絡んだ「養子」相続にある。
JRF 2008年6月19日 (木)
つまり、同性婚で子供をもつといったとき、それは「養子」という形態をひろく認めることになるわけだが、でも、問題は、相続のことを考えると「養子」として登録するよりも、成長するまで待って「配偶者」として相続させたほうが有利ということになる。
JRF 2008年6月19日 (木)
いや、もちろん、税逃れという側面があるのだが、それがモラルに与える影響である。同性愛というもの自体がモラルに反するという見方ももちろんあるが、同性婚を認めようとなったときは、その愛を重視するということになると思う。
JRF 2008年6月19日 (木)
でも、それを認めて、今の税制のまま放置すると、自分の配偶者を育てるというおかしな方向に圧力をかけてしまわないかと心配なのである。
JRF 2008年6月19日 (木)
だから、逆説的に、配偶者でなくても配偶者以上に有利になる相続を認めてしまったほうが、同性婚を認める社会へ変な圧力をかけずにすむかなぁ、と思ったシダイ。
JRF 2008年6月19日 (木)
(まぁ、「この国」の未来を考えると、ある種の一夫多妻を肯定する論理も必要ではという判断も少し入っているかもしれない。)
JRF 2008年6月19日 (木)
ああ、でも「愛」は自然なものにしたい、という一種の信仰みたいなものが私にもあるのだなぁ。
JRF 2008年6月19日 (木)
いや、ロマンチストであることを否定できないのですよ、私は。テレッ
JRF 2008年6月19日 (木)
クーラーを着けてしまった。
JRF 2008年6月19日 (木)
自信とかプライドという言葉を使うのに違和感がある。じゃあ、それはどういうか、というと、私は外から見るときは、「平常心」と言えばいいのではないか、と思う。
JRF 2008年6月19日 (木)
いや、本人の中で、メンタルなモデルを自信とかプライドで捉えている、そういうコトバを使って説明するというのはいいのですよ。でも、それを見て驚嘆するワレワレは兵常心、じゃなかった平常心しか辛うじて見出せない、という態度を取るべきではないか。
JRF 2008年6月19日 (木)
何か突出した心象によって構成される部分というものを人は決して共有しえないんだ。共有できると思ってしまっては、なんというか、「失礼」ですらあるというか、失礼なのは自分の出自に対してというか、そういう感覚。
JRF 2008年6月19日 (木)
もちろん、こういう感覚が、「それわかります」とは言えない人もいる、と、それが自然である。自然であることがイイとかワルイとかいろいろあるが、自然である。と。
JRF 2008年6月19日 (木)
水着問題なんてのがあったが、やはり、あれは「これでは戦えない」という実感が向けられたのだという認識はあっていいのではないか。
JRF 2008年6月19日 (木)
私は争う者というのは働かないことそのものを攻めたりはしないのではないかと思うのですよ。旧約聖書サムエル記上30章でダビデがとどまっていた兵士にも同じ報奨を与えた、それを良いことだと思うような感覚は、ワレワレにもあるでしょう、と。もちろん、それに甘えてしまってはいけないが…。
JRF 2008年6月19日 (木)
いろいろ言えばいろいろ言えるのだろうけど、「自分の気持ちを共有してくれていたか」が問題なのだろう。「気持ち」というのは考えや、ただの感情じゃなくて…、同じことをするわけではない、同じ覚悟であるはずもない、けど…いや、「魂の共有」とか冗談めかしていっちゃうとアレだけど。
JRF 2008年6月19日 (木)
でも、それを外から見た場合、そこに、その関係に「平常心」があったか、という捉え方でいいのではないか。などと思う。
JRF 2008年6月19日 (木)
ちなみに、サムエル記下ではダビデの嫁ミカル、血のつながってない前王サウルの娘が、子を設けずに死ぬわけだが…、王の相続というのはいろいろな形が世界中にあるわけだから、いろいろ参考にできることはあるのだろう。でも、キリがないとも言えるわけで…。
JRF 2008年6月19日 (木)
参考文献。思っていたところに記載なし。左手に本の重みがのしかかる。
JRF 2008年6月19日 (木)
「実力」を小さく見せる必要はないし、そうすべきではないのだろうけど…。顧みて、私なんかは「実力」を日々見せてるとは思う。その上で「たいしたことないでしょ」とおそらく真実を述べる「慎しみ」は、まぁ、あってもいいでしょう?
JRF 2008年6月18日 (水)
幻想を構築するのは、それがなりたい自分だというなら、あまり良くはないけど、ありなのかな、という気はする。ただ、相手にない罪を着せてまで、相手を悪い幻想でつつむというのは、意図的にやれば百代、百万代たたられてもしかたがないことだとは思う。
JRF 2008年6月18日 (水)
それを私は個人のレベルではやってしまったことがあったような…。
JRF 2008年6月18日 (水)
エッチなことを想像するのも姦淫だという説があるけど、誰かが姦淫していると想像させる(噂話をひろめる)ほうがより重い「姦淫」だろう、それこそが罪だと考えるなら、悪い幻想でつつむのは「姦淫」のような文脈で捉えるべきではないか。…などと考える。
JRF 2008年6月18日 (水)
「たたる」というのは行き過ぎた表現だった。たたりがあっても人は折り合って生きていく。百代なら折り合う方法が儀礼的どころか機械的になっているかもしれません。百万代なら、それは「たたり」と「折り合い」が摂理とすらなっている…と。
JRF 2008年6月18日 (水)
それでも永遠でないのは摂理が自然にできたものと区別がつかなくなるから…。という執り成しで折り合えたらなぁ…。
JRF 2008年6月18日 (水)
うーん、しかし、未来の人はここ前後30年ほどの日本の人口動態のグラフを見て何を思うのだろうか。現れるべき山が現れる気配すらない…って、どんな「暴力」があったのか、と。まぁ、いいんだけどね。あと我々の世代以降の者は10才以上年下の異性と結婚したら即犯罪でいいんじゃないか、とか思…
JRF 2008年6月18日 (水)
冗談ですけどね。
JRF 2008年6月18日 (水)
人口動態に関しては、世界的に見ても時代を先取りしていたという評価になっちゃうかもしれないからな。
JRF 2008年6月18日 (水)
悲しいけど。
JRF 2008年6月18日 (水)
ああ、あと「捏造写真」についてはそれが「イメージ映像です」と記せば、あとは文学的問題ではないか、と思う。映像証言的なものを適切に扱っていれば、あとは、百年、二百年といったあとになるかもしれないけど、文学が解決していくことではないか、と。文学は意外な境界の越え方をする。
JRF 2008年6月18日 (水)
「こうでしょう」というのと「それは違うのですよ」というのが、別々の話ともなって非同期的に交錯する。
JRF 2008年6月18日 (水)
でも、これはそうあって欲しいという私の願望でしかないな。
JRF 2008年6月18日 (水)
というか、何年か前なら自分がそれにコミットしなければと身構えた…。
JRF 2008年6月18日 (水)
本音として教えられたことを本音と受けとったらダメでしょう。そうであるようには振るまわないとその場に居られないかもしれないけど。もちろん、教え方が自分で悟るようにしたとしても、それを教えようとしている限りは同じことでしょう。
JRF 2008年6月18日 (水)
…と疎外された私がいう。
JRF 2008年6月18日 (水)
ブラームスのドイツ・レクイエム、第1曲の mit Freuden のところ、まるで白壁に花が淡く咲いていくようだ。宇野功芳氏のオススメのバレンボイム盤が 1050 円なので買ったが、私にとってアタリのようだ。
JRF 2008年6月17日 (火)
以前聴いた他のCDは、良いと思うところなどほとんどなくて、どこがブラームスなんだろうとも思ったんだけど、これは淡い中でもごっとブラームス的(と私に思える)主張が現れる。
JRF 2008年6月17日 (火)
いや、違うな。「現れる」というのは部分的な印象を与えすぎるかもしれない。全体の構成の中から「ああ、そうなのか」といった回想が起こるというか…。
JRF 2008年6月17日 (火)
まぁ、キホン私はわかってないのだけどネ。
JRF 2008年6月17日 (火)
それでも力に頼ってはいけない。私は、中国共産党が「勝利」したのは、日本以外にも「理想」を担える者がある。そういうふうに「権力者」に見せれたからではないか、などとも思っているのです。自分に「力がある」と「相手」に見せる必要があると思うのは、今も思い上がりではないかと思うのですよ。
JRF 2008年6月17日 (火)
私なんかでは「思う」だけなんですけどネ。
JRF 2008年6月17日 (火)
あまり関係ないタグでブクマするのは気がひけるが、タグの数を増やさないために私の関心が近いものをとりあえず付けているという面がある。が、やはり無理があるので、ここでつぶやいてストレス解消。
JRF 2008年6月16日 (月)
ああ、ホント、わかってないヤツだな >> オレ。えーん、だからってもうどうしようもないじゃないかあ。また、見当違いなことを書いてたことに気づいたのですよ。
JRF 2008年6月16日 (月)
少しずつ改善しようとはする。力不足がほとんどどうにもならないことは、悟ってるケド。
JRF 2008年6月16日 (月)
私の使っている象徴に近いものを見せている方がいるのを知った。いわゆる偶然の一致なのだろう。メッセージはおそらく私とは何の関係もないとは思う。でも、ここは奇縁を喜んでCDを買ってみるか…。
JRF 2008年6月15日 (日)
そういうことして自分の精神がまたおかしくならないか、ちょっと心配だけど、最近は耐性ができたのか、わりと平気だから…。むしろ怖いものみたさ(っていったら相手があるから失礼になっちゃうかな?)がある。
JRF 2008年6月15日 (日)
昼食べすぎたのが今たたっているのかな?久々にいつもの右の腹の痛みがある。
JRF 2008年6月14日 (土)
最近、ものを読むとき、相手の思考をつきはなして自分の思考を組み立てるのが難しいと感じられることがある。むかしだったら「それは違う。こう考えれば良い。」みたいにスルーするところで、相手の意見をそのまま自分の意見にしてしまいそうな自分を感じることがある。
JRF 2008年6月13日 (金)
表面上は、これまでのような突き離した思考もできるんだけど、潜在的な影響を抑えるための独自の思考のタメが消えているというか…。
JRF 2008年6月13日 (金)
昔自分が書いた文章をなかなか理解できない…。
JRF 2008年6月13日 (金)
ああ、まるで予想していたかのようなことを書いたけど、今回のは最近変化があった「不安」からというのではないな。あまり正しい表現ではなかった。
JRF 2008年6月12日 (木)
神風を自分の祈りのおかげとしたり、災害を予言していたといって、自分を大きく見せ、むしろ迷信で社会をより不安にさせるような効果を持たせるようなことに近かった。
JRF 2008年6月12日 (木)
まぁ、でも、この場で述べている限りは、たいしたことじゃないだろうけど。
JRF 2008年6月12日 (木)
熱がこもるという部分の理由付けもあまり正しくない。湿気が多くて云々と書けばまだマシかもしれない。
JRF 2008年6月12日 (木)
今日は、涼しく過ごしやすかった。
JRF 2008年6月12日 (木)
マスコミの取材にある種の資格が常に必要とされる日が来てしまうのではないか。どうも、それを許してしまう構造ができているように思う。下で感じたのは、そこまでマスコミを追い込んでも、より良い社会というのを展望してしまう自分を感じたということ。ワナはあるだろうが、そうなるだろう、と。
JRF 2008年6月11日 (水)
カメラも(モザイク等をわずかなディレイで入れるなりして)流しっぱなしの手持ちテレビカメラ一本と定点ロボットカメラのみが許されるとか、…そういうこと。新聞記事で使う写真もそこから選んで(モザイクをはずすなどして)使うとか。
JRF 2008年6月11日 (水)
気持ちを公けに吐露する必要があれば、誰かがデバってなくても、ネット等を使って勝手にやるでしょう、と。勝手にやる方法を教えるなり、機材をレンタルすれば済むでしょう、と。
JRF 2008年6月11日 (水)
いや、そうでもないか。識字率が上がったときに、みなが手紙を書けるからそれで良くなったでしょう、と考えるようなものか。
JRF 2008年6月11日 (水)
…今、こういったような話題に繋げるのは不謹慎だったかな。なんかマスコミが次の事件が起こるよう煽っているように(私が思い込みで)見てしまったところに、先のブログの書き込みを見たものだから。
JRF 2008年6月11日 (水)
端的にいうと、気が立ってしまったんです。思うだけ書いて気を落ち着けていたのですよ。
JRF 2008年6月11日 (水)
…さて、(「誰か」の思い通り(かもしれないように)つぶやき系のサービスで自分を追い込んでみたわけだが…。
JRF 2008年6月11日 (水)
やはり、自分は組織に属していないので、そこのところの抑圧感が足りないように思う。私では、今回の件に関しては共感に達し得ない。
JRF 2008年6月11日 (水)
人の名前に関し、自動でモザイクが入るようなシステムとかができれば、報道の価値ある情報がもっと得やすくなるのではないか?
JRF 2008年6月11日 (水)
サーバーにモザイクのないデータがあると混乱のもとだから、むしろ、ローカルでそういった部分を暗号化して、本人の端末が押収できたときのみ、情報がわかるようになる、とか。
JRF 2008年6月11日 (水)
そういうシステムはちょっと難しいかな。
JRF 2008年6月11日 (水)
いや、違うなぁ。特定の誰かを攻めてホッとするなら、ある意味、問題はなかったわけだから。
JRF 2008年6月11日 (水)
リアルタイム性がありすぎるというのも、違うか。ディレイを挟んだからってどうにかなるわけでもないか。
JRF 2008年6月11日 (水)
あしあとがないことがあることが、孤独感を強めるというのも少し違う気がする。
JRF 2008年6月11日 (水)
少しグロテスクかもしれないが、孤独度というのを数値化して、孤独な人が一定数いることがわかるようにする。…いや、難しいし、そこを見るとも限らないだろう。今回は周りに、相対化できるサンプルができたことが大きかったようだし。
JRF 2008年6月11日 (水)
社会が不安をかかえるというのはある程度予想ができても、対応できないしなぁ。私も、何もやってないといえば嘘になるが、それが、正に作用したか、負に作用したか、まったく意味がなかったかわからないし。
JRF 2008年6月11日 (水)
でも、何かやったと思えることは、ありがたいことだよ。自己満足にすぎなくとも、私一人は少なくともありがたいと感じてるから。
JRF 2008年6月11日 (水)
「虚業」だなんてことはありえない!変に「実業」にしようとして失敗しないで。
JRF 2008年6月11日 (水)
今日はここで区切り。
JRF 2008年6月11日 (水)
昨日「終焉」と書いたが、煽りが過ぎた。せいぜい「規制強化の必要性」よくても「新たな報道形態の可能性」を私が感じたという程度だ。ネットが登場してマスコミが変わるという話題自体は、前から言われてる、イラク戦争でもいろいろ言われたし。
JRF 2008年6月11日 (水)
システムについては、実装するとしたら、名前の代わりにアイコンを使えるようにして、アイコンと名前の表を別につくっておくって感じかな。でも、それはちょっと面倒。普通にアダナを使ったりしたほうが良い。
JRF 2008年6月11日 (水)
それ以外の部分の「考察」は、今一つ意味がなかった。
JRF 2008年6月11日 (水)
暑い。でも、汗がどんどん出るわけでもなく、熱が体の中にこもる感じだ。
JRF 2008年6月11日 (水)
私のような者でも規制反対派になるご時勢か。上限付匿名振込、知的財産の少額寄付の優遇、DRMへの課税、消費税の還付。いちおう核となるアイデアは出して、それを周りに適用すれば必要な規制も自らでてくると思うんだけどな。
JRF 2008年6月10日 (火)
ああ、DRMへの課税は記事では書いてないか。消費税の還付も fj での議論はググっても見つからないようになったし。
JRF 2008年6月10日 (火)
まあ、デフレな世の中を想定して書いたってのもあるし、時間切れっていう側面もあるかな。
JRF 2008年6月10日 (火)
自分の考えが広まる要素はない。力がないとかそういうことじゃなくて、共感者が出てこなかったことを見ると良いアイデアでもなかったということだろうし。
JRF 2008年6月10日 (火)
いや、でも、このことについてはまだ努力のしようがあるかな。主張を繰り返して、研ぎ澄ましていくことができる。無駄な努力となったとしても。
JRF 2008年6月10日 (火)
…とりあえず、今年中は別のことに専念しようとするけど。
JRF 2008年6月10日 (火)
なんだ?"Got gleam"とかいうウィンドウが起動時に出てきたぞ。何にもいれてないのになぁ。最近変わったといえば Flush Player プラグインだけど…。
JRF 2008年6月10日 (火)
桃井はるこ氏のブログを読んで、マスコミの時代の終焉を感じた。…まぁ、それは思い込みが強すぎかな。 監視カメラのほうが感情のある時代が来るのかな…と思った。
JRF 2008年6月10日 (火)
いや、「ああいう生き方ならば、なぜ社会は共存できないのか」という思いはある。あれが受け容れるようになるということと、それを何とかして支えるという道があって、私は前者に向かっているということか?…いや、そんな努力はしていない。
JRF 2008年6月 9日 (月)
人のはたらきを「虚業」と呼んではならない。なぜ平気でいられるのか。彼らの周りには「誰も」いないのではないか。
JRF 2008年6月 9日 (月)
スゴいと思っている人が共感するといった記事にまったく感じるものがなかった。私の感覚がおかしいのだろうな。
JRF 2008年6月 9日 (月)
ラヴェルやドビュッシーが、あまり良いと感じないんだよな。フォーレはかなり好きなのに。ああ、ピアノ曲はいいと思いますよ。でも、好きかといわれると違う…。
JRF 2008年6月 8日 (日)
私はまだまだ未熟だということでしょう。伸びしろがあるんですよ! …とか言ってみたり。
JRF 2008年6月 8日 (日)
[アイデア] 自分の書いた文の公開を一時停止にする機能は必要不可欠だと思うんだけど、そういうサービスって少ないよね。
JRF 2008年6月 8日 (日)
人を害しようとする人の気持ちがわからない。…いや、いい人ぶりたいわけではない。私も若いころは仕事人みたいにして恨みをはらしたいと思ったことがないわけでもない。だから、そういう気持ちも自分の中にはあったはずなのに…。なぜ今そこに共感をしてそれを宥められる自分を構成できないのか…?
JRF 2008年6月 8日 (日)
強く反発する。それも一つのあり方だ。私なんかは、「そこに自分と同じものを見出しているから反発するんだ。」的なことを考えてしまう。そう考えてしまうのが、今の自分の問題なのだろうか。
JRF 2008年6月 8日 (日)
どうあればいいんだろう。…いやいや、それを問題としたところで、何が解決できるというのか。
JRF 2008年6月 8日 (日)
解決できそうな問題をまず解く、それはできるじゃないか。少しずつ…少しずつ…。
JRF 2008年6月 8日 (日)
それが大した意味をもたないのは、影響を気にしなくていいということだし、そういうことができる贅沢を私は過ごしていたということだから、いいこと…なんですよ。
JRF 2008年6月 8日 (日)
とりあえずラクに読めそうな本を読んでいく。たまったアニメも見ないとね。
JRF 2008年6月 8日 (日)
それは自己を肯定したいということですよね。…別にいいのですが。
JRF 2008年6月 8日 (日)
ダメだという根を思い出しておきなさい >> オレ。
JRF 2008年6月 8日 (日)
祖母のことを思いだす…。私はああ生きるのか。って、そんなことを考えるのか >> オレは。それに、そういう生き方はもうムリだろう。
JRF 2008年6月 8日 (日)
自信が備わっているようになることは良いことだとは思う。…私なんかは「神を疑っても良いのか」という議論を思い出すが、「自分」というものに関しては身体性があることから、少し違った結論があるようにも思う。ひょっとすると「神を疑って…」のほうに逆にそれを援用すべきなのかもしれない。
JRF 2008年6月 6日 (金)
神学をちょっとカジったことがあるものからすると、神は疑って良いというところから入る(「彼ら」はそれでも結局は信じるようになるという態度をとる)んだが、ググるとどうもそうでない言説のほうが多そうだ。
JRF 2008年6月 6日 (金)
「それでも結局…」は、まぁ、そういう学問に手を出すのは、そういうのが好きだったり、手を出せるような人は、人生の終局においてはそういうのに頼るようになる…ということなのかもしれない。
JRF 2008年6月 6日 (金)
昨日の「サイボーグ云々」については、少し陰口めいたものになっていたかもしれない。少し大人げなかったかも。削除まではしないけど、少し反省。下の「自らを信じる」に関する部分も意図としては似たものがあるけど、「陰口」っぽくなららないようにしてみた…つもり…。
JRF 2008年6月 6日 (金)
いや、意図は…していないかなぁ…。こう、「昨日のはダメだった」ってのを心の底に置いて、意図としては気になっていることを書いたという感じだ。
JRF 2008年6月 6日 (金)
1500円ほどの本を買うのに躊躇してしまった。それでいて私にとっては知識がひろがるわけではない CD を買ったりするんだけどさ。
JRF 2008年6月 5日 (木)
文庫本もけっこう高いしね。哲学系は。
JRF 2008年6月 5日 (木)
いや、違うな。単行本の価格を考えたら、あれでも十分安いんだろう。ただ、哲学が、金があってひまがある人のものに「戻った」というだけだろう。公立の大学すらそんな感じらしいし。
JRF 2008年6月 5日 (木)
今日も鼻みずグズグズな私だが、電車の中では他の人のグズグズもけっこう聞いた。あれは風邪なの?それとも私みたいに今の時期に花粉症になってる人がけっこういるの?
JRF 2008年6月 5日 (木)
私の口ぐせは「まぁ」。説明とかするとき、気づかないうちに挟んでいる。言い訳のための留保を残しておきたいって心理の現れかな?
JRF 2008年6月 5日 (木)
逆にいうと、「まぁ」がない他者の意見は自分にはストレートすぎるように聞こえているのかもしれない。
JRF 2008年6月 5日 (木)
ヨブ記についての補論というか…。
JRF 2008年6月 5日 (木)
中東もさらに東にいけば、「光」と「闇」の対立といったモチーフもでてくるわけだが、ヨブ記の枠物語りで「サタン」が「神」に従属するのは、「光」と「闇」の対立モデルの明確な否定という意味があるのかもしれない。
JRF 2008年6月 5日 (木)
そういえば、その日の最後の次回への挨拶のようなところに「光」と「陰」に関するコメントがきたが、そういったことを示唆しようとしていたのだろうか…。いや、考えすぎだろうな。←まぁ、こういっても怒られないだろう。
JRF 2008年6月 5日 (木)
あとさらに東にいくと、転生という概念が出てくるわけだが、そういった概念はかなり抑圧されているように思う。あえていうなら、大気の循環のようなところがそれに相当するか。
JRF 2008年6月 5日 (木)
ヨブが最初に生まれた日を呪うが、そこがギリギリのところという思考法が、転生概念は受け容れないことを暗に主張していたのかもしれない。
JRF 2008年6月 5日 (木)
あと妻と誕生日の論が近いのは、性愛に関する何かの主張が隠れているのかもしれない。「愛」については私は基本何もわかってないと言っていいので、その辺りを読める人には、もっと他に強く訴えかける部分があるかもしれない。
JRF 2008年6月 5日 (木)
「神の愛」といったものは私の解釈でも「クライマックス」あたりで出したつもりだけど。
JRF 2008年6月 5日 (木)
あと三人の友人の「出身地」をどこに割り当てるかも興味深い話題だ。ツォファルはメソポタミア流域だろうか。エリファズはエジプト的でもありながら、フェニキア的でもあるということでイスラエルあたり。ビルダドはローマ人と言いたいところだが、ユダあたりに考えればいいのだろうか。
JRF 2008年6月 5日 (木)
…とまぁ、これは私の偏見だな。
JRF 2008年6月 5日 (木)
ああ、とするとイスラエルというのは海岸ユダヤ人。ユダっていうのは内陸ユダヤ人とか言ってしまって良いのだろうか。…私の中では、そういう認識だったってことなんだろうか。
JRF 2008年6月 5日 (木)
この辺はちゃんと勉強し直さないとダメだな。あんまり地理とつなげて考えてこなかったし。
JRF 2008年6月 5日 (木)
動物のサイボーグってどう解釈されるのだろう。魂の実在みたいに、まず在る証拠を出せっていわれるんだろうか?
JRF 2008年6月 5日 (木)
昔、「インターネットは便所の落書き」論があったけど、それをいうなら「テレビは電話BOXのテレクラ広告」だよな。とか考えた。今考えると私の考えはおかしかった。電話BOXは消えたけど、テレビはまだ消えてないもんな。
JRF 2008年6月 5日 (木)
BSデジタルとかいらないとか思ってたけど、NHK が 5 チャンネルあるというのはいいことだな。と思う。親がテレビを買い換えたんですよ!
JRF 2008年6月 5日 (木)
うむ。今日も孤独だ。好きなことが書ける。…と、ちょっと強がり。
JRF 2008年6月 5日 (木)
うちはもう梅雨入りしているのかぁ。変な天気だった。
JRF 2008年6月 5日 (木)
そうしてヨブは言った。「断じて、あなたたちを正しいとはしない。死に至るまで、わたしは潔白を主張する。」
JRF 2008年6月 4日 (水)
ヨブは、これまでのような「キワドイ真理」ではなく、まるで三人が主張し彼が否定したようにさえ見える「あたり前の真理」を代わりに主張する。力・応報・知恵、そして人に求められる倫理である。
JRF 2008年6月 4日 (水)
おそらくそういった「あたり前の真理」というものは素朴すぎる。すべての人は裏切られるといってよい。ただ、裏切られたとしても、総じては、そういった素朴なものを信じられるように生きることも可能なのだろう。それがヨブの病に至るまでの生ではなかったか。
JRF 2008年6月 4日 (水)
だが、義人ヨブですら疑問を胸に抱き続けるしかなかったということは、きっと「この」辺境にも、違う季節が訪れたと見れるのかもしれない。これから先、そこに生きるものは決してヨブのような信念は持てないかもしれない。
JRF 2008年6月 4日 (水)
ヨブが死んで終りというわけにはいかないのだろう。ヨブの主張はここで終るが、物語はもう少し続いていく。
JRF 2008年6月 4日 (水)
…少し先を急いだ。少し戻って、ヨブの主張をいくつか詳しく見よう。今の私が、自分を棚に上げて、ヨブが潔白だ、または主張しても安全だ、と思うところに疑問をさしはさめないわけではない。
JRF 2008年6月 4日 (水)
ヨブは「すべて命あるものの目にそれ(知恵と分別)は隠されている。…その道を知っているのは神。」と述べているが、ならば、神は命を持ったものではないのだろうか?生物とは違っていても命があるのかもしれない。時間的にどう超越しているかもわからない。そこまで言い切って良いものか。
JRF 2008年6月 4日 (水)
ヨブは「わたしより若い者らがわたしを嘲笑う。彼らの父親を羊の番犬と並べることすらわたしは忌まわしいと思っていたのだ。」という。こういった差別意識は現代に生きる私からすると潔白なように見えない。思い出して見れば私にもそういうところがあったという反省がならばわかるが…。
JRF 2008年6月 4日 (水)
ヨブは自分に姦淫の罪があれば「わたしの子孫は根絶やしにされてもよい。…わたしの妻が…よその男に犯されてもよい。」とまでいう。たとえ自分に罪がないからと言っても、そこに厳罰を認めることは、結果、他者に暴力を加えることを許すことにならないか、などと私は考えてしまう。
JRF 2008年6月 4日 (水)
あと、蛇足だが、ヨブの言葉に「太陽の輝き…を仰いでひそかに心を迷わせ口づけを投げたことは、決してない。」とあるが、当時そういう習慣があったことがわかって興味深い。でも、これを裁かれるべき罪だというのは、そういう人々を呪っているのと何が違うのだろうか。
JRF 2008年6月 4日 (水)
まぁ、確かに大した問題ではなく、そういう部分も持っているのは、人間的だという点は好意すら抱ける。そこもまたヨブが義人たる所以なのかもしれない。
JRF 2008年6月 4日 (水)
ヨブは、当時その辺境にあった、矛盾がほの見える様々な「神」や「死後」に関する概念について、意味をつないでみせた。それは「強い人」がある種の精神状態に陥ればできてしまうものなのかもしれないなどと私は想う。
JRF 2008年6月 4日 (水)
だが、そうやって通ったスジは、果たして生きていくものにどれほど意味があるのだろうか。現実的な方向だけから見れば、他の地方から来るものに迷わされないで済むといったメリットがあるだろうか。
JRF 2008年6月 4日 (水)
でも、これまで場合に応じて否定することで守られていたモラルが守られなくなるという面があるかもしれない。
JRF 2008年6月 4日 (水)
死に至ろうとするものに「何かができた」と思わせることは精神に良いことだと私なんかは思う。年をとったヨブと三人の友人にとってみれば、実は心安らかになる結果が得られたのかもしれない。
JRF 2008年6月 4日 (水)
でも、これから先、つながれた意味を生きる若い世代は、本当にそれでやっていけるのだろうか。
JRF 2008年6月 4日 (水)
ここでヨブ記には若いエリフが「突然」登場することになる。エリフの論は後代の挿入だという説(むしろ定説)があるが、いずれにせよ若い世代がどう感じたかが焦点となる。
JRF 2008年6月 4日 (水)
そしてエリフのあとは、いよいよ神が直接ヨブ達に語りかけるシーンとなる。
JRF 2008年6月 4日 (水)
しかし、この「神」をどう捉えるかは私にとっても惱みどころである。この書がつくられた当時の雰囲気において神を登場させるのには、どのような意図があるとして良いのだろうか。一種の預言のように読むべきなのだろうか。
JRF 2008年6月 4日 (水)
……。
JRF 2008年6月 4日 (水)
さて、さらなる論争が続くヨブ記ですが、今回一週間程度にわたって続けてきたアバウトミー上での私の読みは、これで一端終了ということにします。
JRF 2008年6月 4日 (水)
エリフについては、今回書いたことをブログ記事にまとめたあとに、その記事を批判的に読む過程で、読もうと思っています。それが、いつのことになるかは…わかりません。
JRF 2008年6月 4日 (水)
これまで読んでくださった方、ありがとうございました。(全体を読んでいた方はいないとは思うのですが)。ただ、ひき続きアバウトミーには日々書き込む予定ですので、これからもよろしくお願いします。
JRF 2008年6月 4日 (水)
……。
JRF 2008年6月 4日 (水)
さて、明日は街に出るか。
JRF 2008年6月 4日 (水)
エリファズはヨブにいう。「あなたは兄弟から質草を取って何も与えず、…あなたはいう「神が何を知っておられるものか。」…」ヨブは義人であると読者は知っている。おそらく周りの者もそう気付いている。とするならば、エリファズが述べているのは誰の「罪」なのだろうか?
JRF 2008年6月 3日 (火)
「清くない者すらあなたの手の潔白によって救われる。」と述べるとき、まず救われようとしている者は誰なのか。
JRF 2008年6月 3日 (火)
「世の中には応報がある。人為を超えた応報がある。」と信じさせようとしてきた者が現実に認識するのは、自らが応報の行使者になりながら、その受苦者となることをこばもうとする意志の葛藤である。
JRF 2008年6月 3日 (火)
その葛藤が、エリファズの言をねじまげる。
JRF 2008年6月 3日 (火)
エリファズには指導者としての責任があるだろう。その強迫された余裕が発言に善意の衣を着せている。
JRF 2008年6月 3日 (火)
ヨブはその矛盾に人為の「応報」をすべきだろうか。
JRF 2008年6月 3日 (火)
ヨブはまず自分に罪がないことをもう一度述べようとする。真に苦しむものは正義を求めながら「自分は犠牲になってもいい」などとは言わない。「なぜ、滅ぼし尽くされずにいるのか。」そこに希望を敢えて見出す。
JRF 2008年6月 3日 (火)
…いや、違うな。そこに希望を見出そうとするのは、本物の苦境を知らず、「真実」を受け容れられない私だ。ヨブは希望がさらに裏切られるように自分を追い込むことはしない。滅ぼされるまでにさらに苦しむことになるかもしれないという予感を呼びおこし、憤る。
JRF 2008年6月 3日 (火)
共に不正にあずかっているという幻想をうち砕きながら、憤る。
JRF 2008年6月 3日 (火)
そして全能者の力を痛みとして自分の中に抱きながら、それが信じれるなら痛みがヒドくなるかもしれないことをわかりながら、全能者の働きのない現実を非難する。
JRF 2008年6月 3日 (火)
…正義になお期待しているという見方もできることは指摘しておく。
JRF 2008年6月 3日 (火)
ビルダドは述べる。「神は…最も高いところに平和を打ち立てられる。…人の子は虫けらにすぎない。」
JRF 2008年6月 3日 (火)
ヨブは答える。
JRF 2008年6月 3日 (火)
人を助けようとしたことをあるだろう。たとえ、それが裏切られる結果に終ったとしても。大人になって、そういった思いを捨てていたとしても。
JRF 2008年6月 3日 (火)
人の子が、ビルダドのいう「虫けら」のわけないだろう!
JRF 2008年6月 3日 (火)
今までの議論で、「創造主」に対する信頼が薄れてしまったかもしれないからうれしくないかもしれないが、私は「あなた」からも「創造主」の息吹を感じるよ。
JRF 2008年6月 3日 (火)
どうしようのないもの(そんなものがいたとして)も、生かされている。
JRF 2008年6月 3日 (火)
世界はワンダーに満ちている。
JRF 2008年6月 3日 (火)
だから…。
JRF 2008年6月 3日 (火)
これから先も生きていく者が、そんな哀しいこといわないでくれ。
JRF 2008年6月 3日 (火)
そんなふうに、ヨブは「怒って」いるのだと思う。
JRF 2008年6月 3日 (火)
ちょっと、多幸的解釈すぎたかな。
JRF 2008年6月 3日 (火)
次で、ひとまずの区切り…。
JRF 2008年6月 3日 (火)
ツォファルはなぜヨブの答えを「非難」と感じてしまったのだろう?超然としようとすれば、できたはずなのに。ヨブが望む「黙っている」に近いことができただろうに。
JRF 2008年6月 2日 (月)
私は幽霊だとか救い主とか、はっきり言ってしまっているが、ヨブはそんなことは「実は」言っていない。
JRF 2008年6月 2日 (月)
彼らの時代には、というか、普通の世間にあるように、矛盾のある言説が流通していただろう。人々は自分の中でなんとか折り合いをつけ、いくつかの言説はばかげたものとして斥けていくものだ。
JRF 2008年6月 2日 (月)
というか、ある種の概念については嘲笑を自らのうちに抱くようになっているかもしれない。
JRF 2008年6月 2日 (月)
そうして内心シニカルに見ながらも、世間体から「うそ」(っぽいこと)でごまかすこともしている。それなのに、そういった概念をヨブがうまくすくっていったように見えた。
JRF 2008年6月 2日 (月)
そこから反省することで自分の罪が意識されたということだろうか。
JRF 2008年6月 2日 (月)
言説だけではない。応報という概念は、言説ならぬ事実さえ矛盾しているように映っていただろう。言説の通りに事実は起こらないし、事実を解釈した言説は互いに矛盾する。
JRF 2008年6月 2日 (月)
ヨブが言説をすくいとったことは、ある人にとっては希望になったかもしれないが、ツォファルにとっては、そうでない側面があった。救いなどあってはならないという思いもあったのかもしれない。
JRF 2008年6月 2日 (月)
ツォファルはヨブに非常に特殊な知的訓練のあとを読みとろうとしたのではないか?そうやって自分が納得したかったのではないか?
JRF 2008年6月 2日 (月)
「…ヨブがそうでないならば私がやってきたことは何なのだ。私に救いはないのか?」
JRF 2008年6月 2日 (月)
他の二人が三度発言するのに対し、ツォファルは二度しか発言しない。形式が崩れているともいえる。しかし、そのツォファルへのヨブの答えらしきものは他の二人への質問のあと答えられるが、これまでのような「答え」はないように見える。答えがないのが答えだという気はないが、これまでとは違う。
JRF 2008年6月 2日 (月)
ツォファルの「問い」にあるのは「あなたは私と同じだ」という責めではないか。ならば、ヨブへの非難は、すなわち自らへの非難となってはねかえることになる。
JRF 2008年6月 2日 (月)
ここからの三人とヨブとの問答は、ヨブへの「地獄往き」のすすめが、それを下じきにしながら、「告白大大会(!?)」ってちゃかしたらだめだが、自分達の罪の記憶というものに焦点がうつっていくと見ていいのではないか。
JRF 2008年6月 2日 (月)
金山でどういう労働がされているだろうか。銅の製錬がおこなわれている村の周辺に病はなかっただろうか。「工場」ではどういう人々が働いていたのか。街のほんのはずれにスラムのようなものがなかっただろうか。
JRF 2008年6月 2日 (月)
そういったことに気付かずすごす人がほとんどだったのだろうか。それとも、あたり前に目の前にあったのだろうか。
JRF 2008年6月 2日 (月)
知っているということが罪と向き合う鍵のようなものだたかもしれない。黙っていることが労りとは、実感として持つものがいただろう。
JRF 2008年6月 2日 (月)
「私はそうではないが、逆らったからといって不幸になるわけではない。お互いそういう生き方がある…でやってきたではないか」というのがヨブのツォファルに対するとりあえずの答えではないか。
JRF 2008年6月 2日 (月)
その場の重い雰囲気はなくなった、なくなっていっているかもしれない。でも、ヨブのところから帰る人は、このままでは、現代の鬱のようなものをかかえて過ごすことになるのではないだろうか。
JRF 2008年6月 2日 (月)
ここまで読んだ人は、ヨブ記だけは最後まで読んでおくように。
JRF 2008年6月 2日 (月)
ヨブ記を読む人は、ヨブに自分を投影してしまう、とあったが、それは本当だと思う。私にもあてはまっている。もちろん、ヨブだけでなく、その「周り」についても私の世界理解のようなものが反映されているのだろう。
JRF 2008年6月 2日 (月)
人の怒りは厳しく受けとめ、自戒としていく。「普通の大人」ならば、いってしまえば、それだけだ。自戒となっていれば、何かの対策を講じるなどしていくうちに徐々に状況が、自分が、改善されていく。
JRF 2008年6月 1日 (日)
しかし、怒りに対して、反発によって隠さねばならないほどたじろいだり、卑しいと見てしまうほどおびえたりする人々、場合によってそうなる人々がいる。その背景には、暴力の記憶があるのではないかと私は勘ぐる。
JRF 2008年6月 1日 (日)
いや、そもそも怒りとは暴力に結びつけるべきものであり、そう受け取らなくなった私のほうがひねくれてしまっているのだろうか?
JRF 2008年6月 1日 (日)
正しい結果ならば受けいれる。何かが怒るとき、そこには、慣習的なものにすぎないかもしれないが、正しさがある。それは受け容れる…いや、私だけならば受け容れても良いだろう。私はそういう人だし、そうありたいと思っているとさえ言っていい。
JRF 2008年6月 1日 (日)
それは社会への信頼と言っていい。だが、その怒りが家族や他人に及んでいるなら、私が黙っているのが正しいことだろうか。それでも今の社会ならば私は、より正しい方法を探しながらも、それが自分の身辺に起こったという結果には、納得…、いや、受け容れるだろう。
JRF 2008年6月 1日 (日)
人を嘲笑するためだけに怒りを偽装して、何かができるなら、恐らく怒りがなくても、それができる。怒ったものが嘲笑しているとしても、それは嘲笑のためになされたのではなく、怒っても埋めきれない思いを嘲笑で埋められないかと試しているだけだ。
JRF 2008年6月 1日 (日)
少し人間理解がロマンティックすぎるだろうか?でも、指導的立場にあるものはそういった幻想をひきうけなければ、生命がない。それが人間社会の一面ではないか。
JRF 2008年6月 1日 (日)
「生命がない」……。それは本人達にとってはもはや暴力ではないかもしれないが、周辺に生きる者の中には必ず暴力としてそれを記憶する者が出てくるだろう。
JRF 2008年6月 1日 (日)
暴力の記憶へのおびえから来る暴力はもちろん正しくない。だが、その元となる記憶として「だけ」残る「暴力」は裁けない。
JRF 2008年6月 1日 (日)
…それは正しいはたらきとさえ言っていい。
JRF 2008年6月 1日 (日)
ならば、その「おびえ」も正しいものと受け容れるべきなのか?
JRF 2008年6月 1日 (日)
その「おびえ」は裁きがありえないことの永遠の不安、と言ってしまってよく、その解消として「救い主」の待望が生まれたのではないか。という仮説を今思いついたのだが…どうだろう?
JRF 2008年6月 1日 (日)
ビルダドとヨブの二回目の問答。一回目が裁判に関するものでそれが継がれていると考える。で、「嘲笑」に対するモチーフとして「怒り」があり、そこを詰めた結果が「贖う方は生きておられ…立たれるであろう。」にいたる、と。あと岩や石碑のイメージは支配権とその交替が表されているのかな、と。
JRF 2008年6月 1日 (日)
で、そういったことを頭に入れながら、テツガクすれば何かもっともらしいことが言えるだろうとやってみたのが今日の読みだった。
JRF 2008年6月 1日 (日)
次は、いろいろな人にいろいろなストーリーが与えられている。それで悪いか?って話になるのではなかろうか。支配者だって一人の人間だしね。ってことで。今回のところまでで、もう少し身分制度みたいなものに踏み込んだほうが良かったんだろうか…。
JRF 2008年6月 1日 (日)
何はともあれ、つづく…。
JRF 2008年6月 1日 (日)
昨日の書き方で、当然出てくる「失われたもの」をとりもどすのに暴力的なものを使うのが有効かという点について。
JRF 2008年6月 1日 (日)
支配の移転ということまでが「法」的に正しいとすると、「失われたもの」を強制するというのは結局、新しい「法」で対応するという枠でとらえられると考える。
JRF 2008年6月 1日 (日)
そうなったときそれが「失われたもの」に対応するとはいえ、それとはまったく別の機構を持つものだと思う。ただそういった「裁き」の対象となるものではなしに、付随的に出てきた「おびえ」のようなもの、それは、むしろ「失われたもの」に直結することがあるように思う。
JRF 2008年6月 1日 (日)
しかし、その「おびえ」のようなものが、どういう具体的な形になるかは、偶然の作用が強く、たくんで「失われたもの」を復活させるというのはできない。(というか、たんくんでなされればそれは「法」のようなものとなって、まったく違う原理の支配するところになるというのが私のいいたいこと。)
JRF 2008年6月 1日 (日)
その「おびえ」が一度できてしまえば、それを生長させるという対応はありえるのだと思う。…ちょっと、錬金術っぽいかな。だから、まぁ、先の問いには「不可能ではない。すぐにはムリだが…」と不本意ながら答えることになると思う。
JRF 2008年6月 1日 (日)
もう一点。怒りを自戒と結びつけることについて、少しはっきりしないというかもやもやしたものが私の中に残っている。「自」戒とするというのは、戒めをそのもととなった「怒った人」(の権威)に結びつけないということ。
JRF 2008年6月 1日 (日)
それを結びつけようとすることは控えられるし、控えるようになる構造があるように思う。
JRF 2008年6月 1日 (日)
ただ、それが「自」戒とすることの意味だと受けとられると、私の中の感覚とは違うなぁ…ともやもやする。
JRF 2008年6月 1日 (日)
「控えるようになる構造」…いや、それがむしろ私が明らかにすべきことで、先の「法」のようなものの作用ではないか。
JRF 2008年6月 1日 (日)
…が、その辺は私はまだまだ力不足だから、さくっと先に進もう。
JRF 2008年6月 1日 (日)