aboutme:71127
「あえて外道に堕ちる」ことを受け容れるというのは、どれほど真剣に深刻な気持ちを伴っていたとしても、自分のみで終れないし、自分もそこで終れるはずないのだから、後々「堕ちる」ことの軽視、偽善化へとつながることを恐れなければならない。そこに「悟り」というものはあってならないだろう。
JRF 2008年7月24日 (木)
「あえて外道に堕ちる」ことを受け容れるというのは、どれほど真剣に深刻な気持ちを伴っていたとしても、自分のみで終れないし、自分もそこで終れるはずないのだから、後々「堕ちる」ことの軽視、偽善化へとつながることを恐れなければならない。そこに「悟り」というものはあってならないだろう。
JRF 2008年7月24日 (木)